胎蔵曼荼羅(東寺蔵)
金剛界曼荼羅(東寺蔵)
[以下引用]

本年(1994)京都では,平安建都1200年の記念行事が続いている。この1200年の間,数知れぬ文物が海外から輸入され,その都度,在来の日 本の文化を刺激し,それをより豊かにしてきた。数限りない,無名の人々がそれに貢献してきたが,少数の人は幸いにも歴史に名前を残している。この,個人と して特定できる人々のなかで,最大の功績をあげた人は誰だろう。思うに弘法大師空海は,最大の功労者の1人であるだろう。

京都 東寺(Touji in kyoto)


東寺は平安京鎮護のための寺院として計画された後、嵯峨
天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道
場として栄えました。中世以降の東寺は弘法大師に対する
信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰
を集めるようになり、今日も京都の代表的な名所として存
続し、世界遺産に登録されています。

空海は,唐から密教という,当時としては最新の仏教を,そっくりもち帰ったのである。このように,完備した一つの(文化)システムをもち帰った人は,日本の歴史を見渡したところ他にはいないのではないか。同時に入唐を果した最澄と較べても,そういえる。(*1)

彼がもち帰った密教は,今の我々の生活にも無関係ではない。密教から派生した多くの新興宗教の隆盛や,四国八十八ヶ所のお遍路はもちろんのことながら,もっと広く,いわば我々の神仏に対する態度を,心の深部において規定していると思われる。

さらに空海の場合に特徴的なことは,その密教の輸入を,まさに個人でなしとげたということだ。最澄が恒武天皇の手厚い配慮を受けて,弟子3名をつれ て入唐したのと大きな違いである。 「天台宗を体系ごとぜんぶを仕入れに行った最澄は,沙金もずいぶん多く持たされてゆき,国家としての信物も多く持たさ れていた。(中略)―その点からいえば,留学生の空海は,素手で長安に入ったようなものであった。」(*2 )

「空海は,極端にいえば私費で,そして自力で,密一乗を導入した」 http://www.google.co.jp/addurl/ (*3)

とするなら空海は,情報収集の大家といえるのではなかろうか。


ダウン空海と鎮国寺 (唐の密教から日本の密教へ) - YouTube


2010年9月30日 – 空海によってそこに彫り遺された梵字。わたしはその ... 福岡県宗像市の鎮国寺は、宗像大社の神宮寺として、唐から帰国したばかりの空海が806年に創建した密教寺院であるが、その境内には梵字岩と名付けられた岩がある。空海によって ...

また,空海の場合には,後半生の社会活動家としての活躍も目ざましい。宗教家としての高野山,東寺の創建・経営だけでなく,数々の治水工事を始めと する社会活動が語り伝えられている。その内の一つに綜芸種智院の設立がある。中学,高校の歴史の教科書には必ず記載されるこの綜芸種智院こそは,情報の伝 播(学校はまさにそれである)の先駆者としての空海の大きな業績である。それは,後述するように,貴族・役人の養成機関ではなく,一般庶民の,個人として の自立を目指す教育機関として,画期的なものであった。経済的な理由等から,その活動期間は短かったものの,世上にいわれるようにまさに「私学」の原型 が,ここにはある。

情報の大収集家としての側面は,空海自身の著作として『請来目録』が残されている。情報の伝播者としては,『綜芸種智院式并序』が残されている。この二つを手引きにして,情報を扱うことに関する天才,空海の軌跡をたどってみたい。

1.情報の大収集家 -『請来目録』

空海像

「海外に道を求め,虚しく行きて実(みち)て帰る」(*4 )

