えー、新年明けましておめでとうございます。
昨年はほとんどブログを更新せずすみませんでしたm(_ _)m
今年はもうちょっと頑張りますね^^
また、こんなほとんど更新していないブログにも関わらず、数多くのメールをいただき、たくさんの方とお話させていただくご縁を持つことができたことを感謝しております。
少なからずお役に立つこともできたようで嬉しく思います。
今年もよろしくお願いします。
さて、広げた風呂敷を畳まなければなりません(笑)
「続きはどうなった!」と叱責もまたたくさんいただいております^^;
というわけで、実に一昨年の記事の続きとなってしまいますが、
2013年10月にエントリーした
「自分を愛する」って?の続きを書かせていただきますね。
この記事で、
「自分を好きになれなくても良い!」と投げ捨ててください。
と書きました。
そして、「もともと何の条件もなしに自分を愛していることを忘れているだけなので思い出すことです」みたいなことも書きましたね。
あれから1年数ヵ月の時間が経ち(「あれあれ、時間なんてないんでしょ!?」というツッコミは置いといて 笑)、少し私の認識にも変化がありました。
愛は確かに究極的には無尽蔵、無条件と言えるかも知れません。
(その訳・・・というか解釈については別途書いてみたいと思います)
ただ、私たちが人間としての自意識で感じたり想像したりしているものとはちょっと(かなり?)違うものだと思います。
ですから、それはいったん脇に置いておき、人間視点でのお話にしておきましょう。
「それじゃあ『自分を愛するにはどうしたらいいか?』の問いには答えがないのでしょうか?」
と気になったかもしれませんね。
やや無理やりこの問いに対して答えさせていただくとすれば、
「自分を愛そうとする必要はない」
となります。
もっと言えば、
「自分を“愛さない”をやめる」のほうがしっくりくるかもしれません。
でも、それには少し補足が必要だと思います。
「自分を愛さないをやめる」は、「自分を嫌うのをやめて好きになる」と同じではありません。
(少なくとも私の定義では)
あなたは別に
あなた自身を嫌いなままでもいいんですよ。
全然構いません。
「こんなに苦しいのはもう嫌だ!」
「なんで私はこんなにダメなんだろう・・・」
「なんでもっと上手くできないんだろう・・・」
「自分を好きになれない」
そう思ったままでも構いません。
むしろ、
「私は私を嫌い。私のこれまでの人生も嫌い。私の環境も嫌い。はっはっは!それがどうしたの?文句ある?」
くらい開き直ったっていいと思います。
これであなたは自分を好きになる必要がなくなりました。
「それじゃあ救われない」と思いましたか?
なぜ救われたいのですか?
何から救われたいのですか?
(「救われたい」と思うから「救われたくなる状況」を創ってしまうといったお話は今は置いときましょう)
本当は救われたいのではなくて、
「変わりたい」のでしょう?
自分のあり方を。
思うままに生きたいのでしょう?
自由に世界を感じたいのでしょう?
でも、あまりにも「こうありたい自分」と現状認識との間にギャップがありすぎるように思えて、そうなることを自分に許可できないか、
「こうありたい自分」を思い描くことすらできずにいるのでしょう?
だから苦しいんじゃないですか?
