水俣の医師原田正純先生から教わったこと | ー 空手を始める人のために ー 福島県郡山市の空手先生奮闘記

水俣の医師原田正純先生から教わったこと


誰にでもできる・桑野空手教室



友人からのメールを転載します。


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NHKのETV特集「原田正純 水俣 世界への遺産」を見ました。



以前から、福島でも水俣と同じことが起こる可能性があると、多くの方が教えて下さっていましたが、番組を見て本当にその通りだと感じました。



水俣の歴史や原田先生の生き方から、とても大事な事をことを学ぶことができました。



貴重な番組を教えて下さりありがとうございました。



番組の内容をまとめてみましたので、もしよかったら読んでみて下さい(長文の投稿になってしまい申し訳ありません)



福島医大の山下教授には、原田先生の爪の垢を煎じて飲んでもらいたい気持ちでいっぱいです。



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原田さんは、水俣病とであって52年、亡くなるその瞬間まで水俣病と向き合い続けた医師。

そして今年6月、急性骨髄性白血病で77歳の生涯を終えた。

番組はその生きざまを紹介したものだった。

昭和36年。原田さんは、熊本大学の大学院生として、22歳で初めて水俣の現地調査に入った。

水俣病とは、窒素の工場廃液によって引き起こされた有機水銀中毒。

昭和31年に公式確認された。しかしその後も12年間チッソは水銀を流し続け行政も有効な対策を取らなかった。

昭和43年。国はようやく水俣病を公害病として認める。

原田さんは水俣病第一次訴訟に患者の立場に立ち、深くかかわっていった。

原田さんは、裁判官を現地に案内して患者の声を聞かせたり、医師の立場で法廷で証言をした。

しかし証言台で、水俣病を病気として説明することに抵抗を禁じえなかったという。その時の思いを原田さんは、こう語っている。

「ハッキリ言って、こういうのは病気というよりも、人間が作った一つの犯罪なんだと思いました。

これは殺人なんです。

それなのに、食物連鎖を通して脳がやられて、今こんな症状があるというような、そんな証言をしてなければならず、矛盾を感じました。」





水俣病と認められるためには患者自らが申請しなければならない。

水俣病か?判定を行うのは医師たちで構成される認定調査会。

第一次訴訟で患者側が勝訴すると。申請する人が急増する。

しかし、認定審査会では、症状が国の基準に満たないとして「棄却」が相次いだ。

水俣病の特徴的な症状は、「視野が狭くなる視野狭窄」。「聴力障害」。「手足の末端の感覚がまひするなどの感覚障害」。そして「運動失調」など。

こうした症状が「複数」そろわないと審査会は水俣病と認定しない。

しかし実際には個人によって症状のばらつきがあり、複数そろう人はわずかしかいなかった。

現在までに申請したおよそ2万9千人のうち、認定されたのは1割にも満たない。

原田さんは昭和51年から認定委員会の委員をしていた。

しかし、審査会の姿勢に疑問を持ち、6年後に審査会をやめる。

人類が経験したことのない公害病に対し、医学的な厳密さを追求するばかりで、患者の救済を考えていないと感じたためだった。

原田さんはこんな風に語っている。

「(審査会は)ある要点だけ確認して、認定して救済してあげればよかった。

医学的な問題はそのあとじっくり経過を見ながら検討したってよかった。

それができなかったから、たくさんの人が被害にあった。

それは患者のせいじゃないですよ。

34年から国は10年間ほとんど何にもしなかった。

その間に重症はほとんど死んでしまった。

それでも生き残った人たちが、「自分たちが具合が悪いのは水俣病じゃないか」といって押し寄せてきたわけですからね。

それはやっぱり10年間の行政が何もしなかったことに対するつけなんですよ。これはね。

患者の申請が増えたからこれは患者の責任だなんていう人があるけれど、それは間違いなんでね。

患者には何の責任もないですよ」

原田さんは、水俣病が「犯罪」なのに、「病気」として、医学の問題だけにされてゆくことに、大きな疑問を感じていた。

水俣病という治らない病気を前に、医師は、審査会を開き、「認定棄却」の決定をする事しかしていない。

そんな医者たちに対して、患者たちが求めたのは、治らない病気を前にした時に、医学は何ができるかという問いかけだった。

原田さんは「医者に何ができるのか?」と、自分に問い続けた。

そして、患者さんを病人として見るのではなく、深い人生史を持った、一人の人間として診ることが、大切なのだと患者たちから教えてもらった。

原田さんはこの時の体験をこんな風に語っている。

「患者たちは治してくれとは言わない。

自分の病気の事は(治らない病気だということは)患者自身が一番よくわかっている。

だから、治してくれと言わないけど、痛みとか、苦しみとか、悩みとか、聞いてくれる人がほしい。

治らない患者さんを前にした時、医者には、そういう存在の意味があると思った。」





その後、原田さんは常に被害者や弱い立場にいる患者のもとに足を運び続けた。