虚空蔵聞持法

讃岐国多度津郡に生まれた空海は,15才で母方の叔父,阿刀大足について学問を始めたという。この阿刀大足は,恒武天皇の皇子伊予親王の侍講(皇子 つきの家庭教師)であった。18才の時,都の大学へ入る。明経科に入学し,経書(儒学)を学んで,将来の官吏になる勉強を始めた。「雪あかりや螢の光の先 で読書した古人をめざして,それでも怠ろうとする気持ちをくじき,また縄を首にかけ錐で股を刺して睡魔を防いだ古人にならって,おのれの不勉強をはげまし た。」http://www.google.co.jp/addurl/ (*5 )とは,その勉強ぶりを伝える彼の言葉である。ところが,この空海24才の著作『三教指帰』序には,前記の言葉に続けて「ここに一沙門あり」から始まる以 下のような文が現れる。「ところがここに1人の僧侶がいて,私に虚空蔵聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。(中略)・・・そこ で私は,これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて,木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し,阿波の国の大滝岳によじのぼり,土佐の 国の室戸崎で一心不乱に修行した」。(*5)

この虚空蔵聞持法という密教の一行法こそは,空海の密教との出会いであったようだ。後の真言密教の大成者としての空海の第1歩といえるだろう。その意味で,この1人の僧との邂逅は,意味深い。(*6)

しかし当然のことながら,大学を離れ,世間的な出世の道を捨てて山林修行者となることについては,それを押しとどめる忠告があった。忠孝の道を説い て,出家を思いとどまらせようとする親友知己に対し,彼は『三教指帰』で答える。彼は「三教(儒・道・仏教)」の「指帰(深きことわりを探る)」におい て,「忠孝」の名のもとに個人としての立身出世を説く儒教,ひとり仙人の道を目指す道教に対し,一切衆生を救わんとする広大無辺な仏教の優位性を明らかに する。日本で最初の,思想をテーマにした,リーディング・ドラマというべきこの書によって,彼は仏教への確かな1歩を踏み出した。「誰かよく風を係がん (風をつなぎとめることができないように,私の出世間の志を押しとどめることは誰にもできない)」は青年空海の,若さあふれる出家宣言である。

彼以前にも,虚空蔵聞持法を実修した人はなん人もあった。しかし,その修行が,『三教指帰』を生み出し,さらに密教の完成への第1歩になったのは,空海だけであった。

大日経(大毘盧遮那経)

山林修行者としての空海は,『三教指帰』中の仮名乞児(仏道修行者)の姿からおぼろに分かるが,その後,31才で入唐するまでの空海の足跡は全く不 明である。それにしても,入唐までの7年余りは,彼の後半生を決定する上で,より重要な年月であったはずだ。というのも,『三教指帰』に,数多くの仏書が 引用されてはいるものの,いまだ本格的な密教経典はそこに現れていないのだから。(*7)

一体どこで何をしていたのか。信憑性に問題があるといわれるが,http://www.google.co.jp/addurl/ 『空海僧都伝』は一つのヒントを与えてくれるように思われる。そこには,若き日の空 海が「一心に祈感するに,夢に人有りて告げて曰く,此に経有り,名字は大毘盧遮那経といふ,是れなんぢが要むるところなり。即ち随喜して件の経を尋ね得た り。大日本国高市郡久米の道場の東塔の下に在り。ここに於て一部緘を解いて覧るに衆情,滞り有りて憚問する所なし。更に発心をなして去じ延暦23年5月 12日を以て入唐す。初めて学習せんが為なり」。(*8) 夢のお告げについては後述したいが,さしあたりこの文章は,入唐に至る空海の軌跡を説明しているように思われる。即ち,求聞持法から,さらに本格的な密教 へと進むのである。ところで,なぜ大日経(大毘盧遮那経)という,純粋密教の経典に,空海は魅かれたのか。平安新仏教の開祖である最澄と空海は,ともに, 論中心の奈良仏教にあきたらなかったといわれる。つまり,本来,根本であるべき経典よりも,その経典をめぐる論(注釈書)の研究が修行の主目的になってい る奈良の旧仏教に,満足できなかったのである。その結果,最澄の場合には,中観,唯識等の論が起こる前の法華経(紀元1世紀後半頃成立か)にさかのぼろう とする。これに対し,空海の場合には,7世紀中頃から終わりにかけて成立した大日経,金剛頂経を選ぶのである。それは,中観,唯識等の論の成立後の,仏教 経典としては最新のものであった。いわば,復古主義的な最澄に対して,発展主義的な空海,である。(*9)

