母との別れは遠くはないと覚悟していたつもりだった。。。

私は私が脳梗塞になる前の仕事が病院に勤めていたから、母の状態や
今後の流れはカルテを見なくても頭に入っていた。
グリーフケアも終活も傾聴も学んでいた。

母と最後に会話をした前日は病室で目もよく見えてなかったのか、
認知症もないのに私を認識するのに時間がかかった。
交わした言葉も私達母娘ならではの、漫才みたいなやり取りもあった。
退院後は母の状態に合わせた食事を提供してくれる、母の気に入りそうな
施設の短期入所も決めていて、母もその気になっていた。
母の使うものを売店で買って戻ろうとした廊下に普段我慢強い母の
『痛い。もう嫌だ~』と大声で泣き叫ぶ声が響いていて。。。
顔を見て帰るのが辛くて、退院も3日後だったから〈今日は帰ります〉と
買い足したものをナースステーションに置いて帰ったから苦しんでいた母の声が

今も時折私の記憶と耳に鮮明に甦る。

思い返してみれば夏から半年持っただけでも奇跡で、母の最期は気づいた一瞬で
意識が飛んで痛みも苦しみもなく逝けたそう。せめてもの救いだったのは
笑っているかのような口元で、私の耳と心が覚えている苦しんだ様子は
一切感じられなかった。

悲しいは一切ないのに、母と笑って2人で過ごしてきた10年。
葬儀も49日も無事に終わっても、気持ちが未だに追いつかず。。

親族も友人もこれからは私の人生だけを考えてと言ってくれるけれど。。。

母がいなくなってからの私の人生を自分事として考えてなかった。
母のいない世界はただただ淋しい。

私が病気になった時にリハビリを頑張れたのも、母ががどれだけ

私の心配をしてるか知ってるから、やれる限りをやれた。
退院後に私の体調が悪い日も、母が待っているから約束した時間には

必ず行くようにした。

悲しいはなくても淋しいに飲みこまれてしまいそうで、
母の体力や気力があるうちにやれた事が沢山あった気がして。。。
最後の最後まで私は母に素直になれなくて。。。

笑って見送るって決めていたのに泣き叫ぶようにしか母に声を掛けられず、
動転している私の気持ちをどうにか落ち着けようとすることしかできず、

ありがとうって言葉伝えていなかった気がしている。
撮ってきた写真を見ると、最後の3か月は母の表情にすっかり生気がなかった。
私は今まで何を見ていたんだろう? 考えても母は戻らないことも、私より
苦しい別れ方をした人が世の中には沢山いるのも知っているのに。頭と心と体が
バラバラな状態が日常に戻っても続いていた。



更年期、体調不良、皮膚病、葬儀や手続きに関する疲れ、心の整理、
現在の生活環境での慕ってた方々の退職なども重なり、何より私が退院
してからの生活は母と過ごす時間を極力作っていた分、時間の使い方も
含めた生活に慣れるのに時間がかかった。


母は私にいつも悪いとか迷惑をかけるとかばかり気にしていたけれど、
私を呼ぶ声や表情が穏やかで安心したような表情や笑いがいつもあったから
気にした事なんてなかった。

私は母に心配をかけないよう守っているつもりでいたけれど、
母に守ってもらっていたのは私だった。

母を見送って4か月が過ぎ、寒かった季節から母の大好きな桜が
咲く季節になった。淋しいの形が変わるのはもう少し時間は
かかりそうだけれど、私は私1人で生きていく覚悟を整えている。

母の元気で動き回ってる頃から、弱っていく姿まで一緒に過ごせた
おかげで自己管理の重要性を痛感した。

母が最期の入院をする直前、自己管理が乱れ数値にも出ていた私。
脳梗塞になる前も極端な我慢が食欲に反動をつけ、体重の増減が激しかった私。

体重が増えれば血圧やコレステロールなどの再発リスクが上がる。
母が1人で動き回っていた頃から、母の体の異変に気付くのはいつも私だった。
薬を増やすことは対処療法でしかなく、数値は一時的に良くなるだけ。

食事を含めた生活を自分でコントロール出来れば、ある程度の生活が維持出来る。

病気は付き合い方を自分で理解していないと、周りが出来ることは限られている。
母との別れをキッカケに私自身の体と、食事を含めた生活の付き合い方も調整中。
コロナ禍になって以降、我慢多めな生活が中心になってしまった母。
それでも私のために生き抜いてくれた母。

母と行く予定にしていたコンサートに私の心と体のリハビリで行ったり、
母の好きだった味をお供えしたり、花を切らさず備えている。
花の手入れは母から教わっていた。

私なりのアレンジを加えて1か月は持つ花も出てきた。
花の手入れは得意ではなかった私から想像できないよね。

母と花見が出来なくなって4年。
今年の桜は長く咲いていて、どこも綺麗で見上げると母の嬉しそうに
感嘆の声が聞こえてきそう。もう我慢も痛い思いもしないで、父と祖父母と
毎日楽しく笑っていたら嬉しいなぁ。母がいなくても私は私。母の子供に
生まれて本当に幸せで、十分に愛して貰ったし大事に育ててくれた。
一緒に過ごした時間を誇りに、残った私の人生をこれからも私らしく
楽しく笑って生きる。

