明治維新はわが国近代化のターニングポイントとして誰もが評価する大変革でした。廃藩置県から明治憲法発布まで、西洋列強に飲み込まれずに対等に存立するため、数々の改革を断行していきました。

 しかし、これらの変革の中で明治元年3月に発令された神仏分離令に始まる、神道の国家神道化への政策は記紀神話の原理主義とも言えるもので、廃仏毀釈により日本の伝統的な文化と人心の破壊を招きました。

それは皇統とその功臣のみを神とし、それ以外の神仏は廃滅の対象とするという、それまでの日本の歴史と成り立ちを否定した、暴挙と言える政策でした。

その後、民衆や仏教界の抵抗、諸外国からの圧力により、下火になり明治憲法にも信教の自由が認められていますが、一度発令された神仏分離令の残した制度はそのまま超宗教の国家神道として機能しつづけました。


1:寺院破壊の実態

神仏分離令は明治4年の廃藩置県の前に発令されたため、藩によってその実態に差異があります。

薩長土肥等、維新の指導的な立場にあった藩ほど破壊が激しく、薩摩藩ではすべての寺院に廃止令が出されました。土佐では寺院総数615ヶ寺のうち、439ヶ寺(70%)が廃寺となりました。九州では今でも古刹と言える寺院は有りません。

修験道は日本古来の山岳宗教が本地垂迹説により仏教と融合したもので、むしろ仏教のほうが日本化したと言うべきなのですが、修験道場の金峯山寺蔵王権現、羽黒権現、金毘羅大権現、英彦山権現、愛宕権現等、修験の寺は強制的に神社に変えられました。

又、鎌倉鶴岡八幡宮寺、石清八幡宮寺、竹生島弁財天等、多くの神宮寺が強制的に神社に変えさせられました。

このように全国の半数以上の寺院が廃寺となりました。

梅原猛氏によれば、この時日本の文化財の2/3は破壊されたと言っています。

そして残った寺院も明治4年の上知令により、古来より所有していた寺領を政府に取り上げられ、由緒ある寺も維持することが困難に成りました。


2:明治政府太政官の内部抗争と国家神道の成立

太政官内部の神学論争は顕界は天皇家、幽界は大国主命の領域と規定し、伊勢神宮派と出雲大社派の2派に別れて抗争しました。

国家の祭神は、造化3神と天照大神に、大国主命を加えるかどうかが抗争の争点となりました。この論争に薩摩、長州、津和野の各藩や後期水戸朱子学派、平田後期国学派が入り乱れて争い、収拾が付きませんでした。

最終的には明治14年に明治天皇の勅裁と言うことで、国の祭神に大国主命を入れない伊勢神宮派が勝ち、『顕幽』の論議はその後は禁止され、国家神道が成立しました。

そして前後して全国に国家によって神社を建立していきました。主だったものは下記の通りです。

白峯神社      明治元年

東京招魂社    明治2年      明治12年靖国神社に改称

湊川神社      明治5年

吉野神宮      明治22年

橿原神宮      明治23年

平安神宮      明治28年

明治神宮      大正9年

乃木神社      大正12年

近江神宮      昭和15年

昭和14年の内務省令により戦没者慰霊のため各府県に1社、内務大臣指定護国神社を設立し、それ以外の村社を指定外護国神社としました。

海外

台湾          社格あり 68社    社格なし 200社

朝鮮          社格あり 82社    社格なし 913社

満州           295社

樺太           127社

ミクロネシア       29社


3:神仏分離令の発せられた背景

一般に幕末、明治維新のときに一部の指導者を神仏分離・廃仏毀釈の狂気に走らせた背景に後期国学者、後期水戸朱子学者の存在があると言われています。

この時の状況を作家の司馬遼太郎は下記のような論旨で述べています。

『中華ナショナリズムによる宋学の亡霊のような水戸朱子学が封建制の壁をぶち壊してしまった。その唯一のキャッチフレーズは尊皇攘夷と言う、決して自讃に耐え得るものではなかった。この矛盾がその頃も、その後も続き、そして今もどこかにある。』

このような水戸学や国学は当初はこれほど過激な『学』ではありませんでした。

国学は真言密教僧の契沖が水戸光圀の要請により元禄時代に「万葉代匠記」を著し、実証的な姿勢で「古今余材抄」、「和字正濫抄」、「勢語断」「源註拾遺」等膨大な書籍を著した事が基礎となりました。

契沖は曼陀羅院妙法寺を弟子の如海に譲り、円珠庵に退きましたが、末期には庵を弟子に引き継いでもらう事、遺品の書籍等を誰彼に譲ることなどの遺言を残して僧侶としての人生を全うしました。

そして、加茂真淵とその弟子本居宣長は「万葉代匠記」を読み、そこに大和の心と、この国の成り立ちを見出そうとしました。

宣長は契沖が水戸光圀の出仕の話を辞退し、生涯無我、無私を貫いた孤高の生き様に感銘を受け、契沖のその他の書籍を全国に捜し求めたと言われています。

そして、加茂真淵、本居宣長はそれぞれの国学を纏め上げました。

本居宣長は遺言に自らの葬儀、墓、追善供養にまで細やかに指示をしています。

葬儀は本居家菩提寺・浄土宗 樹敬寺で仲の良かった住職宝樹院の読経で行うこと、戒名は「高岳院石上道啓居士」とすること、墓は樹敬寺境内に立てること、もうひとつの墓は樹敬寺の隠居寺 山室妙楽寺に立て「本居宣長の奥墓」と刻印すること、そしてそこに桜の木を植えること等です。


