NOAさんが、記事「【NOAさん緊急寄稿】司法試験情報局の見解の変化についての釈明その1 」のつづきの完成版を送ってきてくれたので、以下に掲載します。


【4】本当の入門講座

先ほどの「樹海の手前までの案内役」としては伊藤塾が最適だ、という話ですが、実はあれさえも今は疑問を持っています。樹海の手前まで行くのにも、つまり、受験生として一定の自立を成し遂げるのにも、中村さんの基礎講座のほうが相応しいと今では思っています。

中村さんは方法論の鬼なので、単なる法のインプットに限定したイメージでも結構ですが、司法試験関係の入門講座の中で、中村さんの基礎講座ほど、法の基本事項を分かりやすく効果的にインプットさせてくれる講座はありません

なぜなら、司法試験受験生がインプットすべき「法」とは、なんだか分からない漠然とした法律学のことではないからです。もし、インプットすべき法の内容が「法学部生が学部試験で良い点を取るための法学知識」なのであれば、あるいは基礎マスターに軍配をあげてもいいかもしれません。しかし、司法試験受験生がインプットしなければならない「法」とは、つまるところ「司法試験に受かるための法」なわけです。具体的にいえば、短答・論文を解けるようになるための「試験で使える法」です。試験問題を解くために使える法(条文)をインプットすることが、司法試験のためのインプット学習の全てです。それに最も近いことをしている入門講座は、明らかに中村さんの基礎講座です。

ここでちょっとした誤解を解いておきたいと思います。私が先ほどから「入門講座」や「インプット」と呼んでいるのは、4A基礎講座のインプット編(※中村注:“4A条解講義”)のことでは(実は)ありません。条解テキストを使ったインプット編の講義は、たしかに業界一高密度の「インプットのためのインプット講義」ではあります。しかし、私がここで「樹海の手前までの案内役」という観点から、文字通りの「入門講座」として受験界で最高の講座だと考えているのは、実は論文編(※中村注:“4A論文解法パターン講義”)のほうです。

伊藤塾をはじめとするほとんど全ての予備校では、まず先に知識の単純インプット期間があり(例:基礎マスター)、その後に論文系の講座(例:論文マスター)に進んでいきます。入門講座の中で論文問題「も」扱うと謳っているものもありますが、いずれにせよ入門講座の主な役割は、知識の単純インプットをすることだと考えられています。そのせいで、多くの受験生は、論文を解くという作業(講義)は必ずインプット(講義)の後に行われなければならない、と考えてしまっているようです。中村さんの4A基礎講座も同様に、ハイスピードで高密度なインプット編が先で、その後に論文編という「応用」に進んでいくのだと勘違いしている方がいるかもしれません。もちろん、その順番で聴いたら絶対ダメだというわけではないのですが、中村さんの基礎講座で真に「入門講座」的な位置づけとされているのは、実は論文編のほうなのです。中村さんの基礎講座では、この論文編こそが「入門講座」なのであり、条解テキストを使った網羅的なインプット講義のほうが「応用」に近いものなのです。この点は、広く「法を学ぶ」という観点からも非常に普遍的で重要な要素を含んでいるところなのできちんと強調しておきたいところです。単に、通常の入門講座の順番を逆にしてみました、というのとは違います。通常の入門講座と順番が「逆」になっていることには、およそ法を学ぶという観点からの普遍的な意味があります

ここで権威付けにソクラテスの問答法や言語哲学の話を絡めてもいいのですが、いちおうその辺は信頼していただくことにしてまず結論から申し上げますと、「法」というものは、いえ、法だけではなく、もっと広く言葉というもの自体が、本来は「使う」ための道具なのであって、その意味内容自体を単独で定義したり・説明したり・納得したり・理解したり・させたりするものではありません

言葉というのは、大上段から演繹的にその意味内容が語り下ろされるためのものではなく、ましてや、その言葉を覚えたり理解したりするためのものではなく、その意味内容を「理解できないまま“でも”使える」ということがその本質なのです。理解できないまま「でも」いいというより、もっと言えば、「理解できないまま使える」ことこそが、言葉の本来のあり方なのです。