当時,既に大日経,金剛頂経という密教の主要経典は日本に伝来していたといわれる。特に,玄昉 (717~734在唐)は,5000余巻に及ぶ一切経を唐より請来したが,その中には後述する不空三蔵訳以前のほとんどの密教経典が含まれている。そし て,請来目録中に空海が書いているようにhttp://www.google.co.jp/addurl/ (*10 )どうやら,彼は,既に日本に伝来していた経典の大半をきちんと把握していたようである。その中でまさに空海は密教を自覚的に選び取ったのである。

いずれにせよ,『空海僧都伝』によれば,大日経にいくつもの氷解しない疑問が残り,この上はどうしても長安へ行かなければならないと彼は考えたので ある。実際,密教の場合には,経典以外に,真言(不可思議な力をもつ言葉),印契(手の結び),マンダラ(密教の最深奥を図示したもの)等が必要不可欠と なる。これらは,独修できるものではない。その意味で,彼は入唐にあたって,すでに密教請来をねらい定めていたといえよう。彼ほどに目的のはっきりした入 唐留学生は(最澄を除けば)いなかったといわれる。「空海の入唐目的ほど明快なものはない。・・・・久米寺で見た大日経についての疑問点を明したいためと いうだけのものであり,遣隋・遣唐使の制度がはじまって以来,これほど鋭利で鮮明な目的をもって海を渡ろうとした人物はいない」。(*11)

東寺パンフレットより以下引用]

 






ダウン

ダウン不空成就如来|秘密の扉 夢を現実へと導いてくれる人生。優しい空間 ...




降三世明王

金剛夜叉明王立像
[以下引用]
梵語名は「トライローキャヴィジャヤ」と言い、「3つの世界を降伏させるもの」という意味から降三世明王と言われる。勝三世明王と呼ばれる場合もある。
 阿シュク如来の化身として、過去、現在、未来の「三世」における、貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴の三煩悩を取り除いてくれるとされる。
四 面(しめん:顔が4つ)・八臂(はっぴ:手が8本)で、正面の顔には眉間にも目があり三目となっている。左右の第一手で独特の降三世印(小指を絡めて腕を 交差させる)を結び、第二の右手は金剛杵、左手は金剛戟を持ち、第三の右手は矢、左手は弓、http://www.google.co.jp/addurl/ 第四の右手は刀、左手は索を持っている。左足下に大自在天(シ ヴァ神)右足下にその妃である烏摩(ウマー)を踏んでいる。
平安時代、承和6年(839年)に完成。
梵語名は「トライローキャヴィジャヤ」。
「3つの世界を降伏させるもの」という意味から降三世明王と言われる。

阿しゅく如来の化身として、
過去、現在、未来の「三世」における、
貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴の三煩悩を取り除いてくれるとされる。

四面・八臂で、 正面の顔にはサードアイ付き。
左右の第一手で降三世印、
第二の右手に金剛杵、左手には金剛戟、
第三の右手は矢、左手は弓、
第四の右手は刀、左手は索を持っている。
左足下にシヴァ神を、
右足下にはその妃、ウマーを踏んでいる。