このように、この時代の国学者には廃仏毀釈を煽動するような姿勢はありません。

その後、本居宣長の自称門人平田篤胤が宣長の「古道論」を「後古道論」に展開してしまい、それが後期水戸朱子学と結びつき、尊皇攘夷、皇国史観を理論付け、神仏分離・廃仏毀釈を導いたたと言われています。


4:個と普遍

哲学として、個と普遍の相互関係を理解することは難しく、ひょっとしたら、個というものも、普遍というものも、共に無いのかもしれない、なんてことになります。

ここでは、日本文明をひとつの個ととらえ、世界の歴史の潮流を普遍的なものとして、述べたいと思います。

仏教の入ってくる前の日本は日本海に隔絶された中で、縄文時代より培われたアイデンティティーを持つ倭と呼ばれる社会の中にいました。

この倭の社会が印度、中央アジア、中国、朝鮮を経て国際的な信仰を得た仏教に接したのです。仏教は同時に文字と国際色豊な文化をも伝えました。

このとき日本人は戸惑いながらも智恵を絞り、自らの個としての存在を見失うことなく、この普遍的なものに融合することに努めました。そして神仏融合の歴史がこの時に始まったのです。それは様々な価値観と存在を包含した曼荼羅のような世界観に自らを組み込ませようとする営みであったと思います。

それを神仏分離は一方的に切り裂きました。


戊辰戦争に敗れた幕府軍は彰義隊の生き残りや同志と共に新天地を求めて咸臨丸で北海道に向かいました。しかし、官軍の砲撃や悪天候のため沈没し、多くの水死者を出しました。このとき朱子学に染まった官軍は賊軍と規定した死者に触れるだけでも厳罰に処すると発表し、助けることも、弔うことも許さず、浜辺に打ち捨てられたままになっていました。元寇の時でさえ、鎌倉幕府の執権・北条時宗は元軍、高麗軍の死者を丁重に弔うように指示し、敵味方双方の供養の為、円覚寺を創建しているのです。

そしてこの時、清水次郎長が官軍の指示に従わず、「神仏になった死者に官軍、賊軍の違いは無い。」と子分を集め、遺体を回収し石碑を立てて弔いました。これは次郎長の義侠心の美談として浪曲になり、今に伝えられています。

官軍のこのような手法は伝統的な日本人の感性とは全く相容れないものでした。


契沖は空海以来の悉曇学を通じ、日本の音韻を最終的に五十音図に纏め上げ、当時千年近く経って解読不能だった万葉集を、実証的に大和言葉で解き明かすことにより、日本文明の個の探索を始めました。それは普遍と通ずる為の自己研鑽ともいえるものでした。自らの個の確立が無ければ、他の個に吸収されるしかないからです。


しかし、後期国学者平田篤胤の著した「三代考」になると「皇国は天地のもとから生まれたのであって、諸外国は少彦明神と大国主命が後から造った国々だから、必ずや天に近い皇国のもとに、諸外国が臣従する筈だ。」と言った珍妙な思想に変形し、勤皇の志士たちを煽りました。

それは、昭和期に平泉澄学派が国粋思想を煽り、北一輝・西田税の「日本改造法案」でもって純真な青年将校を2・26事件に引き入れた流れにつながっていくのです。そして政府や政治家まで暗殺を恐れ正論も吐けない社会となり、マスコミは百人斬り競争のように、架空のニュースをでっち上げてまで、戦線の拡大を煽りにあおりました。

このような、普遍とは何の脈絡も無い独善主義が日本を奈落の底に貶めたのであると思います。


5:終章

敗戦後日本は一転して神風頼みの狂信や独善主義に対して60余年に渡り、反省、自省を余儀なくされてきました。

それは「外国はこうなのに、日本はこんなことではダメだ。」と言った形で執拗に、最初は7年半に及ぶGHQの占領中の日本改造政策と報道検閲により、その後は内外の様々なイデオログーにより、自己改造を迫り続けられて来たわけです。そしてそのため、本意、不本意に係わらず、自らの自己分析を忍耐強く行ってきました。自分自身を知り、理解することが普遍に近ずくことになるからです。


そして、戦勝国になった国々の実態をも注意深く観察し続けてきました。

そこにはやはり、簡単には解き放たれない軛があることに気付きました。それは民族主義であったり、宗教であったり、イデオロギーであったりしますが、それぞれの国が内部に矛盾を抱えているわけです。西欧は民主・自由・平和を謳いながら、15世紀以来、現代に至るまで世界の植民地化、人種差別を続けながら、国益の為に自陣を独善的に正当化して来ました。共産主義国家は平等で豊かな理想の社会を吹聴しながら、史上空前絶後の他民族、自国民の殺戮を行ったファシズムであり一党独裁でした。

このように先ず、自らの来し方を振り返り自省しながら、世界の他の国々の実態・本意を知る事により、我々は普遍に近かずくには自らの何を見直し、何を護り、何を構築すべきかを学びました。


そして神仏融合(印度、中央アジア、中国、日本)の達成で発揮した日本人の智恵で、神仏基融合(西洋、印度、中央アジア、中国、日本)の姿はすでに我々の中に出来上がりつつあるのかもしれません。


そしてこの神仏基融合の姿を、世界の人々に期待され、求められる姿に昇華させることこそが、これからの我々日本人に与えられた使命であると思います。

                                       修行者