たとえばソクラテスがその人生(というか命)をかけて明らかにしたのは、「正義」でも「勇気」でも「徳」でも「善」でも、あるいは「きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ」でも何でもいいのですが、特定の言葉の意味内容を完全に明らかにすることは、実はどんなに頑張っても私たちにはできない、ということに他なりません。「正義」も「勇気」も、たとえどんなに議論を重ねても、明確な定義は最後までできません。むしろ、議論を重ねれば重ねるほど、私たちは単純な日常用語ひとつ満足に定義できないという現実に直面させられることになるだけです。

しかし、ここで大事なのは、私たちが単純な日常用語の意味ひとつ実は分かっていないのだという事実を暴くことではありません。そうではなくて、大事なのは、その分からないままの状態で、私たちは何の問題もなくその言葉を「使えてしまう」ということのほうです。

もう一度言います。言葉は「使う」ためにあります。その内容を理解したり説明したりするためにあるのではありません。先ほども述べたように、「使う」という観点を離れたところから、特定の言葉を定義したり理解したり説明したりしようとすることは、実は困難である以上に不可能なのです。そういう的外れな「使い方」は、言葉本来の機能を無視した歪な企てに他なりません(だからたとえば辞書というものは、そういう歪な企てを、そうと承知であえて行っているわけです)。

言葉はきちんと「使う」限り、正確に「使う」ことができます。「おい、そこの言葉。お前はいったい何者なんだ」と問いさえしなければ、言葉はその本来の役割を誠実にこなしてくれます。しかし逆に、そういった言葉本来の役割を無視して、いわば多摩川を逆流する鮭のような真似をすれば、そこに無理が生じるのは当然です。言葉は川上から川下に向かって流れるように作られているのに、無理にその「逆」を行こうとすることは、言葉の本来的な機能を無視した、不自然で歪な行為です。そんな不自然な方向で言葉を用いようとすれば、当然、その表現は何の有用性も感じられない無味乾燥で難解なものになるでしょう。私たちは身近にその典型的な作品群をみることができます。言うまでもなく「基本書」がそれです。基本書もまた、本来「使う」という機能しか意図されていなかったはずの条文(法律)という道具を、あろうことか、使うことなしに説明しようとする、言葉の本来的な機能を強引に逆流しようともがく発情期の鮭に他なりません。

私たちは、本当は、発情期の鮭の「逆」を行かなければならないのです。それは、言葉(法律)の「使う」という自然な流れに逆らわないこと。言葉本来の自然な機能を大事にすることです。そうやって言葉を正しく「使って」あげなければ、その言葉に習熟することはいつまでもできません。まして、その言葉を「使える」ようになど、いつまでもなりません。本当にしつこくて申し訳ありませんが、言葉は本当は「使う」ことしかできないのです。まずは言葉の定義を覚えたり・理解したりしてから→「さぁ使おう」なんてことは、さしずめ、出口の用意されていない迷路を彷徨うようなものなのです。

この辺でいい加減に司法試験の話に戻りますが(すみません・・)、ほとんどの受験生がこの迷路の中を、まるで他の選択肢がないかのようにグルグルと廻り続けています。しかし、まずはテキスト型のインプット講義を受講することが司法試験の入門講座の本来的なあり方である、という現在の多数受験生たちに植え付けられている先入観は、これまで見てきたように、ただの勘違いなのです。

法律(条文)もまた、使うために、そして使うため「だけ」に作られた道具(言葉)ですそうである以上、その最も自然な学び方は、実際に法を「使う」こと以外にはあり得ません。多くの受験生が、法のインプットを「基本」と位置づけ、法を使った事案処理を「応用」と考えていますが、そんな風に逆転した順序で考えているから、いつまで経っても法律学習が難解に思えるのです。染みついた先入観を取り払って、実際に法を「使う」ことから始めてみれば、想像以上に簡単に法が「使えてしまう」という事実に気が付くことができるはずです。4A基礎講座は、(業界にそのタイプの講座が一つしかない以上当然ですが)その最適のナビゲーターとなってくれるはずです。