この明王も神さま踏みにじり、と特徴的な姿をしておられるので、見分けやすい。踏みにじられているのは大自在天と后の鳥摩、すなわちシヴァ神とウマー妃。 「降三世明王」という名の由来もここにあり、シヴァ神がヒンドゥー教で「過去・現在・未来の三つの世界を治める神」とされている為、三つの世界(三世)の 王を降す者、という意味で「降三世」の名が与えられた。
密教五大明王の1人として東方守護を担当。阿閦(あしゅく)如来、もしくは金剛大日如来の教令輪身とされ、金剛薩埵菩薩の化身ともされる。シヴァ神の化身 という説もあるようだ。しかし、その説を採用すると、降三世明王は自分で自分を踏みつけることになり、いかにも大変そう。それに、奥さんの鳥摩を踏みつけ るのはDVに当たらないだろうか?
像形は先に述べた通り、横たわる大自在天と鳥摩を踏みしめている。三面八臂(一面四臂、四面八臂などの異説あり)で、うち2本の手で「降三世印」を結び、残りの手で武器系の法具を持っている点は大威徳明王と似ているかもしれない。なお、「降三世印」は、
①両手を胸前に持ってくる
②手首のところで小指が外側になるように両手をクロスさせる
③左右の小指を指きりする時のようにからめる
という手順で結べる独特の印相である。ちなみに残りの4本指は像によって色々。グーになっていたり、狐の影絵を作る時みたいに人差し指&中指と親指をあわせていたり、人差し指だけ立てて残り3本はグーだったり…。
梵名はTrailokyavijaya(トロイローキャヴィジャヤ)といい、3つの世界を降伏させる者、三界の勝利者といった意味である。現在は、深沙大将とともに薬師如来の脇侍となっているが、もともとは修法の為の独尊像だったらしい珍しい作例である。
ついでにいうと、「不倫を白状させる」という、仏教の明王として妙な功徳をもっていらっしゃるそうである。
真実の智慧の理趣(みち)自分の心に住む三毒(貧・瞋・痴)をコントロールする智恵。
三つの世界(過去・現在・未来の三世と貧・瞋・痴の三煩悩)を降伏する
貧り(むさぼり=貪欲:自己の欲するものに執着して飽くことを知らないこと)は、その本質からすれば、善悪の分別も、それに執らわれた表現も超えたものであり、人によっていかなる善にも活かすことができる。
瞋り(いかり=瞋恚:自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)http://www.google.co.jp/addurl/ も善悪の分別も表現も超えたものである。したがって、もし自我に執着することなく、それを善に活かしきれば、邪悪に打ち勝つための大きな瞋りが生み出される。
痴しさ(おろかしさ=痴愚:根本の真理を知らないこと)も善悪の分別を超えたものであるゆえに、小さな自我に執らわれず、それを善に活かす時は、これが愚 かとか、あれが賢いなど、物事の理非をあれこれと言いたてるような、小さな痴しさを超越して、大きな痴しさの境地に至るであろう。   


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ダウン密教美術の鑑賞:隆三世明王立像と大威徳明王騎牛像


三眼、三面八臂で、降三世印を結ぶ隆三世明王は、救いがたい衆生の教化のために阿閃如来(あしゅくにょらい)、 金剛薩捶(こんごうさった)が忿怒身に姿を変えたものであると言い伝えられています。



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ダウン東寺 - 世界遺産 真言宗総本山 教王護国寺


真言宗総本山 東寺〔教王護国寺〕の公式サイトです。境内・歴史の紹介、特別公開のお知らせ。法要や拝観のご案内。





大威徳明王騎像

daitokumyou

[以下引用]

大威徳明王の梵語名:ヤマーンタカは「死の神ヤマ(=閻魔)を倒すもの」の意味で、降閻魔尊とも呼ばれ、阿弥陀如来の化身として、一切の悪を降伏させる力を有する。
 最大の特徴は、六面(顔が6つ)・六臂(腕が6本)・六足の異様な姿で、特に多足はこの明王に限られた特徴。この特徴から六足尊(ろくそくそん)の別名もある。
 六面は前六識(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、霊感)を表し、六手は六波羅蜜業(布施、持戒、忍辱、禅定、精進、般若(智慧))を成し遂げた事を表し、六足は人々が迷う六道を清めるとされた。
  顔には各面とも三目あり、中央の2手は檀陀印(小指を薬指の内側に入れて絡ませ、中指を立てて合掌する)を結んでおり、左右の4臂には鉾・剣・竜索・宝棒 を持っており、水牛に跨っている。これは水牛が田んぼの泥水の中を歩き回るように、あらゆる障害を乗り越えて進んでいくことを表している。
平安時代、承和6年(839年)に完成