私たちはこの世界では「無常」の存在です。
永久不変の宇宙から、自分自身も含めて常に変化し続ける世界に自分を送りこんで体験している最中です。
それなのに私たちは自分が変わることを許さないことがとても多いです。
「こんな自分は変わってはいけない」
と自分自身に変化を禁じ、
「変わらなきゃいけないと望み続ける(でも本当に変わっちゃダメ)」状況を延々と再現しようとします。
私たちは本来ほっといたら自然に
「変わりたい」と思うまもなく変わり続ける存在です。
1秒前と1秒後でも変わっています。
容姿も、性格も、考え方も、記憶も、環境すらもです。
それが私たちがこの世界でやりたいことだからです。
ありたい姿だからです。
完璧で、不変で、すべてが同時で永遠の一瞬の世界から、不完全で、無常で、何もかもが時系列で移り変わっているように感じる世界を体験するために人として生まれてきたのです。
この変化への衝動を認めていること、ありたいようであることを認めていること、それが「愛」なのではないかと思います。
そして、
いろいろな理由をつけたり、条件を設定して「自分が変化することを阻止しようとする」ことが、
「自分を愛さない」ということだと思います。
そのときあなたは、
「変わりたい」という渇望を抱えることになるでしょう。
あなたがいくらあなた自身を「好きになれない。嫌い」と思っても構わないですが、
「変化」を阻止しようとすればその分苦痛を味わうことになるでしょう。
エゴはさまざまな「変わるべきでない理由」をあなたの前に提示するでしょう。
その際たるものが
「まだ条件が整っていない」というものです。
「まだ必要なものを手に入れていない」
「まだ成し遂げていない」
「まだそのレベルに達していない」
「もっと成長してから」
「こんな私は変わってはいけないから」
「成功する保証がないから」
一見もっともな意見であなたにブレーキをかけます。
逆ですよ。
条件が整うから変化できるのではなく、変化するから後付けで条件が整うのです。
たとえ今見ているこの現実世界ではその時系列は逆に見えるかも知れませんが、
あなたが
「条件が整うまで待とう。それまでは変わるべきではない」と決めている限りはずっと待ち時間が続くか、
何かのはずみで条件がそろったとしても、それは外に見える条件に左右される不安定なものになるでしょう。
なぜ条件にこだわるのかというと、
「結果を怖れすぎている」からではないでしょうか?
失敗したらどうしよう、少しでも満足いく成果を得られなかったらどうしようかと怖れるあまり、
「少しでも良い条件が整うまで待とう」となってしまうのではないでしょうか?
ポーカーを始める前に、良い手札がそろうまで延々とカードを切り続けているようなものです。
それじゃあいつまでたってもゲームを楽しむことができません。
愛からだいぶ離れてしまったように思いますか?^^;
そんなことはないですよ。
あなたがあなた自身に、
わき上がる変化への衝動に従うことを許可してあげること、
そして、たとえ満足いく成果を得られなくても、それでも変化したあなたを受け入れてあげること。
頑張ってあなたを好きになろうとする必要はありませんよ。
本当はあなたは自分を愛していますから。
その証拠に、変化を阻止しようとしているのは、「自分を守りたいから」でしょう?
「今の状態は嫌だ!でも、変われると期待して失敗したらもっと傷つくかもしれない!それは避けたい」
ということではないでしょうか?
それも許してあげてください。
「許す」とは、何も「罪を免じる」とかそういう意味だけではありません。
「変わりたければ変わってもいい」「失敗してもいい」「傷つく必要はない」「それもまた自分なのだから」と、その自由を認めてあげること、受け入れてあげることです。
もう長い間あなたを縛ってきた鎖を、
「本当はそんなものはなかった」と、あなた自身を解き放ってあげることです。
あなたが今のあなたをどう思っていようと、それに縛りつけずに、変わる自由を認めてあげること、それが
「自分を愛する」ということです。
赤ちゃんが何度も転んでは立ち上がりよちよち歩こうとするのを見て、
「失敗させるわけにはいかない。転んだら危ないので必要な筋力とバランス感覚が身につくまでやめさせよう」
とやめさせる人はいませんよね^^;
身についたから歩こうとするのではなく、歩こうとするから身につくものだと分かっているからです。
だから、
「今日はできないかもしれない。でも一生懸命歩こうとしている。誰も教えたわけでもないのにすごいなあ」
と、わけもなく愛おしい感情がわいて、慈愛に満ちた目で見守りたくなる人が圧倒的に多いと思います。
「上手くできたら認めてやろう。愛してやろう」
とは思わないと思います。
見ているだけで喜びを感じ、自然に応援したくなる。
失敗しても絶望せずに、トライしている姿そのものを楽しみに見ている。
包む込むような寛容と、
「大丈夫。きっとできるから」というゆったりとした期待と信頼を感じている。
そんな感じです。
あなたが、あなたを愛するのもそんな感じです。
変わりたければ遠慮せず変わってください。
それを許してあげてください。
誰もあなたに「変わるな!」と命じる人はいません。
条件が整うのを待つ必要はありません。
どう変わりたいかもあなたが選んでください。
思いのままに、魂の喜びに従ってこの世界を満喫してください。
大丈夫ですよ。
そうし続けていればきっと、
あなたは最初からあなたを愛していたといつの間にか気がつきますから。
さあ、カードを切り続けるのをやめて、ゲームをはじめてみませんか?