 

無理矢理消化しようと頑張ったり無かった事にしようとすると、
私の感情が爆発する思考癖も知ってるから今回は押さえつけず共にいる。
淋しいは私の母へ対する愛情ありきで、私のこれからの人生を歩んでいく中で
自然と変化していくね。両親を見送ったから、子供としての役割は大体が終わった私。

 

葬儀の前日に母の大事にしていた親族が集まって、大騒ぎ('◇')ゞ
いつもなら人の中心で嬉しそうにしている母は眠っていたけれど、目元も口元も
笑っていた。一緒に撮った写真が沢山で貼り切れなかったけど、
私の心の中には笑って過ごした母がずっといる。

時折淋しさはやってくるし、涙はでるけれど日常では沢山笑うようになった私。
これからは、たまに遠くから見守ってくれたら、それでいい。
最後の最後まで本当に頑張ってくれてありがとう。
お母さん、またね。



自他ともに人と縁には恵まれている私。
当たり前だとは思っていないし、言葉にすると一言では足りないくらい本当に感謝している。
それぞれの状況や生活がある中、入院中、退院後も不安定だった私の段階を見守りながら接してくれた。

従姉、親戚、友人も含め支えてくれた方には素直に感謝が出来るのに、どうしても感謝どころか暴言を吐いていた相手は海外で生活をしている弟。


本日は傾聴からのエンカウンター。
話したことは弟と関係ない話なのに、しこりのような固い私の握りしめた手の中。
弟とのやり取りを思い出すだけで腹が立ち、涙が零れる。
見たいけど見たくないようなこの感情、「私の本音はどこにあるんだろう?」って、私自身に問いかけた。
 

 

私は大事な人に強がることで「淋しい」を打ち消そうとした。
子供のころから弟はいつだって私に優しい。
私が淋しいって言ったら心配をかける。強い姉でいたかった。
任せて安心の姉でいたかった。

病気になって、私の小さなプライドなんて小さすぎで馬鹿みたいって思ってたはずなのに。。。

帰宅して食事を美味しく食べて、もう一度私自身に私の本音を聴いてみた。
今は淋しいより一番心配してくれた弟に心からの一言を伝えていない。

最初の2週間は誰と話していても涙が溢れ、頭の中は今までとまったく変わらないのに、舌も含め麻痺があり話していても聞き取りづらかったり頭と話すスピードに時差があった時期。おまけに脳梗塞の出来た場所や大きさから平衡感覚に影響が出て右目、右手も思うように動かせない時期。

私に病気になって諦めた小さなプライドよりも病気になってからも私はありがたいくらい人に恵まれてると気づかせてくれたのも弟だった。泣いていいから諦めるな今が出来なくても1年後2年後に続けた先に繋がるんじゃないかって俺は思うって電話の度、説教に聞こえたりもした。前々、そんな素振りは感じられなかったけど、私と弟は似てる部分と全く異なる部分がハッキリしていて、弟も弟の嫁いわく相当私の事を心配していたそう。それを伝えてくれた弟の嫁にもありがたいと心から溢れた。

弟には弟に対してだけどうしても素直になれなくて、今日の今日まで放置してた一言。ずっと心配してくれてたのに退院後も強がることを選び大人げない言動をしてごめんね。から文章の始まりにした。感謝してることもありがとうも思うままに伝えた。最後は健康な時こそ違和感があったら早めにケアするように伝えた。なってからでは間に合わないこともあり、冷静でいるようでパニックになると弟のがあわてんぼう。私は普段は弟の生活に口出ししないけれど、朝が早い上に車移動が必須の弟。健康な時は健康でいるのが当たり前に続くと私自身も疑ってなかった。弟には元気でいて欲しい。

やっぱりナノさんから学ぶ傾聴は深かった。



傾聴からのエンカウンターはナノさんの傾聴に関する講座の中で、傾聴講座に参加したことがなくても知人がいれば誰でも参加できます。アドバイスもジャッジもなく、安心安全に自分の本音を触る体験をしてみませんか? 





 

2022年夏も残暑に移り変わる頃、私は脳梗塞を発症した。

 

 

今までの病気と異なり、最初の1週間は自力で起き上がることも

寝返りをすることも身体の左側には一切力が入らなかった。

この写真を撮った時もベッドの柵に右手と右足でバランスをとって横を向いた。

頭の中では普通に言葉があるのに、口に声を出すと思うように口を動かす事も

スピードも遅く、目の前にある水にも右手さえ手が届かない時は生きている心地
がしなかった私。おまけに私は前庭動眼反射(飛行機で気流が悪い時に機内が揺れて、
視点が定まらず目が回る感覚)が酷く、意識があると頭や目が常に回っていて気持ちが
悪かった。

 