国宝(平安時代 839年)
大威徳明王 の梵語名:ヤマーンタカは「死の神ヤマhttp://www.google.co.jp/addurl/ (=閻魔)を倒すもの」 の意味で、降閻魔尊とも呼ばれます。阿弥陀如来の化身として、 一切の悪を降伏させる力を有します。
 最大の特徴は、六面(顔が6つ)・六臂(腕が6本)・六足の異様な姿で、 特に多足はこの明王に限られた特徴です。 この特徴から六足尊(ろくそくそん)の別名もあります。
 六面は前六識(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、霊感)を表し、 六手は六波羅蜜業(布施、持戒、忍辱、禅定、精進、般若(智慧)) を成し遂げた事を表し、六足は人々が迷う六道を清めるとされます。
 顔には各面とも三目あり、中央の2手は檀陀印 (小指を薬指の内側に入れて絡ませ、中指を立てて合掌する)を結んでおり、 左右の4臂には鉾・剣・竜索・宝棒を持っており、水牛に跨っています。 これは水牛が田んぼの泥水の中を歩き回るように、 あらゆる障害を乗り越えて進んでいくことを表しています。
平安時代、承和6年(839年)に完成。


遣唐使(*12)

空 海の乗った第16次の遣唐使は,260年の歴史の中で後期にあたるが,その頃には,4隻からなる船団をつくることが多く,各船には120人~160人が 乗っていた。平底の,高波に弱い構造の船であり,無風あるいは逆風の時に櫓をこぐため,乗組員の半数が水夫であったといわれている。航路としては,前期に は朝鮮半島の西側を北上していたのが,半島の政治状勢の変化により,後期になると,直接東シナ海をつききるコースがとられた。うまくゆけば,10日足らず で横断することができるこのコースは,その反面,難破の危険も高いものであった。羅針盤もなく,さらに当時の日本人は,季節風の知識ももたなかったとのこ とである。そのため,後世から見ると,わざわざ逆風を選んで船出することが多かった。実際,第9次の遣唐使以後で東シナ海をつききるコースをとった8回の 使節中,往復ともに無事であったのは第15次(779~781)の1回だけであった。食料として1日に1升の糒(蒸した米粒を干したもの)と,1升の水が 支給されるだけで,難破しなくても,あるいは1ヶ月,時には2ヶ月も漂流することが予想された。そのため,海上の危険を恐れて遣唐大使に任命されても,こ とわる人もあり,副使に任命されたのに逃れようとして実際に処罰された者もいる。留学生の中にも,入唐を望まぬものもでてきた。先進文化の受け入れに,生 死をものともせず船出していった先人たちとは,様子が変わってきたのである。逆にいえば,それだけ中国文化の受け入れが進み,危険を犯してまで,出かけて ゆくだけの価値を疑い出したのだろう。897年の菅原道真の遣唐使廃止の具申につながる動きである。http://www.google.co.jp/addurl/  ところで,それにしても,なぜ空海は留学生として入 唐できたのだろう。第16次の遣唐使は,実は803年に一度出航した。この時,最澄は上船していたが,空海の姿はなかったのである。この船は,出航後すぐ に難破したため渡航は中止され,最澄はそのまま九州にとどまった。そして翌804年遣唐使船は再び難波の港を出たが,この時に空海が乗っていたのである。 私度僧に近い身分の空海が,政府派遣の留学生に選ばれたことの意味は,限りなく大きい。 (*13) 普通,留学生は1回の遣唐使で10名余であったという。どうして空海がその中へ入れたのか? これには諸説がある。母方の叔父阿刀大足が侍講 であった伊予親王パトロン説あり,同族と考えられた佐伯今毛人(彼は東大寺大仏殿建立や長岡京造営に大きく貢献した)の推薦説,また,遣唐大使の単なる通 訳として入唐したのではないかという説もある。あるいは,空海は当時貴重視された朱,水銀鉱脈を発掘するグループとのつながりがあり,そこから特別な資金 が出たせいではないかとか。

