大河ドラマ「真田丸」真田幸村(信繁)見参 | 毘沙門天の隠れ家

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'16年1月10日(日)からスタートする大河ドラマ「真田丸」(NHK総合ほか)の初回完成試写会が行われ、主演の堺雅人が登壇した。

「真田丸」は、戦国武将・真田幸村こと信繁(堺)の波乱の生涯を三谷幸喜の脚本で描く。信州の弱小領主・真田家の次男として生まれた信繁は、父・昌幸(草刈正雄)や兄・信幸(大泉洋)の背中を追いかけ、やがて徳川家康(内野聖陽)さえ恐れる名将へと成長していく。

第1話では、さっそく真田の一族が仕える武田家が滅亡の危機に。次々に裏切り者を出す武田勢にあって、当主・勝頼(平岳大)を自分の城に迎えて最後まで戦おうとする昌幸は、準備のため一足先に城に向かう。しかし、勝頼は出発直前に、父・信玄の代に家臣になった昌幸ではなく、先祖代々の家臣の城に入ることを決める。

三谷脚本らしく随所に笑いを入れつつも、制作統括の屋敷陽太郎氏が「登場人物全員が真剣だからこそ生まれる笑い」と語るように、緊迫感のある情勢の中で必死に生き抜こうとする人々の姿が真正面から描かれている。

堺は、第1話の感想を「草刈さんのお芝居に尽きますね。若々しくて何を考えているか分からなくて、でも時代の波に必死に抗おうとしている昌幸そのものでした。草刈さん(昌幸)の背中を見ながら僕(信繁)は育っていくんだな、という思いを新たにしました」とコメント。

作品の魅力については「どんどん領地を増やす右肩上がりの話ではなく、第1話も武田の滅亡という終わりから始まっています。迷いながら悩みながらも、いろんな価値観を共存させて前に進んでいく、という“騙し騙し”の感じが作品の魅力で、今の日本が一番見たい物語なのではないかと思っています」と語った。

第1話のもう一つの見どころは、冒頭、大坂の陣で命を散らす直前の信繁の姿が一瞬映し出されること。堺は、「あのシーンで、信繁のシンボルである赤備えの鎧(よろい)が、スタッフに初お披露目されたんです。その時のスタッフさんの目の輝きや、その場で撮影会が始まったことが印象的です。鎧一つにあれだけ沸き立つピュアなスタッフと作っているんだな、という喜びがありました」と目を細めた。

戦国の荒波を乗り越える真田家を一艘の船にたとえた「真田丸」。その船出は非常に良好なものになりそうだ。






≪真田家家系≫
祖父 真田幸隆――父、真田昌幸――真田信之
└信綱 └真田幸村
└昌輝
・祖父、父、共に武田信玄の家臣であった。

・真田幸村の本名、信繁の由来は、武田信玄の弟・武田信繁を敬慕していた父がつけたもの。




地元 信州も盛り上っていますが、真田幸村ゆかりの地 和歌山県九度山も熱いです。




真田幸村を深く知るには、九度山を知る必要があります、ゆかりの地九度山は、和歌山県にあります。

真田幸村は、信濃国上田城主である真田昌幸の次男で、大坂の陣で大活躍しました。
真田の赤ぞろえと呼ばれる赤い鎧を身にまとった真田幸村は、徳川家康軍を相手にして果敢に戦ったことで有名になりました。

しかし、関が原の戦いで味方についた西軍が東軍に敗れたことで、真田幸村は九度山へ配流を命じられ、この地で隠居生活を送ることになったのです。


真田幸村が隠居した地が九度山


戦国武将真田幸村が関ヶ原の戦いの後、隠居生活を送ったのが、和歌山県の九度山町なのです。橋本市の隣にあるのが九度山町で、真田昌幸と幸村親子が、大阪冬の陣、夏の陣までの14年間、幽閉された土地になります。

九度山町は、長野県上田市などとともに大河ドラマの誘致活動、署名活動を行ってきており、長年の活動がついに実ったのです。








日本一の兵
(ひのもといちのつわもの)


真田幸村の活躍ぶり

関ヶ原の戦いの前哨戦で父・昌幸と共に徳川秀忠軍を翻弄。
この時、徳川秀忠軍は約38000、上田城にこもる真田軍は約3500だったそうだ。挑発し、誘いこんでは鉄砲の射撃、夜討ち・朝駆けを巧みに使い、10倍以上の兵を持つ秀忠軍を翻弄したと言われている。この時の主役は父・昌幸であったが、片腕として大いに働いたのが幸村だといわれている。