【5】インプット学習について

・・・と、そうは言っても、結局はインプットへの未練断ち難しという人はやっぱり多いはずです(苦笑)。その気持ちは私にもよく分かります。そこで、単純なインプット学習について、私なりの意見(妥協案)を書いておきます。

なお、以下に書くことを、際限のない「インプットへの逃避」にはどうか使わないでください。逃避に使う場合は、せめて自分が逃避しているという事実からは目を逸らさないでください。

受験生の中には、中村さんのあまりの「実践志向」に圧倒されて、たとえば週1回テキストの見直しをすることもダメなのか。あるいは、1日1時間インプットに時間を割くことさえ許されないのか。それはツライなぁ・・等々と考えて中村クラスを諦めてしまう人がいるかもしれません。個人的には、それはさすがに少しもったいないなぁと思います。世の中の司法試験受験生は年がら年中インプットばかりしているのです。しかも、基本書やシケタイのような、無駄に分厚いテキストを使って、長時間・長期間インプットばかりしているのです。あるいは、○○○予備校の○○先生のテキストのような、条文や要件・効果や解釈論全体を、その身元がいちいち分からないように切断したテキストを使ってインプットをしているのです。それに比べれば、条解テキストのような短時間で回せて、かつ条文から法律論へと至る構造が(間違いなく受験界一)しっかりしているテキストで「必要最小限」のインプット学習をすることは、私は許容してもいいかなと思っています。司法試験は相対評価の試験で、要は他の受験生より「マシ」なことをしていればいいわけですから。

4A基礎講座のように、あくまでも順番を間違えずに、法本来の機能に従って法を「使う」ことから法律の学習を始めれば(最初にその訓練を徹底して行えば)、その後のテキスト読みや基本書精読といったインプット学習は、他の受験生たちとは比較にならないレベルの浸透力を持つはずです。それは当然です。先に法を徹底して「使った」経験の土台の上にインプットを行えば、そのインプットはあなたにとって理由のあるものとなるからです。すなわち、自分が「いったい何のためにインプットをしているのか」を完全に理解したうえでインプットができるからです。その効果は「インプットのためのインプット」をすることしか能のない受験生たちをはるかに凌駕するものとなるのは当然です。

中村さんは「インプットのためのインプット学習」は100%否定派の方ですから、ここはフレキシビリティに溢れた私が(笑)少し脱線したアドバイスをさせていただきます。中村さんは、ご自身が苦労に苦労を重ねて作り上げた条解テキストさえも、「読む必要はない」と言っていると思います。しかし、私などから見ると、条解テキストは、「インプットのためのインプット学習」をするための素材としてみた場合にも、非常によく出来た教材だと思えます。

詳しくは『情報局』の中村さんのエントリーに書いたので、それ以外の話をしますが、条解テキストは、まず何よりコンパクトであるが故に、繰り返し頭に刷り込む復習素材として最適です。基本書やシケタイでは、いくらマークや書き込みでメリハリ付けをしていても、全体の総復習に(どんなに実力がある人でも)数日はかかってしまうでしょう。条解テキストなら、(一定の実力がある人なら)一日で全科目を見渡せるはずです。気になる科目を一科目だけということなら、初学者でも2~3時間で行けるのではないでしょうか。

先ほど、【3】で述べたように、条解テキストはマーク(メリハリ付け)の不要な教材です。一言でいえば、マークされた後の教材だからです。同じように、条解テキストを使えば、条文にもマークをする必要はありません(あるいはマークは自分ですることができます)。なぜかというと、マークというのは一定の集合の中から特に重要な要素を選別して取り出す作業のことだと思いますが、条解テキストでは、条文の重要要素は、そのすぐ下に要素として全て取り出されて解説されているからです。その「要素」は、基本書やシケタイのように原型を留めない形ではなく、多くの場合、原型そのままの形で取り出されているはずです。したがって、特定の条文のどの文言に着目すればいいのか(≒マークをすればいいのか)は、条解テキストをただ「読む」だけで一目瞭然です。受講生は、本当に羨ましい教材を手にしたものです。

