快癒力 病気はイメージを変えれば健康になれる2 | 地球の愛と光・本来の姿へ

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模範的な病人では病気は治らない



  病気の治りにくい第2のタイプは「治らないと思っている人」です。治ると思わないのはなぜか。たとえばリウマチのような病気は、治らないのが定説ですから「治らない」と思うのはムリもありません。

  この病気が難病で治らないことをだれもが知っている。それで自分がその病気に『なった』といわれると、その瞬間から「ああ、もう自分は治らない」と観念してしまうのです。あきらめの境地のようですが、それとは微妙に違っています。

  ガンになって「あなたはガンですよ」と宣告される。「はい、わかりました」と医者のいったことを素直に受け入れてしまうのは、あきらめではありません。判断をすべて医者にまかせたことにほかならない。そこには自分の判断がない。自分に宛てられたメッセージを自分で読まないのです。こういうのも治りにくい人格です。

  同じあきらめでも、病気へのこだわりがなくてきれいさっぱりあきらめるのは、宗教の修行を積んだ高僧のような高い境地で、これと医者がいうがままに病気を受け入れるのとはまったく違うのです。

  自分のなかに病気の「意味」を取り込んだだけで、それを解釈することもせず、ただ医者からいわれたとおりに「治らないんだ」と考える人がどういう態度をとるかというと、医者を頼り、薬を欲しがり、症状の軽減を求めることには熱心になります。

  つまり病気を抵抗なく受け入れてしまうのです。痛くなってもそれは病気なのだから当然である。薬を飲んで楽になるというなら「薬はきちんと飲みましょう」「治療も指示どおり受けましょう」と、模範的な病人になってくれます。

  医者にとってはありかたい患者さんです。だが病気に受け身になってしまうぶんだけ治りにくい。病気はどんどん悪くなっていく可能性が大きい。このタイプは病気になれ親しんでしまう傾向があるのです。

  同じ病気の人に会うと病気の話に花を咲かせる。つねに治らないという意識をもっている。悪いいい方をすれば、「病気が趣味」みたいになってしまうのです。こういう人の気はやはり病気に集中します。

  本当にあきらめてしまえば、気は病気に集中しないはずなのですが、治らないと思う人は自分をいたわって、薬もきちんと飲んで、病院にもせっせと通って来てくれます。だが病気への闘争心はないわけですから、自己免疫力はよい方へは働いてくれず、現在の医療の欠陥である薬害の影響も受けやすいのです。医者に対してあまり素直になってしまうのも考えものだということです。

  病気は医者が治すものではなく病人自身が治すものです。自分で治すということは、医者が施した治療が、病気治しの唯一の方法ではないということです。極端なことをいえば、何もしなくても治ってしまうことがあるわけです。

  そういう奇跡的なメカニズムを人間の体はもっている。心構えひとつで快方へと向かうことがある。ところが治りにくい考え方をしている人には、そういうきっかけがつかめないのです。このことがこのタイプの人が治らない最大の原因といえます。



 病気になったほうが都合のいい人もいる



  3つ目のタイプは、病気が「治らないほうが都合のよい人」。これもなかなか治りません。病気になってもだれも喜ばないと思うのは健康な人の考え方で、世の中には病気になったほうが都合のよい人もいます。

  たとえば嫁と折り合いが悪くて、家庭内で身のおきどころがない人とか、仕事がハードだが休めないような人。何かトラブルを起こしてひじょうに立場の悪くなっている人。こういう人は心の奥底で「病気になったらいい」と思っているのです。

  どんな病気になるかは、その人のライフスタイルが決めるのでなんともいえませんが、とにかくこういう人が病気になると、ふつうの人ならすぐに治るような病気でもなかなか治らないことがあります。

  治らない理由は簡単です。心の奥底で「治らないほうがいい」と思っているからです。中高年になると成人病がどっと増えてきますが、なかには「病気になりたい願望」が実現して病気になっている人も何割かはいるはずです。

  病気になったほうが都合のよい人はけっこう多いのです。政治家や芸能人が、何かマイナスのことで世間から注目を浴びる状態になると、病院へ逃げ込む例がありますが、仮病とばかりはいえません。なったほうが都合がよいという心理が、本当に病気をつくる場合もないわけではないからです。

  入院患者で病気が快方に向かって退院できるところまでくると、またぶり返す人がときどきいます。そういう人は心理的な要因を分析してみると、たいてい治ることで何か不都合を抱えている場合があったりするのです。

  老人は病気がちというのが世間の常識になっていますが、必ずしも年齢だけが病気にさせているわけではなく、老人は「やることがない」のも大きいと考えられます。定年後、年をとって暇はいくらでもあるが、自分が本当にやりたいことがない。やることがなくなってくると病気になる人も少なくありません。