大阪冬の陣 出城真田丸の脅威

真田丸の攻防戦で、東軍は松平忠直隊480騎、前田利常隊300騎が戦死し、雑兵の戦死者は数知れないという大損害を受けたという。真田丸での敗戦の報告を受けた家康は、機嫌が悪くなったという。



大阪夏の陣の猛攻

豊臣軍10万(一説には6万)VS徳川軍20万(15万)籠城であれば、勝利も見えてくる兵力差であったが、裸にされた大阪城では野戦に出るしかなかったそうだ。

大阪の陣、真田幸村の三段突撃

真田幸村の隊は、家康本陣を2度に渡って攻撃し、その距離12キロも後退させたといいます。その為、家康はこの時、真田隊によって討ち取られており、後は家康の影武者が代わりと努めたという風説が立つほどです。しかし、3度目の突入にて真田隊は力尽きたといわれている。






真田軍の甲冑は「赤備え」
わざと目立つ色で相手を威嚇。逃げも隠れもしない。一歩も引かない「死を覚悟」した軍団と知らしめる。
従って、旗印は三途の川の渡し賃である「六文銭」なのです。



豊臣家からの要請で大阪城へ


蟄居中の幸村が豊臣家から支度金の約束付のラブコールを受けて、大阪冬の陣に出陣のため、14年間もの蟄居ののちに九度山から脱出(ここでも現地の民を味方にして協力を得る)。

ヒーロー登場。

家康は豊臣方に真田がついたという知らせを受けて、「親父か息子か?!」とビビリまくり。

家臣「親父のほうはとっくに死んだじゃないですか、殿。」

家康「あーそうだった、ホッ。」

ところが安心しとる場合じゃないんだな、家康のだんな。

幸村の智将ぶりは親父譲りなんだってば。


スペシャルゲストとして招かれた幸村だったが、大阪城に入ると古参連中から外様扱いされ、軍略意見通らず。

(ほんなら招くな。)

野戦を主張した幸村であったが、籠城戦と決定する。

しかたなく幸村は大阪城の唯一の弱点、南側に土塁で固め空堀を配した簡易な出城「真田丸」を築く。

案の定、幕府の大軍がここに押し寄せて来る。そこで真田丸から猛烈な弾幕射撃。幕府軍は大量の死傷者を出した。

敵軍からも賞賛された幸村の活躍後、実は徳川から10万石でスカウトされる、が、幸村は蹴る。




幸村の格好いい名言を紹介しよう。


「関東勢百万も候え、男は一人もなく候」(関東武者は100万人あっても、男は一人もいない)。

殿軍を務める真田勢に対し、へばって追撃できない徳川方諸隊の腑抜けぶりに対して叫んだ。




力攻めは諦めた家康だったが、和平条件として惣堀を埋め本丸だけを残した丸裸の無防備状態の大阪城にしてしまう。


それにしても、大阪の陣に際し思いますね。

豊臣方が浪人の寄せ集め連合軍だとしても、命賭けて戦ってるわけですよ。

幸村が軍のモチベーションを上げるためにも大将の豊臣秀頼を出陣させるように何度も依頼したのに、母親の淀君が反対。淀君も戦国の世に翻弄された女性ではあるけれど、どうであれ、秀頼、おかんを振り切ってでも、現場に出ろや!家康は老体で戦線に出てますからね。

多くのもんが命かけとんじゃ、お前らのために。男じゃないんか。


大阪夏の陣。絶体絶命の窮地に陥り、もはや風前の灯火となった豊臣家の命運。

現状を打破するには、家康の首を獲るしかない。

壮絶な賭けに出る幸村。


「狙うは家康の首級のみ!」

幸村は真田勢3000の部隊を3つに分けて、絶え間なく繰り返し家康の本陣を急襲。



大軍に対して寡兵が勝つには敵が捕捉するのが困難なスピードで臨戦態勢が整う前に、敵陣を突破することが重要。

休むことなく怒涛の三段攻撃!

ついに家康本陣に到達。

鮮血にまみれた阿修羅の形相で怒声とともに襲い掛かる真田勢。

戦慣れした徳川の旗本連中もさすがに臆して逃走者相次ぐ。

本陣の馬印も引き倒され、家康も討死を覚悟。

だが・・・あと一歩及ばず。



幸村、命尽きる。




政治力を発揮するというよりも、純粋に武名を残した、これが真田氏です。アスリート的武将です。







六文銭は三途の川の渡し賃


名誉や領地よりも武将としての生き様が大事!!




大河ドラマ
「真田丸」は'16年1月10日(日)夜8時からNHK総合ほかで放送!