ボロは着てても心の錦、どんな花より綺麗だぜ!

 

(にしき(錦)の織物)

 

ブログを読んでいて、セルフ・コンパッションなる言葉に出会った。最近の社会の傾向なのかなぁ~と思った。
 

セルフ・コンパッションとは…ウィキペディアによると「自己同情」と出てくる。自らの欠点、失敗、人生における様々な苦しみに直面した時に、自分自身に対する思いやりの気持ち、自分への優しさをかけることだという。
 

苦しみや失敗を「自分だけの経験」として認識し、自分を孤独に追い込むのではなくて、人間の共通の経験の一部として認識すること。マインドフルネスに受容すること。また自分を過剰に識別して卑下するものではないこと。
 

「受容」とは、受け入れて取り込むこと。その事実をありのままに素直に認めること、自分がそれを受け入れて許可することだ。
 

人より勝る(まさる)、人より劣る(おとる)に必要以上にこだわることをやめる。ありのままに認めて受け入れる姿勢、「自分が劣ることを受容するには」良い意味での「諦観(ていかん)」を持てば良いと自分などは想う。
 

「諦観」は、仏教の思想から来ているものでもあるという。その意味は、一つに「本質を明らかに見て取ること」二つに「悟りの境地にあって物事をみること」とGoogleにはある。
 

「諦める(あきらめる)」とは、「明らかとしてみる」から転じたものだそうだ。
 

今の時代によく聞く言葉に、セルフ・コンパッション、マインドフルネスの他に「共感力」(エンパシー)がある。エンパシーは、シンパシー(同情、お悔やみや哀れみの気持ち)だけではなくて、感情移入をして同感理解する能力のことであるという。
 

人に勝つ(人よりまさる)競争レースに参加するだけが人生ではない。それでは人間疲れてしまう。だからといって人間が無気力になって無為に過ごすこともこれも違う。「共感力」の高い人は優れて健康的、幸福であるという。物事を明らかとして正しく認識する能力が必要なことだろう。自分の情欲を排除して物を見ること。

「ボロは着てても心の錦、どんな花より綺麗だぜ!」♪~って始まる昭和の歌がある。経済の生産性とかやらの世界ではボロはボロだ。貧しい姿でしかない。アメリカ式ビジネスマンの感覚などはそうなのだそうだ。
 

でも、忘れないで欲しい「ボロは着てても心の錦、どんな花より綺麗だぜ!」は日本に昔からある、日本人の心意気のことだ。人の「気立て」のことだ!。
 

人生は、人の「こころがけ」次第で変わる。野球の野村監督の著書にもある。自分も同感の想いだ。
 

わかる人には解るで実践しているが、解らない人には分からないのかもしれない。
 

胸に「こころのにしき」を持つことは、誇り(矜持)を抱くこと、プライドを持つことだ。見た目はボロで貧しく劣ると風に見えたとして、その心の内に己の清廉さがあれば、負けることはない。劣るは劣るに違いないが、例え今ひとたびは負けだとしても、裏表のない不正のない誠実さがあれば最後は勝つです。それが真の強さです。

 

(負けるが勝ちの言葉もあります)人の情け(なさけ)の袖につかまって生きるとは、自分から人に情けをかけることです。「先ず隗(かい)より始めよ」です。
 

じんせいは、そういうものです。