わたしの流儀

 

 

 

人生のスタイル わたしの流儀

 

作家の故・宇野千代さんはわたしの好きなクリエーターだ。彼女が若い時代に作っていたファンション雑誌の名称を「スタイル」という。Googleで検索をしたら次の様に出てきた。

【style】全体的な形。様式。文学作品の構成、形式や文体。ある個人、階層、社会に特有のやり方や考え方。「プロフェッショナル仕事の流儀」なんてテレビ番組もあるが、これも各人の仕事と人生に向き合うときのスタイルのことだろう。

 

若い時に自分が探していたモノがあった。それは、やり甲斐、生きがい、甲斐性。三十歳くらいの時には見つかって、28歳までに見つけるべきだという説もあるが、四十歳過ぎて、開眼して、五十歳になったらああこれが天命かとしっくりきた。

 

Webの世界やこれまで出会った若い人の中には、素晴らしい私、美しい私、人より秀でた私を生きることソノモノに生きがいを持っている人がいた。ただそれだけを目標にしているのらしい。「素晴らしいワタシ」「美しいワタシ」「人より優秀なワタシ」というものに沙菜子の自分はあまりこだわった事はなく、今まで生きてきた。だから他人様に嫉妬するなんて気持ちを抱いたことがない。少しあるとすれば今の自分にないもの、結婚をして自分の家庭を作った人をちょっと羨ましく想う。それくらい。それとて特別に羨ましいとも思わない。家族(夫や子供)を持った人にはそれなりの苦労が山ほどあるだろうし、シングルの人生を歩んでいる私には、シングルゆえの格別な喜びもある。(笑)

 

昭和の言葉に「滅私奉公」っていうのがあった。わたしという人間の心持ちを殺して、主人のお店や家のために全面的に奉仕して働くことである。辛く苦しい仕事職業のことを指してもいた。

 

還暦六十歳になったときに、自分は「滅私奉公」するのも案外悪くないなと思った。自分がどうやって「やりがい」「生きがい」「甲斐性」を手に入れたかと言うと。「奉仕」という考え方と行動をするように成ったことからである。

自らが行動を起こした奉仕を相手に受け取って貰う喜び。これぞ「生きがい!」

人様のご縁。人生は人様のおかげさまで自分は生かされているのだから!

 

お芝居の舞台の中央でスポットライトを浴びて主役を張るセンターの人よりも自分はプロンプター(黒子)を好んでやりたいと思っていた人だった。若い頃から…。やり甲斐をたくさん感じるから。ステージを成り立たせるための重要なパートの一つでもあるから。

 

「素晴らしいワタシ」「美しいワタシ」「人より優秀なワタシ」にこだわって生きる精神の青い人は、やがて疲れて老いる。前進あるのみで、常に自分を磨いて手入れをしないと人もモノも汚れるし、くたびれる。素晴らしき世界なんてものが四六時中あるわけないだろうにねとも思う。自我しか自分を支えるモノがない人の哀しい末路を最近目にしていて思ったことです。これまでの人生で自分以外の他者を支えることをして来なかったツケですね。自分カワイさのあまりに、社会性の未熟な部分(反社会的な考えや行動(犯罪)も伴う)、幼稚な執着しか生きられないそういう人を見ました。それでもペルソナとかいう仮面を付けて嘘を生きている。「かりそめ」の人生しか体験できない可哀想な人。生活&仕事が「おままごと」の様な人。それも一人の人間のスタイルなのでしょう。「ああ無情」