赤間神宮」
(あかまじんぐう)

山口県下関市阿弥陀寺町 

寿永4年(1185年)3月24日、
権勢を誇った平家一門は壇ノ浦に滅亡し、
幼帝・安徳天皇は祖母の二位の尼に
抱きかかえられ入水する。

その御霊を慰めるために建久2年(1191年)
に創建されたのが御影堂(阿弥陀寺)である。

その後、明治となってから神仏分離令によって阿弥陀寺は廃され、
安徳天皇を祭神とする天皇社ができる。

そしてその社が改称され赤間神宮となる。

さらに境内にあった御陵が安徳天皇陵
として治定された
(あくまでも有力な比定地である。
伝承では各地に安徳天皇が落ち延びたとされる場所があり、そこにもいくつかの
宮内庁管理の陵がある)。


 赤間神宮の神門は“水天門”と呼ばれ、
竜宮城を模して作られている。
これは二位の尼が安徳天皇と共に入水する
際に「浪の下にも都の候ぞ
(波の下にも都がございます)」
と言ったことに由来する。

 さらに境内には“七盛塚”と呼ばれる、
壇ノ浦に散った平家一門14名の墓がある。

天明年間(1781-1789)に、
海峡に嵐が続いて船の行き来ができなくなった時、真夜中になると海上をさまよう
平家の武者や女官の亡霊が目撃されたため、
祟りであると考えた地元の人々によって
平家一門の墓が集められ、そして墓を京都
の方角に向けて供養をしたところ嵐は収まったという。
そしてそのそばには「耳なし芳一」で
有名な“芳一堂”がある。


 赤間神宮がまだ阿弥陀寺であった頃、
芳一という名の盲目の琵琶の名手があった。
ある夜、侍がやってきてある貴人の前で
琵琶の曲を披露せよという。
請われるまま琵琶を弾き語り、また次の夜も呼ばれるまま赴いた。
それが毎夜続くため、寺の者が後を追うと、
芳一は平家の墓の前で琵琶を弾き語っていたのである。

琵琶の腕を見込まれて亡霊に取り憑かれたと察した住職は、芳一の全身くまなく経文
を書き、呼ばれても返事をするなと命じた。

夜が更けて亡霊がやってくるが、芳一は
声を出さない。
経文が書かれているために亡霊には芳一の
姿が見えなかったが、宙に浮いた両耳を
来訪した証としてむしり取っていった。……
翌朝、耳をなくし気を失っている芳一を
見て、住職は耳にだけ経文を書き忘れたことに気付いたのであった。
それからこの噂が広まり、芳一はさらに
名声を上げたという。





 赤間神宮は、平家滅亡に端を発して創建
され、その悲しい伝説を今もなお擁しているのである。






<用語解説>

安徳天皇

1178-1185。第81代天皇。
数え3歳で即位し、8歳で崩御。
母は、平清盛の娘の建礼門院徳子である。





二位の尼
1126-1185。平時子。
平清盛の正妻。
従二位の地位にあったため“二位の尼”と
称される。





安徳天皇陵

宮内庁管理の参考地は、山口県下関市
(阿弥陀寺陵とは別の場所)、
鳥取県鳥取市、高知県越知町、
長崎県厳原町、熊本県宇土市にある。
それ以外にも、大阪府・鳥取県・徳島県・
鹿児島県などにも分布している。





七盛塚の14名

知盛(清盛の四男)・経盛(清盛の次弟)
・教盛(清盛の三弟)・教経(教盛の次男)
・資盛(重盛の次男)・清経(重盛の三男)
・有盛(重盛の四男)・忠房(重盛の六男)
・家長(家臣)・忠光(家臣)・景経(家臣)
・景俊(家臣)・盛嗣(家臣)・二位の尼。

全員が壇ノ浦で亡くなっているのではなく、
清経は豊前で自害、
忠房・忠光・盛嗣は壇ノ浦後に刑死となっている。










本足跡