2006-2007 シーズン FCバルセロナ | 風早のダークで恐ろしい終末論

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2006-2007 Formation & Results & Goal Rank

2006年夏の移籍市場ではザンブロッタ、テュラム、グジョンセンらを獲得。2006-07シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇を達成する。リーガ・エスパニョーラでは前年の得点王だったエトーが、UEFAチャンピオンズリーグのブレーメン戦で半月板を断裂し、5節から20節まで欠場し、メッシも10月12日のレアル・サラゴサ戦で足を踏まれ、左足第五中足骨を骨折し11節から21節まで離脱。この2人を欠いて臨んだ試合で5勝4分け1敗と失速し、前年と同じ勝ち数ながらレアル・マドリードに勝ち点で並ばれ、クラシコで1分け1敗と負け越した為に2位に終わった。コパ・デル・レイでは準決勝のヘタフェ戦においてホームでの第1戦を5-2で終えながらアウェーでの第2戦を0-4で落としてしまい逆転負けでベスト4敗退。

基本システムは4-3-3だが、突如として3-4-3に変更する作戦を用いることもあった。しかしあまり機能したとはいえない。依然としてロナウジーニョが攻撃の中心となる。早い時期にエトーが負傷し、その穴はグジョンセン、サビオラによって埋めた。メッシはほぼレギュラーに定着していたが、ジュリと出番を分け合っていた。メッシのドリブルはバルセロナにとって強力な武器で 尚且つ彼の攻め上がるタイミングは的確だった。メッシは攻撃的な選手であったが 後方守備の負担が重くならないタイミングで攻め上がった。中盤はデコとシャビで固定された。デコが離脱したときは、イニエスタにチャンスが訪れた。守備的MFは基本エジミウソンで、控えにモッタ、マルケス。終盤になるとイニエスタが底に入り シャビ・デコ・イニエスタのトライアングルを形成した事もあった。

DFラインには、ユベントスからザンブロッタとテュラムが加入。右サイドバックは攻撃的な戦術の場合にはベレッチ、守備的な戦術の場合はザンブロッタかオレゲールが使われた。プジョルのパートナーはチュラムとマルケスが交代で。左ラテラルはジオ&シルビーニョのベテランコンビで回している。

ザンブロッタはSBの役割について 『バルセロナとユベントス、イタリア代表とでは、SBとしての役割が違う。ある局面を想定してみよう。例えばバルセロナがボールをキープしていて、それでも敵の左ウイングが僕らの陣地内にいると仮定してみる。その選手をAとすれば、右SBである僕はAとの距離を10m以内に保つ。同時に、味方のDFラインを崩さないよう細心の注意を払ってポジションを取る。これがイタリア的セオリーだ。でもライカールトの考えは違う。ライカールトは僕にAとの距離を保てとは指示をしないんだ。味方MFとの、距離を近くに保てと指示してくる。同時に、僕の前方でプレーするFW つまり メッシとの距離を近くに保てと繰り返し指示してきたんだ』 と語る。つまりイタリアのSBは守備を第一に考えるが バルセロナのSBは攻撃を最優先させる。


Champions League GL



Champions League 決勝T 1回戦



Champions League Final



Champions League Goal Rank

UEFAチャンピオンズリーグではリバプールと対戦し、第1戦でデコのゴールで先制しながら逆転負けし、2戦合計2-2ながらアウェーゴール数で劣りベスト16に終わる。チャンピオンズリーグはACミランが制覇し、得点王・MVPともにカカが選出された。




Zambrotta

ザンブロッタはバルセロナでの生活に関して
『悪くないね。バルセロナではフィールドの内外で最大限の自由が許されるんだ。それがバルセロナの哲学であって ユベントスとは対極だった。ファンに囲まれてトレーニングし、試合の後も自分の車でスタジアムから出て行ける。深夜にパブで酔っていても翌日の新聞の見出しを飾ることもない(笑)』
『トレーニングがユベントスとはまったく違うよ。フィジカル・コントロール、そして細かい戦術に重点を置くユベントスに対して、バルセロナは先ずテクニック、魅せるサッカーありきだ。発想がまったく逆といえる。最初の頃は練習量が物足りなくて、一人残って筋トレに励んでたりしたものだよ。ユベントスの練習の方が格段にハードだったね』
『主力の大半がトップコンディションにあるとき、ユベントスはどんな敵であろうと圧倒できた。組織力で攻めて守る。その形を絶えず続けるには、常に高いフィジカル・コンディションが欠かせなかった。そのレベルが少しでも落ちると組織に綻びが生じてしまう。特に攻めの形が画一的になってしまう事があった。でもバルセロナは違う。ここでは選手個々のイマジネーションの総和がチームの力であって、コンディションレベルとパフォーマンスがユベントス程 密接に関係していない。そしてカンプノウを埋める10万の観衆はショーを求めてやってくる』と語った。


Thuram

テュラムはバルセロナに関して
『僕がバルセロナに来たのは34歳になってからだ。歳を取っていたし、驚くべき事だった。ここでサッカーをしてみたら ”これまでやっていたものは一体何だったんだ?” と感じたんだ。ようやく本物のサッカーを見つけたって感じだ。バルセロナからは多くの影響を受けた。ただ、もっと若いときにプレイできたら良かったと思う。特に守備については変化することが難しかった』と語る。


Gudjohnsen

グジョンセンは ヘンリク・ラーションの後釜としてバルセロナへ移籍金1170万ユーロの4年契約で加入した。アイスランド人史上初バルセロナでプレーする選手となった。2006年8月26日の開幕戦のセルタ・デ・ビーゴ相手に ジュリとの交代でリーグデビューを果たした。試合時間残り3分のところを ボレーでゴールした。これが決勝ゴールとなり、3-2の勝利に貢献。UEFAチャンピオンズリーグでは古巣のチェルシー相手にゴールを決めると、グループリーグ最終戦のヴェルダー・ブレーメン戦でも決勝ゴールを挙げた。11月中旬のリーグ マジョルカ戦では2ゴールを記録。また、アメリカのロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたメキシコリーグ王者グアダラハラとの親善試合では、10万人の前で素晴らしいゴールを決めて名声を得た。12月のFIFAクラブワールドカップ準決勝クラブ・アメリカ戦で1ゴールを決め4-0で勝利。2007年3月6日のUEFAチャンピオンズリーグ2nd Leg。アンフィールドで行われたリヴァプールFC相手に唯一ゴールを決め1-0で勝利したが、アウェーゴール方式により敗退してしまう。移籍初年度は公式戦で12ゴールを記録し、チャンピオンズリーグでは クラブ内得点王になった。グジョンセンは出場時間の割りには多くのゴールを挙げたが、ライカールト監督やファンの期待通りの活躍とまではいかなかった。

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