 「治ったイメージづくり」がいちばん効果的



  医者は病気を治せない。医者は患者さんにとって病気を治すためのよきパートナーにすぎず、薬も注射も一時的に患部の痛みを抑えるだけのもの。病気を治すのは患者さんの内部にある自然治癒力なのです。

  では医者は何をすればよいのか。私は「気づきの手助け」だと思っています。具体的には、医師の役目は患者さんにたえず「病気の治ったイメージ」を与えることです。それによって患者さんが「治る」という意識をもてれば、それが何よりも効果のある治療になりうるのです。

  医師のひとことは患者さんにとって、ときに神のひとことなのです。医師の軽いひとことが、患者さんにとっては心を砕く巨大な岩石にもなりかねません。「ガンではないか」と思い悩んでいる人は、医師が眉をひそめるだけで絶望してしまうかも知れないのです。

  だから、医師はただ検査の結果を告げればいいというものではありません。患者さんの心の状態を知ることも大事なのです。私が常に心がけているのは、患者さんに「治ったイメージ」を与えることですが、私の専門であるリウマチではこの方法がいちばん効き目があるのです。



 生きるエネルギーを上手に配分すること



  治すという立場に立ったとき、「病気を悪いもの」と考えるのはよくないと再三述べてきました。なぜかというと人間の思いはエネルギーだからです。人間は生命エネルギーがあるから生きています。このエネルギーを人間は自分の人生のさまざまなことに振り分けて使っていますが、人生を左右する最大のポイントはこの配分にかかっています。

  エネルギー配分が適切であるとき、その人の人生は物心両面において、すべて順風満帆なはずです。もちろんエネルギーですから総量も問題になります。エネルギー量の多い人と少ない人をくらべたとき、多い人のほうが元気がいいと一応はいえます。だが実際は総量はさほど問題になりません。人それぞれの必要な量が違っていて当たり前なのです。

  このことは気の測定をしてみるとわかります。人間の体の仕組みは極端な省エネが可能で、たとえエネルギー総量が10分の1でも、10倍の人以上に溌刺と生きられる。だから量はあまり問題にする必要はありません。いちばん問題なのはエネルギー配分です。

  病気になるということは、病気づくりにエネルギーを振り向けていることである。悲しい人、つらい人、苦しい人はそういうマイナスの部分にエネルギーを振り向け過ぎているのです。子供時代が「幸せだった」と思える人は、その頃の自分かエネルギーをどんなことに振り向けていたかを思い出してみることです。

  夢、希望、愛、友情、調和、安心、平和、満足、そういったものに満ちていたはずで、それがすなわち幸せの構成要素なのです。そして、そういうものへと自分のエネルギーが振り向けられていた。くったくのない無邪気な時代というのは、みんな幸せに生きられます。ところが20代、30代に入ってくると、エネルギーが違うものに向けられるようになる。競争、失敗、敗北、憎しみ、恐怖、そういうものにエネルギーが向けられるようになる。人生がつらく苦しいものになるのはそのためです。

  なかでも大きいのが病気への恐怖で、子供の頃はまったく心配しなかったことを、年がら年中意識するようになる。すべてが病気づくりへと向けられはじめるのです。また加齢ということが、若さの喪失、肉体の衰えを意識させるようになる。それに加えて実社会での生きる苦労もある。こうして子供時代にいきいき、わくわくするものにだけ向けられていたエネルギーが、使いたくないものばかりに向けられるようになるのです。

  それは仕方のないことだ、というのがこれまでの常識ですが、決してそうではない。大人になっても健康で溌刺と自分の人生を生き抜いている人を見れば、その人たちのエネルギー配分が子供時代と大差ないことがわかるはずです。むしろ大人になって知恵がついたぶんだけ、配分の仕方は上手になっている。同じような境遇でも、人生が180度違ってくるのは、エネルギー配分の仕方によるといっても過言ではありません。

  ではどうすれば人生を幸せに導き、健康も損なわないようなエネルギー配分が適正にできるかですが、それは意識を変えることしかありません。意識の扉を開けて、意識改革を断行する。たとえば病気になったら「病気はよいもの」と考えるのです。

  私は医師として長年病気を治すことに夢中になってきましたが、最近は病気を「憎い敵」とは思えなくなってきているのです。病気になるのはそんなに悪いことだろうか。病気になることはその患者さんにとっては、ものの本質、すなわち自分にとって何が大事なことなのかを気づかせてもらうための、またとない機会なのではないか、と考えるようになったのです。

  私たちはそれぞれのやり方で一生懸命に生きています。しかしその生き方が自然の本来のあり方と調和しているとはいえないかもしれない。自分本意で、自然の法則や秩序を乱しているかもしれない。生命活動はあくまで自然の法則に忠実ですから、そのような生き方は自分の健康にとってはマイナスなのです。

