最近、よく交流している協会の人がいる。


お互いに、妥協点を見つけて

ぼちぼち距離を保ちながら話をしているため、

会話はしているものの、

お互いの本心は知らない、という感じだ。


私は、教理も信じていないし

(それ以前に、議論するような濃い内容自体が、協会にはないように思えて仕方のない今日この頃)


文先生を救世主とも思ってはいないし、


協会に戻る気持ちもないと、その人には伝えている、

何度か。




一方、その人は、

それほど活動はしていないが、

しかし、れっきとした協会員である。


変な表現だが、

やや後ずさりしているような協会員とでもいうのか。




先日、

私が近々、手術をする可能性が出てきた、という話題になった。

(多分)健康体だとは思うのだが、

長年保有していた慢性不要物を、

そろそろ取り除いた方がいいという話が病院から出ている、というと、


その人は親切心から、

「時間やお金がかかるけど、

清平に行ったらいいと思うのよね」と、

おもむろに奨めてきた。



私はびっくりした。



私が離教したことだけでなく、離れた理由も知っている人から、

まさか、清平に行く事を奨められるとは思っても見なかったのだ。


私が苦笑いをしていると、

彼女はもう一度、


「時間やお金が許されるのならば、40日修練会に

手術前後に行った方がいいと思うの」と言った。



手術をするにしてもしないにしても、

私はまじめに、清平なぞ、絶対に行きたくない。


そんなところに行ったら、

間違いなく運勢が落ちるのだ。

(→これもある意味、呪縛的思考ですね 笑 )


呪縛的思考もあるにはあるのだが、


でも

清平に入ってくるお金

清平から出て行くお金


それらを考えてみたら、

そんな所には行きたくない。

関わりたくない。



最近、

日本では

祭りの屋台に、組関係の人を締め出そうとする自治体の動きがあるが、

それと一緒である。


清平に行きたい人はいけばよいが、

そのお金が何に使われているのか知らないのは

ある意味

無責任とも言えるかもしれない。


なぜならば、


清平という場所への参加が、


大方の人が、

余裕のある中での、

余暇を楽しむような気持ちで参加しているのではなく、



必死で資金を捻出して、

しかも参加費だけでなく献金まで納めてきたら、

相当な出費になるはずのものだからである。


そのような「重たい」買い物の

お金の行方を知らないのは、

良いことではないように思う。



話し戻って、



彼女が、修練会参加を奨めてくるので、

病気の治癒率を聞いてみた。


「清平は、実際、科学的に何かをしたりできるところではないから、

病気自体は治せないけど、


でも

手術前後に(つまり2回)行っておくと絶対にいいよ、違うよ」という。


彼女の身内も行ったらしい。



行ってみてどうだったか、尋ねると、

結論だけ書けば、「気分」だけよかったらしい。


(何がどうよかった、どうよくなった、という説明はなかった。

子供の塾通いといっしょで、

とりあえず“行っておけば安心”というレベルのように思えた)



彼女とは、

日本人にだけ科せられる、異常な献金ノルマの話や、

協会の幹部たちの金銭感覚やその生活ぶりの話、

あるいは分派の話なども

深い話ではなかったにしても、

したことが何回もあった。


だから、

本当に驚いた。



教祖や教理は信じても、清平は信じられない、という人にあったことはあったが、


教祖、教理を信じられなくても、清平を信じる人がいる、


という彼女の発想に驚いた。