条解テキスト程度の知識が頭に入っていることは、司法試験合格のためのインプット面での必須条件です。理想を言えば、問題を解く度にその「きっかけ」として知識を自然に頭に入れていくというのがセンス的にも望ましいのは言うまでもありません。が、全体の勉強の1割くらいを逆側から攻める(インプットのためのインプット学習をする)くらいなら、特に罪悪感に囚われる必要はないのではないかと私は思います。

話しは変わって、これは私個人の教材を見るときの(私固有の)ポイントなので、全然伝わらない人もいるかもしれませんが、私は(昔からインプット学習は嫌いではなかったので)インプット教材を検討するとき、常にその教材が「読めるかどうか」という点を重視してきました。もちろん、シケタイや基本書のような教材が「読める」のは(まさに読むための教材なのだから)当たり前です。そうではなくて、もっとコンパクトな箇条書き的なレジュメ・テキストの中にも、私なりの基準ですが、「読める」ものと「読めないもの」とがあるのです。

抽象論では分かりづらいので具体的な教材名を挙げると、たとえば『C-Book』は箇条書きだけれど「読める」テキストです。『趣旨規範ハンドブック』なんかは、サブノート型教材の中で「読めない」部類の代表格です。

私が「読める」と言っているのは、必ずしも文字の量の話ではなく、あえて言えば、文章に一定の意味の連なりが見られること(教材全体に論理的な構造性があること)なのだと思います。あるページを開いたときに、そのページに書かれている内容を冒頭から論理的に「追っていくことができる」という感覚が、ここでいう「読める」という感覚です。

さっき挙げた『趣旨規範本』などは、まさに「読めない」教材の典型です。論点は網羅されていますが、(○○先生のテキストと同じで)各論点はただ連続的に並べられているだけで、そのページのその場所になければならない必然性(意味)が全く見えません。意味の連なりがほとんど見られないため、視覚的な確認教材としては使えても、その科目全体を「読んで確認していく」教材としては使えません。本当にセンスの悪い教材だなぁ、と昔から思っていました(今ごろ本音を言ってすみません・・)。
辰已の『条文判例本』も、また少し性質の違う「読めない」テキストの典型です。基本書的整理・思考のベース(作成者の思考回路)を、無理に逐条型に嵌め込もうとしているため、ある条文は要件・効果の体系で素直に整理しているかと思いきや、別の条文になると要件も効果も全部その姿を隠して、なんだか分からない基本書の見出しのような項目が配置されていたりします。ときどき気がついたように要件・効果できっちり説明している箇所があるのは、おそらくは、その人が使っていた基本書がその部分を要件・効果で説明していたからなんでしょう。

中村さんの条解テキストは、このような「読めない」教材とは違い、趣旨でも要件でも効果でも単なる規範でも論点でも、それがそこにあるという必然性(意味)がはっきりとした、一言でいえば論理構造がしっかりとしたテキストです。なにせ「あの」憲法ですら、徹底して要件・効果なのです。条解テキストを「読む」だけで、あの抽象的で概念的な憲法が、紛争解決に「使う」ための道具として構造化されてくるのを感じます。ものすごく分かりやすくいえば、「憲法も民法と全く同じじゃん」とはっきり思えてきます。憲法だけでなく、全ての科目が、同じ論理構造を持った「法」という「ひとつの思考形態」だということが分かってくるのです。もちろん、条解テキストを「使って」さえいればそれは分かるようにはなるのですが、私自身の経験からいうと、問題を解く「型」を徹底して学んだあとにこのようなテキストを「読む」と、テキストを「読む」という経験自体が、それを「使う」ことに限りなく近づいていくようにさえ感じられます。