真実はわからないが,いずれにせよ当然,空海の優秀さは広く知られていただろう。さらに,前述の様に,入唐希望者も減少していたのではないか。「たまたま志願者が少なかったので,留学僧の末席につらねてもらった」(*14)という空海の文章が,残っている。

ともあれ,最澄と空海には,それぞれ当時の凡庸な僧には思いもよらぬ志があったのだ。最澄の場合それが,天台教学(法華経)の請来であり,多分彼の 場合には,法を求める旅に生死は二の次となっていたのではないか。これに対し,空海の方は,最新の仏教である密教をきちんと請来するのは,自分をおいて他 に誰があるかという自信にあふれ,自分が死ぬかもしれないなどということは,彼の頭の中にかけらもなかったのではないか。どうもそんな気がする。

入唐 -長安にて

804年当時,唐の都長安は世界一の大都市であった。文字通り文化の中心であった。宗教でいえば,インド伝来の仏教以外に,イラン方面からザラトゥーストラ教,マニ教,さらには景教(ネストリウス派キリスト教)さえもが,長安の都に寺院を構えていた。(*15)

805年2月,遣唐大使の一行が帰国した後,長安の人々の溺愛する牡丹の名所,西明寺に住いを定めた空海は,二つの大きなチャンスに恵まれる。一つ は,般若三蔵というインド僧について,サンスクリットを学ぶことができたということである。般若三蔵は,自分がもし若ければ日本にも行きたいが,老年のた めそれもかなわぬ,せめて,自分が訳した『華厳経』と『六波羅蜜教』,それにこの梵文経典(貝葉経)を日本へもち帰ることによって,私と日本との縁を結ん でほしいと頼んだという。かくして「若き日の空海は直接インド人の高僧から学ぶ機会を得,かつその訳した経典を手ずから受け取って,日本に持ち帰ることが できたのである。中国に留学した日本人仏者で,これほどの幸運にめぐまれた例は,他にはないようである」。(*16) 空海は「サンスクリットの原典を贈 られているところからみても,おそらく日本人として最初にサンスクリット語が理解できた人となったのであろう」。http://www.google.co.jp/addurl/ (*17)

もう一つのビッグ・チャンスは,恵果との出会いである。これこそ,現代世界において,チベットとならんで日本が密教の生きている国であることの源と なったものである。当時恵果は,インド伝来の,大日経系の密教と金剛頂経系の密教の二つを継承した唯一の師であった。空海は,請来目録の中で,恵果との出 会いを,「長安城中の高僧を訪ねて廻るうちに,偶然に青龍寺東塔院の和尚,恵果阿闍梨にお遇いした」と述べている。

ところで,この文を空海一流のレトリックとみ,さらに,空海の性格を云々する人もいる。つまり,長安に着いた当初から,恵果阿闍梨の名はわかってい たはずで,「偶然に」とは,いかにも不自然な感じがすると。「偶然」といっても,しかし,勿論あてもなく歩いていてばったりと会ったわけではない。どんな に予期しても,なお,不確定の部分が残るのが,人と人との出会いではないか。さらに言えば,会いたいという望みが強ければ強いほど,その邂逅に人間の力を 越えたはからいを感じるのではないか。まさにその時こそ,生涯の師に「遇う」ことになる。

空海は当然,早くから恵果の名を聞いていただろう。そして,入唐の究極の目的であるその師にまみえる為に,その準備として,前述の般若三蔵について サンスクリットを学んだのであろう。「(お前は)中国語とサンスクリットの両方をすべてマスターしていて,私の教えを,瓶から瓶へ移すように受け入れた」 とは恵果が,死に臨んで空海に語った言葉であるという。(*18)

