「朝鮮通信使」を知っていますか?山口県下関で、今日6/19にイベント開催! | 39snsdのブログ(ありがとう少女時代!39snsd!)

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初めて韓国(済州島)に行った時から少女時代を聞き始め、KARA、IU、Afterschool、T-ara、4Minutesなどにはまり、ハングルも覚え、韓国語カラオケ・新大久保にも出没。最近は韓国語キーボード入力、男性歌手も少々・・。

「朝鮮通信使」を知っていますか?
 始まりは、室町時代まで遡るようですが、鎖国をしていた江戸時代においても、長崎の出島以外での交流があり、ソウルから陸路や船で江戸まで来ていたそうです。
 その際、途中の寄港地では、それぞれ様々な受け入れをしており、そのゆかりのある土地の自治体が集まって「朝鮮通信使縁地連絡協議会」を結成しています。



 2012年からは日韓共同でユネスコ記憶遺産登録に向けて活動を開始し、2016年3月30日に申請書を提出したところであり、登録に向けて期待が高まっています。

 また、山口県上関では、2016/6/19に、朝鮮通信使・上関到来祭りを開催します。

上関町商工会





映画上映や、オペラ歌手のミニコンサートも予定されています。

オペラ歌手のお店

李芸 最初の通信使(室町時代)の映画

 こうした歴史は学校の授業では習っていないので、興味深いですね。



【朝鮮通信使の説明】
江戸時代、徳川幕府は国を閉ざして外国とのつきあいを禁じて、わずかに長崎でオランダ、中国との貿易をしていました。しかし、徳川幕府が禁じていたのはキリスト教国のヨーロッパ諸国で、お隣の朝鮮とは豊臣秀吉の朝鮮出兵以後とだえていた国交が1607年に回復され、以降、明治維新までの250年間もの長い間、友好関係が続きました。朝鮮通信使とは信(まこと)を通わす使いと言う意味で日本の外向史上最も大きなスケールのものであり、世界の歴史の上でも大変珍しい史実です。山口県上関は朝鮮通信使が来日するたびに使節の乗った大船団が寄航、宿泊した瀬戸内海で最初の港町でした。また、隣国の賓客である使節団をもてなすお茶屋館と呼ばれた御殿や客館、長屋敷、番所が建ち並び、その広さは3,000坪もありました。
1635(寛永12)年、徳川幕府によって出された「海外渡航禁止令」によって外国との関係が大きく変わってしまった中で外交関係のある国として朝鮮と琉球国が「通信の国」、貿易船の渡来を認める国としてオランダと清国が「通商の国」としてわずかに残るのみでした。これを「鎖国」といい外国との窓口は長崎の出島のみであるといわれてきました。
 しかし実際には台頭・友好関係にある朝鮮の釜山(プサン)の草梁(チョリヤン)倭館には対馬藩の役人が外交・貿易の実務を担当しており対馬藩の貿易船が年間500隻も出入りしていました。
 明治維新になるまで途中中断もありましたが実に500年間も友好関係が続いたことは、世界史に照らしてみても珍しい事です。