退院後は本気で施設入所も考えた私。ベッドから起き上がることも1人ではできないのに、リハビリ病院へ行けば歩ける様にはなると言われたけれど、急性期病院からの紹介状には検査の結果杖を使っての歩行と左上肢、脳には重度な後遺症が残る可能性大と書いてあったそう。話し方こそ、若干遅かった時でも、どう話を切り出せば内容が知れるかは経験上の知識が役に立った。表面上では理解している風をしていたけれど、【 検査データだけで、私の大事な人生勝手に決めるな!!】と腸は煮えくり返っていた。当時は怒りをバネにしなければ気持ちが折れそうなくらい緊急事態だった1年前。

 

リハビリ病院でリハビリをしたのは私だけれど、私は病気前から人と運には恵まれていた。病気になって自分のために地味なトレーニングを続けるのは限界がある。簡単には何も出来ない。今では信じれないけど、スタートは紙コップさえ重たかった。左指は第2関節から固まっていたし、私の思うペースで体は回復しないのは私にとっては情けないやら悔しくて。地味なことさえできなかったりすると笑い飛ばしていたけれど、情けなくて悔しくて思わず涙が溢れたこともあった。それでも諦めないでいられたのは、私を心配して見守って応援して、信じて待ってくれた人が沢山いたから。不安定だった私を支えてくれて本当にありがとう。

 

今までのように飛んで行くことはできないけれど、私を心から思ってくれたように私も私の大切な人が元気で笑っていられるよう、今まで通り私にできる限りで生きていきます。食に関しては食べる量や内容を今までの半分くらいにして、工夫はしているけれど。バスも電車も1人で乗れます。先日は一度は諦めた大好きなお菓子教室の粉工房さんへ、一番仲良しだった先生と参加。
粉工房のお菓子は先生の優しさが溢れていて、見ても食べても幸せ。


K先生との時間は笑ったり笑ったり、私が不安定になるとで泣き虫モードは泣いたりしながらの日々。私が退院してから静かになったそう(汗)子供が初めて参加しましたのような、私を嬉しそうに写真を撮っていたK先生。またいつか会えたら、うれしいなぁ。

現在はデイサービスで体力づくりをしたり、就労移行支援で社会復帰の準備をしたり、弱った母の所へ足を運んだり、傾聴の学びで現在の自分の課題を確認したりしています。脳梗塞の後遺症自体が、患者が感じる感覚で個人差があるそうで、気にするとキリがないので調子が悪ければケアをする習慣をつけました。長時間立っていることや移動には少し時間はかかるけれど、私の今のペースがわかってきました。

病気になる前の私は努力をすればある程度は何でも1人でどうにかできると勘違い甚だしいコッソリ尖った一面があった。。。 病気になったことで、沢山の感情と愛・思いやり・優しさ・強さと循環を学んだ。病気にならなかったら傲慢な嫌な部分を隠していた気でいたかも。 やらないで諦めるは私の辞書にないけれど、努力の限界や自分本位ばかりでは生きて行けないことが身に染みた1年だった。

ありがとう!!




 


2回目に運ばれた病院でも私のTIA(一過性脳虚血性発作)は
治まっていて、念のため検査入院と言われた私。問題がなければ

明日の昼には退院っていってたのに。

 

病院の夕飯を食べて眠る前に普通にお手洗いへも行けた。

なのに、蒸し暑くトイレに行きたいと起きた早朝。

私の左半身は硬直が始まり、構音障害(頭では理解してるが

声にすると唇から顎にかけての麻痺で言葉にならない)がでていた。

 

慌ただしく検査をすると、急性期の脳梗塞で2週間安静の点滴治療と

だけ言われたものの、ようやく起き上がらせてもらっても体が船に
乗っているかのように揺れているのが自分でも解った。

 

看護師も看護助手も私の部屋の隣が詰所だったので、「救急で運ばれた
●●さん、やっぱり出ちゃったんだ。若いのに可哀そうね」と噂話のように

毎日話題になり、【眠って起きたら全て忘れてしまうんじゃないか?】と
不安で怖くて夜になると2.3時間しか眠れず、昼間にうたた寝をする程度。

横になるとグラグラが激しくなり、医師に申し出るも「脳梗塞だから
仕方ない」とだけ言われ、私の病院に対する不信感はピークに達した。

沸点の低かった私は悔しくて気づくと嗚咽して泣いてばかりだった。

コロナ禍で大事な人には会えず、どうにか動く右手のみ工夫してFBに

吠えたり友人にメールやラインで聞いてもらったり、今までと比べ物に
ならないくらいドン底にいた。

 

 

 


 

2022年の年始は母を救急車に乗せて、病院巡り。
私自身も同じ業界で転職をして、ようやく母も落ち着いてきた夏。

 

私自身が1日2回救急車に乗るなんて…

笑い話にするつもりでいたのに、私の体は限界だったようで

 

2022年8月17日に目覚めたら、私は構音障害と左半身不随。

脳は正常に回転しているのに、頭に言葉は浮かぶのに、声を出すと

まともに話すことができなかった。

 

感覚はあるのに、力が手足にも寝返りさえ打てない状態になった。

2022年夏 

私は私自身の体と向き合うことになった

 

 

右には麻痺もなかったけれど、目を開けているのもやっとだった頃の私。