三光神社から案内に従って公園の前の道を西へ、心眼寺
にむかいます。「空堀町」というところを歩いたかな?かつて
秀吉が築いた大坂城は「総構え」という城下町をも土塁や堀
で囲んでしまう構造の城ということもあり、この周辺は南の外堀の
あたりだったので空堀町というのでしょうな。
三光神社から歩いて5分程度、『どんどろ大師 善福寺』という真言宗
寺院の門の前に来ました。ここはまだ空堀町になるかな?山門の前には
歌舞伎「傾城阿波の鳴門」の「お弓とお鶴の像」があります。そのお弓と
お鶴の話はまったく知らないのですが、この善福寺は大坂夏の陣での
戦死者を弔うために建立された寺院だそうです。
もとは「鏡如庵大師堂」という法資法道という人がこの地に1752年、
大坂夏の陣の戦死者を弔うために建立した寺院だったそうですが廃寺
になり、そのあと明治時代に善福寺が移ってきたそうです。
本堂というか拝殿は建物の二階にあってお参りすることが出来ました。
「どんどろ大師」と呼ばれる理由があるそうですが、大坂の陣、真田丸
とは関係はなさそうなので今回は書かなくていいでしょう・・・。
境内に祀られる「勝軍地蔵尊」
【御朱印】
「どんどろ大師」と「勝軍地蔵尊」
「どんどろ大師 善福寺」の東側の道は、ゆるやかな坂道になって
います。「心眼寺坂」というそうですが、その道を歩いて行くと『心眼寺
(しんがんじ)』に来れました。善福寺からはほんの近くでした。
真田幸村・大助父子の菩提を弔うために建立された
寺院ということもあり訪れる方も多くおられました。
頂いた心眼寺の寺暦には、【安土桃山時代後期、豊臣秀吉のとき文禄
(1593~1596)年中に白牟和尚が創建しますが冬の陣ののち取り壊され、
元和8年(1622)4月に真田家の血筋となる海野氏の助力によって「真田丸」跡
に幸村・大助父子の冥福を祈るために再建立された・・・】とあります。
山門前に建つ「真田幸村出丸城跡」と書かれた石碑。
山門の扉にも「六文銭」。
真田丸とは関係ないのですが、本堂の前には
京都見廻り組の隊士のお墓もありました。
「京都見廻組 桂早之助、渡辺吉太郎の墓碑」
【「まんなおし地蔵」を祀るお堂】
「間の悪い」のを直してくれるお地蔵さんらしいです。
「真田左衛門佐豊臣信繁」
夏の陣にて家康を追い詰めるも力尽き、安居神社
で休んでいるところで敵に見つかり討たれる。享年49歳。
【真田幸村(信繁)】の墓碑
お賽銭を六文銭の形で置いてるのが良いですね。
ところで、史実では「幸村」という名は大坂の陣の時も使用して
なかったようです。江戸時代に入ってから呼ばれるようになったとか?
でも「幸村」で定着しているので、それでいいと思います。
【御朱印】
お願いすると「書き置いたものになりますが?」
「それで結構です」ということで頂きました。
この次は心願寺の隣、大きな観音像が
立つ興徳寺に行きます。
ではまた次回