  また、その一生懸命さが自分にはよくても、周囲や家族たちにもよいとはかぎらない。社会にとっても害をおよぼしているかもしれない。そうしたもろもろのことに、ふだんはなかなか気がつかない。病気になることによって気がつくことがある。病気は「神様からの熱きメッセージである」というのはそういう意昧なのです。

  病気がきっかけになって、それまでの人生を軌道修正する人は少なくありません。病気になることで、それまでは気がつかなかった自分の本当の姿が見えてくる。そして、それまでの自分の姿が本来の自分ではないことに気がつく。もしそういうことになれば、病気は決して悪いことではないとわかるはずです。



 他人への心づかいに徹してみよう



  病気を治すには、意識を変えることが何よりも必要です。病院へ行けば医者は薬をくれるし、いろいろな治療を施してくれます。しかし、こうした医療行為が病気を治すと思うのは間違いです。そうしてもらったことによって「治る方向に向かった」という安心感が病気を治すのです。

  つまり病気を治すのにいちばん重要な要素は、その人の意識の転換ということです。では、どう意識を変えればいいのか。それは再三申し上げてきたようにエネルギー配分を適正にすることです。

  私たちはみんな意識をもっていますが、その意識をどこにもっていくかで気のエネルギー配分は違ってきます。たとえば「陽気で明るい性格」といわれる人は、気がそうなるように配分されている。物事を否定的に考えたり、人を恨んだりしてはいないのです。

  気の使い方しだいで病気になったり、病気を治したりできる。ただひとつむずかしいことは、私たちの生きる現実が、そうそうこちらの理想どおりに運ばない点です。むしろ思いどおりにいかないことが多い。そこで気をいかに明るい気持ち、肯定的な気持ちに振り向けようとしても、それができないということが起きてきます。

  実際、いま病気で苦しんでいるのに、ニコニコしたり、未来への希望にわくわくしたりできるか、ということになります。それどころか「この病気は一生治らないのではないか」「これがきっかけで死ぬのではないか」、そんなことまで考えてしまいがちです。

  とくにふだん健康な人は、風邪をひいて高熱を出しただけで、「一巻の終わり」と不吉な予感が頭をよぎることがあります。「病気を悪者にするな」「天からの贈り物と思え」などといっても、実際に病気に苦しむ人にとっては「冗談も休み休みいってくれ!」といいたくなることでしょう。

  だが運命の分岐点はここにあるのです。そう思えないで不吉なほうへ、不吉なほうへとのめり込んでいくような人は、生涯にわたって病気と縁が切れないか、陰鬱で思いどおりにならない人生を過ごさなければならなくなります。

  これを脱するよい方法がひとつあります。それは前にも述べたように「気は他人のために使えば使うほど、増えて自分に返ってくる」というのを利用することです。いまあなたが病気で苦しんでいても、できるだけ他人のために役立とうと考えることです。

  他人への心づかいに満ちた毎日を送っていれば、気は充実して体は必ず健康体へと向かっていきます。他人のために何かをすることは、他人のためではなく本当は自分のためだということです。他人のために何かをするということは、本当は目に見えていない自分にエネルギーを送ることなのです。

  次々と病気に侵される人がいます。私はそういう人を何人も見ていますが、そういう人に共通する特徴は「自分本位」ということです。「自分だけがなぜこんな病気にならなければいけないのか」と本気で腹を立てている。腹を立てて天をのろい、自分の運の悪さを嘆いている。こういう人たちには自分の姿しか見えていないのです。

  自分だけが苦労する、という意識が自分の心をよけい苦しくしているのです。世の中に目を向けてみれば、自分よりもっと悲惨な運命におかれている人だってたくさんいる。そういう人たちにくらべれば、自分は「なんと恵まれているのか」という見方もできる。それをしないのは自分の姿しか見えていないからなのです。

  私が気の治療をしていたときも、こういう人にかぎって治療をさせてくれない。慢性化していて薬も気休めにすぎない。私はそれをなんとか治す方向へ向かわせようと、いわば新しい試みを提案しているのですが、意識が他のものを受けつけないから、そういう治療をいやがるのです。

  そういう人が望んでいるのは、もはや治ることではなくて、目先の苦痛を脱することだけなのです。それでは難病は決して治らない。難病を治すには意識の転換がどうしても必要になります。

  その転換も「治りたい」ではダメです。そこから一歩進めて「治った」とイメージしなければならない。もっといえば、治ってからやりたいことをやっているイメージのほうがより強力です。以前に私の病院を紹介されて来た人たちは、来る前から「あの病院へ行けば治るぞ」と期待に胸を膨らませていた。その気持ちがその人の自然治癒力を高め、体のあらゆる細胞が治癒の方向へと動き出して病気を治していったのです。






NENTは次に載せます。





2012年の黙示録様から、ありがとうございます。



http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/index.html