ともあれ,805年,5月終わりか6月始めに空海は恵果に師事することができた。「私は,先ごろよりお前がこの地に来ているのを知って,ずっと心待 ちにしていた。今日会えて,本当によかった,よかった。私の寿命はつきようとしているのに,法を伝えるべき者がいなかったのだ。急いで香花を用意して, (法を伝える)灌頂坦に入れ」といって手をとらんばかりの歓迎振りであった。(*19)  そして,すぐさま(6月上旬)胎蔵の灌頂の儀式を受け,7月上旬には,金剛界の灌頂の儀式(*20)を受けた。こうして密教でいう両部の灌頂を受けた 後,8月上旬には,金剛界胎蔵両部相承の免許皆伝にあたる伝法大阿闍梨の資格を得る灌頂を受けたのである。その間,まさに夜を日についで,密教の核心を師 から吸収していった。今に残る「三十帖冊子」(国宝)は,空海の勉学ノートの一部である。

空海にとって恵果との出会いは,途方もなく大きなチャンスであった。千載一遇,文字通り1000年に一度あるかないかの出来事といえよう。http://www.google.co.jp/addurl/ それをの がさなかった空海はもちろん人並みはずれた異才であるが,それだけでなく,この恵果と空海との出会いには,人間を越えたはからいのようなものが感じられ る。事実,恵果は空海に法を伝えた後,わずか4ヶ月余りでなくなったのである。恵果自身の,「寿命はつきようとしているのに法を伝える者がいない」という なげきは,真実であった。阿闍梨がその師から受け継いだ法は,必ず弟子に伝えなければならない。さもなければ,法統がとだえることになる。ところで,恵果 には当時1000人の弟子がいたが,その中で,両部相承の弟子はたった1人,しかも,病弱であったという。実際,その後大規模な廃仏(845)もあり,中 国における密教は衰退し,消えてしまう。まさに,焼けおちようとする家屋から運び出すかの如く,空海は密教を日本へもち帰ったのである。請来目録には彼が もち帰った品物のリストが記されている。

1.経典 142部247巻

その大半が,不空三蔵,般若三蔵等の新訳である。他に,旧訳であっても,日本に伝来していなかったもの。

2.梵字,真言讃等 42部44巻 サンスクリットを正式に学んだ空海にして,初めて請来できたもの。「これほど大量にサンスクリット語原典がわが国にもたらされたことは,空前にして絶後である」(*21)

3.論疏章等 32部170巻

密教は特に奥が深いもので,経典だけでは真意はつかめないから,どうしても論疏(注釈書)が必要と空海は述べている。

4.蔓茶羅と阿闍梨の影 10鋪

密教は幽玄なので,図画をかりなければ理解できないという。当時最も有名な宮廷画家李真等に描かせたといわれる。

5.恵果和尚から受け継いだ道具 9種

密教の実修に不可欠な法具であり,必要なものは,当時長安で有名な宮廷出入りの工人に頼んだといわれる。

6.阿闍梨付嘱物 13種

恵果阿闍梨が,師資相承で受け継いできたもの。仏舎利,白檀を刻んだ仏・菩薩・金剛等の厨子他。

かくして「密教の伝授を受け,その指示によって経典類から仏像,仏画,法具にいたるまで,必要なものを完全に揃えて持ち帰った」のである。実に「組織的,系統的」な収集であったといわれる。(*22)

さらに,空海は帰りの船を待つ間に,越州にて当地の節度使に依頼状を書いている。その中で「仏教,儒教,道教の三教のうちの経,律,論,疏(注 釈),伝記ないし詩,賦,碑,銘,卜(うらない),医,五明(インドの諸科学)など,およそ人びとの知識を増進し,幸福をもたらすべきあらゆる種類の書物 をできるだけ伝えたい」(*23)と願い,その収集に努めた。まさに,船に一杯の文物をもち帰ったのではないかといわれている。

空海の僥倖
不動明王坐像

歴史事実に対し,「もしも」という反事実の仮定を立てることの愚は承知しているが,そうした仮定を立てるからこそ「僥倖」が生まれるともいえる。前 述の如く,第16次遣唐使の出発は803年であったが,すぐさま難破したため翌年に延期された。乗っていた最澄は九州で出航を待つことになった。そして, 翌804年,改めて出発した遣唐使船に空海の姿があった。空海は間に合ったのだ。もしも前年の渡航が成功していれば,空海は,少なくともその後数年間は, 入唐できなかったはずである。

