「本物」か「にせ物」かを超えると心が平和になる。 | 藤崎ひろみのありがとうの扉

「本物」か「にせ物」かを超えると心が平和になる。

藤崎ひろみのありがとうの扉
ありがとうございます。お元氣さまです。


「本物」と「にせ物」。私もこだわっていました。


例えば、「先生」と呼ばれる人が本物かどうかって氣になりますよね。

あなたにとって「本物」って何でしょう。


言行一致で、教え通りの生活をしている。

謙虚ですばらしい人格者。

しあわせな人生を送っている。


聖人君子みたいな人ですか?

人によってその物差しは違うことでしょう。

実際に会えたとしても、知ることができるのはほんの一部。

しかも良い部分しか見せ(え)ないでしょうし、本も結構脚色が多いですしね(笑)。


宗教家も本物かどうかよく話題にあがります。

献金を集めるのが目的の宗教ビジネスは置いといて(笑)。


教えや人物像はすべて伝えられてきたもの。

私はイエス・キリストやお釈迦様に会ったことはありません(笑)。


現在ご存命の偉大な経営者や先生、また歴史上の人物が本物かにせ物かどうかは、厳密にはわからないこと。すべて伝わってくるエピソードで憶測するしかないのですから。


藤崎ひろみのありがとうの扉 何が言いたいのかというと、本物かにせ物かをこだわって優越感を得ようとするより、その教えから自分にとって必要な学びをどれだけ得るかが大切だということです。


「本物」か「にせ物」と判断する基準はその人によって違います。「絶対」ではないのです。


教える人が素晴らしければそれに越したことはありませんが、盲信は禁物。「本物かにせ物」の次元を超えて、自分にとっての「絶対的」な学びを得ること。


はてなマークと思う人も必要な「反面教師」です。
主体はあくまでもあなたです。


あなたは本物ですか?


ありがとうございます。


よろしかったらクリックをお願いいたします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 潜在意識へ
にほんブログ村

ペタしてね