「ひとつではない女の性」の記事の補足です。
☆おまけ☆1 「n個の性」の解説
ドゥルーズ・ガタリの共著、「アンチ・オイディプス」の中に出てくる概念です。
「ひとつの性が存在するのでもなければ、二つの性が存在するのでもない。そうではなくてn…個の性が存在する。」
これを示そうと、人間の全・性的なイメージ、多数の性を問題化したことに由来します。
彼らの眼目はフロイト批判にあります。
「性を人間の形態でとらえ」また「究極的には、ひとつの性(男性)しか存在せず、女性の性は男性の欠如」と見なすフロイト派の精神分析、オイディプス帝国の、呪縛的な性の観念を解放しようとする試みです。
男性、女性という二つの性の一方に帰せられるあり方は、実は「すでにn個の性を盗まれた人間」を示すものに他ならない。n個の性においては、「二つの性のそれぞれの去勢との関係があるのではなくて、まず初めに全・性的なるもの、多数の性を備えたものと、盗みとの関係があるのだ。」
現実に人間が男と女でしかないのは、「家族」があるからで、家族によって人間は男、女という性的な向き合い方を強いられ「n個の性を盗まれて」いる。
ところでセクシュアリティの形には、異性愛をマジョリティとして同性愛、そして両性具有的な愛やバイがあります。しかしこれらは、男女の二つの性とその対(つい)幻想が前提にされています。この前提のもとでのあらゆる試みは「倒錯」にしか帰結しません。男装、女装、それは(女の身体崇拝のフェティシズムが生み出す)記号論の関係で言えば、シニフィアンから降りる男、女のシニフィエへの同一化。また、生殖を拒む女、フェミニジアの追求…。
「n個の性」は、男女という自然的な性差を実体化した社会規範や、そのアイデンティティから自由でありうる根源的な問いかけを、イメージの開示を、展開した概念です。
このありようは、人間に向かう性的志向にとどまりません。猫や人形、動物や無機物へさえも向けられる内なる感情の溢れる思い、そのエロスの志向性です。自らのセクシュアリティを「生成」に置く性のありようです。
私がイメージしたのは全放射的な発光体。ライプニッツの逆モナド。
イヤらしいメッセージに真面目に応える私…。哲学に関する記事はもう書かないと言いながら、答えられないと思われるのが癪でね。満足かい。
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