最後に、少し裏情報をバラしてしまうと、『条文判例本』みたいな論理関係の繋がりがないところからおもむろに法律論が顔を出してくるようなテキストの書き方は、そもそも中村さんには(志の問題ではなく能力の問題!として)「できない」のです。ここが中村さんが他の講師と一番違うところです。中村さんは、実はそういう「法学的」な勉強の仕方をほとんどしてきていません。「してきていない」というより、たぶん「できない」のです。条文を起点とした意味の連関の中に位置づけられない形で(つまりは「ここに位置づけられた」という納得が得られないままの形で)特定の法学の内容をまずは丸飲みしてしまうというほぼ100%の合格者がやってきたであろう勉強を、中村さんは受け入れられませんでした。実は、中村さんは予備校の入門講座を途中で挫折しています(私も最初は冗談だと思っていたのですが、テキストを書き込みだらけにするクセのある中村さんの入門講座テキストが、実際に半分以上「真っ白」だったのを見たとき、それが本当だということを知りました)。条文を起点にした論理的連関が確認できないテキストで、ひたすら法学的な論点講義が繰り出される入門講座に、中村さんは耐えられなかったわけです。
しかし、その経験が今の中村さんを作っています。条文を起点に、真に納得したことしか受け入れてこなかった「脳」を持つ中村さんは、基本書的記載事項を「丸飲み」できる講師の書いたものとは全く異なる、真に実践的なテキストを作ることができます。というか、「そういうものしか作れない」と言ったほうがいいのかもしれません。
中村さんの条解テキストが、一見した無味乾燥さからは信じられないほどに「読める」のは、真に自分が納得したことしか書いていないからなのだと思います。条解テキストは、その意味で、中村さんの「脳内」がそのまま外化した教材なのだといえます。

私は何度も何度も、「いきなり論点を思いつくパターン」をパターンと呼んじゃう講師の方や、論点が何から派生してきたのかもわからない形で列挙されているテキストを書いちゃうような人を批判していますが、それはやはり、そういう思考法が試験に有害だということと同時に、私や中村さんにとって、「そういう物の覚え方」(←これは間違いなく「覚え方」です)をしてきた人間の学習法が、私たちには全く(努力しても)真似のできないものだったからだと思います。

だって、論点って必ず「何か」の解釈なんですよ。だから「論点」なんですよ。それなのに、なんでその「何か」をその直前に置かないで、いきなり論点を5個も6個もテキストに並べられるんですか(その意味で、論点というのは何の前置きもなしに2個並んだ時点で、基本的にはもうアウトです)。

中村さんを巻き込んではいけないので、ここからはあくまでも私の感覚でいいますが、私はやっぱり試験対策という観点からの有害性とともに、そういう「思考の不真面目さ」にこそ違和感を覚えていたのだと思います。つまり、あの、論点が延々と立ち並ぶテキストは、彼の頭の中そのものなのです。「あのテキスト=彼」なのです。そこに、私はその人の「思考の不真面目」を、どうしても見てとってしまうのです。

だから、結局、最後は好き嫌いの問題なのかもしれません。あのテキストに書かれているような形で法を学んできた人を理想の講師だと思う人がいるのなら、それでいいのです。私がブログで一生懸命に皆さんを説得してきたのは、「本当にそれでいいんですか。そうじゃない『脳』もありますよ」ということに尽きるのです。

どうか、条解テキストで問題を解いてみてください。ただ「ぼけー」っと眺めていると、たとえば『条文判例本』のほうが良さそうに見えてしまうかもしれませんが(私もかつてはそういう時期があったので、そういう段階があること自体は気にしないでいいです)、「司法試験に受かるために」条解テキストと条文判例本のどちらが役に立つのかは、一人でも多くの受験生に「真面目」に検討して欲しいと思っています。私は、つまるところ、ちゃんとした勉強をして、ちゃんとしたテキストを作って、ちゃんとした講義をしている人が、その努力に見合った評価を受けて欲しい。と、ただそれだけを望んでいるのです。


【6】中村さんは総論の講師?