原田さんの言葉に「被害がある所に差別があるのではない。差別がある所に被害があるのだ。」という有名な言葉がある。

この当時、水俣と同じようなことが、日本全国で起こっていた。

例えば、昭和38年に起こった三井三池三川炭鉱塵爆発では、458名の方が急性CO中毒でなくなり、残る839名も、石炭の不燃焼ガス、一酸化炭素ガスの被害を受けた。

この日を境に三池の労働者たちは後遺症に悩み続けることになった。

ところが、会社側は事故の後遺症はほとんどないと説明。労働災害補償を3年で打ち切られた患者たちが続出した。

原田さんは、この患者さんたちのことも、40年間にわたって追跡調査をし、後遺症が長く続くことを明らかにした。

水俣、三池と、弱者が虐げられ被害を受ける構造を見つめ続けたことに対し、原田さんはこんな事を語っている。

「戦後の高度成長を遂げていく中で、技術開発・経済優先の政策がとられた。

かつて日本は植民地経営をやっていて、それがなくなったら、国内に帰ってきて日本を経済成長させようとした。

その中で弱い者たちが被害者となっていった。

水俣も、三井三池も構造はすごく似ているわけですね。形としては片方は公害病であり、片方は職業病なんだけれども、根は同じだと思う」






常に被害者の立場に立ち、取り組みを続けてきた原田さんに対し、患者の側に立ちすぎると、医学界からは批判が寄せられた。

それに対しては原田さんはこんな風に語っている。

「医学は中立でなければいけないという規範がある。

そして、原田は患者側過ぎるという批判がある。

しかし私は、それは非常にありがたい批判だと思っている。

だって医学というのはそもそも何のためにあるのですか?

お互いにおんなじ力関係だったら中立というのはあり得るかもしれない。

だけど圧倒的に力の強い側と、弱い側があった時に、中立というのは実は強い側に協力していることになるんですよね。

患者と国や資本は圧倒的な力の差がある。

中立といって何もしないことがどうして中立ですか?

本当の中立というのは、弱い立場の方に立つということでないですか。」






今年で、水俣病公式確認から56年が過ぎようとしている。

国は水俣病を終わらせなければならないと考え、平成11年7月。水俣病の特別措置法を成立させた。

しかし、原田さんは特措法では水俣病は終わらない。「水俣病はまだ終わっていない」と考え、水俣病と向き合い続けた。

不知火海沿岸には、被害を訴えながら、水俣病に認定されていない人が3万人以上いると言われている。

特措法はこうした人たちをあたう限りすべて救済することを目的とするとしている。

しかしこの法律は非常に問題の多い法律と言われている。

被害者が受け取れるのは、一律260万円のみ。補償金は払うが、国の責任は前提としていない(国の責任は認めず、謝罪もない)。しかも救済の条件として訴訟の取り下げが要件とされている。さらに受付期間は、救済の開始から3年以内を目途とするとされていた。

特別措置法の成立から2ヶ月後、原田さんは大規模な住民健診を呼び掛けた。

被害の全体像を確認するためには、不知火海沿岸のすべての住民の検査を行う必要があると、医師や弁護士たちは国に対して訴えてきた。

しかし国はこれまで一度も実施していない。

今回も原田さんは有志の医師による検診を行わざるをえなかった。

そこに2日間でおよそ1000人が受診してきた。

大半が差別を恐れて隠してきた人たちだった。

検診の結果9割に水俣病に見られる症状があった。






そうした取り組みを続ける一方で、原田さんは自らの病とも闘っていた。

これまで胃がんや食道がんや脳梗塞、急性骨髄性白血病など重い病気を次々と患ってきた。

闘病生活を送りながらも原田さんは常に水俣病の現場に立ち続けた、






原田さんが最後まで残された大きな課題として考えていたのは、特徴的な症状がはっきりと見られない軽度の胎児性水俣病者のことだった。

例えば、水俣病の特徴的な症状である、感覚障害や運動失調が顕著に見られない患者がいる。

その人たちは人と関わることが難しい障害を持ち、自閉症と診断されている。

しかし原田さんは、母親が妊娠中に魚や貝をたくさん食べていた状況から、胎児期に水銀の影響を受けた水俣病だと考えている。

こうした軽度の胎児性の人たちが患者として認められず、今も埋もれたままにされていると原田さんは考えている。

この問題に対し原田さんはこんな風に語っている。

「大人の方は重症の人から、軽度の人まで、わりとすそ野の方まで認めたわけだけれども、胎児性に関しては脳性まひタイプしか認めていないのです。

でも、軽度のすそ野の人たちがもっともっといると思うのです。

若い世代はみんな隠していたから、表面化していないわけですよ。

非常に見えにくいわけです。

みんな怠けものとかね、言われているわけですよ。仕事いっても長続きしないとかね。そういうことでみんな首切られている。

この土地にはそういう若い人がいっぱいいるんですよ。

そういう人たちは本当は一番救済しなければいけない人たちですよ。

それが無視されているからね・・・」




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