ところで,803年からの数年間の長安を考えてみよう。般若三蔵は70才を越えていたということだ。さらに,恵果は実際に805年末になくなってい る。まさしく,803年の遣唐使が成功していれば,空海は般若三蔵に,さらには恵果に遇うことができなかったのである。死を目前にして,法を伝えるべき人 物を必死で探し求めていた恵果に,その人の死の直前にして遇うことができたのは,僥倖と呼んでもいいだろう。

さらに彼の僥倖は続く。帰りの船である。彼が請来目録中に「欠期の罪」と呼んでいるのは,そもそも20年の予定の留学生であったものが,わずか2年 余りで帰国したことを指している。実際,恵果阿闍梨のなくなった翌年の806年,遣唐判官高階真人遠成が長安にやってきた。http://www.google.co.jp/addurl/ そのやりとりは勿論わからない が,20年間滞在すべき留学生が2年余りで日本へつれて帰ってほしいと願い出たのである。拒否されてもおかしくないところで,なぜか希望がかなえられ,空 海は帰国できた。もしも,20年間留学の規則を守って長安の都にとどまっていたなら,どうなっていただろう。次の第17次遣唐使は,2年続けて渡航に失敗 した後,838年にやっと入唐を果たした。空海入唐の実に34年後であった。そして,空海自身は835年に入定(死去)しているのである。歴史事実に「も しも」の愚をあえてすれば,規則を守っておれば空海は,阿部仲磨呂と同様,死ぬまで日本に帰れなかったかもしれない。となれば,空海の真言密教請来は,や はり僥倖としかいえないのではないか。 そもそも,遣唐使に加えられたところから空海の幸運は始まっているのだろう。幸運に幸運が重なるというより,幸運 を次々に手中にたぐりよせることに長けていたからこそ,空海は情報収集に天才的な働きをなし得たと思われる。

空海の夢

前述したように,空海は,青年の日に夢で大日経の在りかを教えられたという。今のわれわれにとって,こんな話は,まさに夢のようなおとぎ話で,話の つじつまを合わせるためとしか思えないかもしれない。しかし,ひるがえって考えてみるに,まずそもそも今のわれわれに,自己を震撼し,生き方を180度転 換させる本を,寝ても覚めても求め続けるなどということがあるか。出会ったとしたら,その時,その出会 いをなんと説明するだろうか。その時,合理的な科学的な説明とは?

阿闍梨が弟子に法を伝えるのは,密教において最も重要な儀式である。したがって,その際 に,弟子の資質は厳しくチェックされる。ところが,「弟子の資格は阿闍梨の目による認定だけではなく,さらにもっと規模の大きい判定法が用意されている。 それは阿闍梨が弟子に法を授けるとき,その前夜に見た夢の内容をくわしく報告させ,それによって授法の適,不適を最終的に決定するしくみになっている」http://www.google.co.jp/addurl/ (*24)とのことだ。元来は大日経の中に占夢(*25)として出てくるものだが,一見不思議な感じがするかもしれない。しかし,こういうことを考えてみ よう。弟子にとって,生涯で最も大切な日といえる師から法を相承する儀式の前日に,何の感慨,興奮もなく,夢も見ずにぐっすり休んだとしたら,これもおか しいことかもしれない。われわれ自身考えてみても,頭に思念の塊りがある日,そのため眠りも浅い時にこそ夢を見るのではないか。


2.情報の伝播 -『綜芸種智院式并序』

東寺 五重塔

828年空海は,東寺の東隣,左京九条にある藤原三守の邸を喜捨され,綜芸種智院を開設した。土地の広さは二町余り,5間の家屋があったという。現 在,堀川通と針小路通の交差した角の寺院に,石碑があり,立札が立っている。丁度学院の京都駅前校の西側道路を下ること数分のところである。当時を語る資 料としては,開校にあたって,空海の教育理念を記した文章が唯一今に残されている。











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