私が方法論で「総論」を語りすぎたせいでしょう。中村さんまで総論「だけ」の人だと思われてしまったきらいが(一部)あるようです。しかし、これは完全な誤解です。中村さんの講義では(でも)他校の講師と同様・・・というかそれ以上のレベルで各論「も」講義されています

そもそも、「総論」だけを語るなんていうのは不可能です。具体的に論文問題を解説する段になれば、どうしたって話の大半は各論に「なってしまわざるを得ない」のです(当たり前です)。

ですから、「総論の中村と各論の○○、どっちにしようか」なんて悩み方だけはどうかしないでください。中村さんは総論「も」できるというだけなのです(そしてそれが大事なんです)。

総論は誰にでも共通に必要なもののことです。あとは、講師が繰り出してくる多彩な各論情報の中から、あなた自身が論文を書くにあたって、短答を解くにあたって、必要だと思う情報を受け取ればいいのです。

たとえば、「健康」は総論ですし、「バランスのとれた食生活」も総論です。それを前提に、野菜不足の人は野菜という各論を摂取すればいいし、ベジタリアンを気取りすぎて生命力が落ちている人は肉という各論を食らえばいいのです。中村さんはバイキングの品揃えも豊富です。


【7】友人だから推している?

人によっては、私が中村さんの友人だから、無理にでも中村さんを褒めているんじゃないか、とお考えの方がいるかもしれません。その点について一言だけ触れておきます。

結論から言えば、そんなわけはありません。自分の理想とする方法論と99%同じ方法論を、自分の理想とする教材を使いながら講義している人がいたら、どうやっても推さざるを得ません。これで褒めなかったら、逆に自己欺瞞になってしまいます。


【8】講師ランキング

そうなると、講師ランキングのインプット部門トップを、なんで呉先生にしたのか。条解テキストが最高のインプット教材で、基礎講座のインプット編が受験界一の質の高さだと言うなら、インプット部門も中村さんが1位でよかったんじゃないか、と問われる方がいるかもしれません。

たしかにその通りだったかもしれません。正直、私はここでも日和ました。。
インプット部門の評価基準といっても、実は内容は色々考えられるわけです。
①どんな教材を使っているか(→条解テキスト)

②条文を重視しているか(→いる)
③試験という観点から実践性が高い講義になっているか(→いる)
④講義の情報密度が高いか(→高い)
・・・といったこと以外にも、話し方、テンポ、声のよさ、なんとな~くの分かりやすさetc…の漠然とした要素も入れられます。これらを全部含めることで(特に①~④以外の要素を重視して評価することで)、私たち(※中村注:以下、「私たち」に中村は含まれていません…念のため)中村さんのインプット部門での順位を意図的に下げました

本音をいえば、①~④こそが、その講師のインプット面における評価の核心部分だと思っていました。①~④でいえば、中村さんが1位かな、と最初から思ってはいました。
ただ、あの時点では、まだ中村さんの4A基礎講座が始まっておらず、中村さんが伊藤塾講師並みの(あるいはそれを超えるレベルの)超速・高密度講義ができるのか、はっきりとしたことは分かりませんでした。また、何より「友人」である中村さんを、インプット・アウトプット両部門で1位にしてしまうことが、講師ランキングの信頼性を逆に損ねてしまうことになるのではないかという危惧が私たちにはありました。
この2つの理由から、私たちは、条解テキストの優秀性などはあえて基準から外す形で、中村さんを「目立たない位置にまで下げる」ことを決めたわけです。

中村さんに超速・高密度講義ができることが明らかとなり、私も全部本音を語ってしまおうという気になったいま、中村さんを「インプット部門1位」に据えることに、もはや異存はありません

中村さん関係の記事は以上です。
長いことお付き合いくださりありがとうございました。

個人的な願望ながら、いつの日か、『情報局』を読んだ中村クラスの合格者の中から、中村さんの協力者が現れてくれることを期待しています。
そのときは一緒にがんばりましょう。