梅









天神。。。





“天神さま”。。。

“天神”とは、それは…

=“祟り神‼”。。。びっくりーー


いや‼…それは
勝手に‼。。“祟り神”とされたもの

祟り神のことを、“天神”と呼んだ。。


“國常立”も…そう。。
封じ込められ‼…“最凶の祟り神‼”とされた。



一般に、“天神さま”といえば…
“菅原道真”だけど

菅原道真は、天神ではない。。

朝廷を怨んで祟っている‼…として、
“祟り神”=“天神”とされただけ。。
















『三千世界に梅の花』
http://s.ameblo.jp/1994199820022006/entry-12124047032.html。。梅キラキラ





目的地‼。。

今回の‼…『二大目的地‼』に行く前に、



ちょっとここへ。。。足跡きら












『清水寺』

狛犬‼。。↑

デカい。。!!きら


あ‼それに…そうそう足跡

見ての通り。。。

両方共‼…獅子舞!ピンクグラ


京都・清水寺の2体狛犬像の
口が開いている本当の理由【その1】

 

そして、この仁王門の両脇には、
通常、他のお寺や神社でもよく見かける、
大きな狛犬が鎮座しているのですが、
この狛犬がまた変わっている。

普通、狛犬というと、
一方は、口を大きく開けている
阿形(あぎょう)」の形をしているのに対し、もう一方は、
口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の
形をしているもの。

ところが、この清水寺の狛犬は、
両方とも「阿形」‼。



実は、奈良にある東大寺の南大門にある
狛犬も同様の形をしており、
明治時代に寄進された際、
なんと!東大寺の南大門の狛犬をモデルにして造立されたと言われています。

なぜ、このように口が大きく開いたな形になったのか?と言うと、

お釈迦様の教えを、大声で、世に知らしめる」という意味で作られたという説があるようです。

また、この「阿形」の狛犬には
別のエピソードがあります。







京都・清水寺の2体狛犬像の
口が開いている本当の理由【その2】

ご存知の方も多いかと思いますが、
清水寺周辺には、「清水坂」や「産寧坂」
など、急な坂が多く、昔の参拝客は、
これらの坂を上るのに大変苦労して、
山門に付く頃には、みんな疲れた表情をしていた。

そこで、清水寺にやってくる参拝客には、
どうか笑顔で訪れてほしいと言う願いを込めてこのような表情にしたとも言われています。




ちなみに仁王門の両脇には、
高さ365センチの仁王像が建っているのですが、こちらは「左側が阿形」であるのに対し、「右側は吽形」の形をしています。

一説にはこの狛犬、作られた当初は
阿吽形で、材質も石ではなく、金属でできていたそうです。

しかし、太平洋戦争の際に、他の金属製の
仏像とともに接収、
「供出(きょうしゅつ/政府に強制的に没収されること)」され、武器などの材料にされてしまいました。

そこで、「石ならいくら戦争になったとしても持ってかれるようなことはないだろう」との考えから、
改めて石でできた狛犬が作られたとも言われています。

この大きな狛犬の裏には、そんな人々の様々な思いが秘められているのですね。


本足跡























「三重塔」






































今回寄りたかったのは、

「清水寺」。。。



というより、


こちら




阿弖流為母禮之碑





“阿弖流為”と“母禮”。。










清水寺

この清水寺の広い境内の中に、1994年に
建立された
「阿弖流為 母禮之碑」
(アテルイ モレの碑)がある。

多くの観光客は、ただ通り過ぎていくだけだが…。。






「阿弖流為」は
平安時代初期の蝦夷(えみし)の頭領であり、「母禮」は副頭領である。



この碑の裏に。

「八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を
日高見国(ひたかみくに)と云い、大和政府
の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成
していた。
政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)
と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征討軍を動員した。
胆沢(いざわ:岩手県水沢市地方)の
首領、大墓公阿弖流為
(たのものきみあてるい)」は
近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。
なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害
を与えた。
八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出
し胆沢城を築いた。
阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した
郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて
田村麻呂の軍門に下った。

田村麻呂将軍は阿弖流為と
副将磐具公母礼(いわぐのきみもれ)を
伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と
器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府
に助命嘆願した。

しかし公家達の反対により
阿弖流為、母禮は八〇二年八月一三日
河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の
悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、
母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により
田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄以って冥さるべし。」

阿弖流為碑文


碑には「岩手県水沢市」と書いてあるが、
その後水沢市は平成18年(2006)の
市町村合併により「奥州市水沢区」と
なっているようだ。




東北地方には大和民族とは異なる人々の
生活があった。その人々を政府は「蝦夷」
と呼んで蔑み、8世紀の後半にはその地方
を支配しようとしたが、この動きに抵抗し
自衛のために戦ったのが阿弖流為たちであった。















阿弖流為

政府軍が相当苦戦した記録が『続日本紀』
に残されている。
延暦8年(789)に征東将軍の
紀古佐美(きのこさみ)が遠征し、
阿弖流為の居所の近くまで進軍したが、
退路を断たれて挟み撃ちとなり多くの
戦死者・溺死者を出して敗退している。
(巣伏の戦い)

この戦いがあった巣伏(すふし)という場所
は、北上川は何度も流域を変えているので
特定は難しいが、
岩手県奥州市江刺区愛宕金谷に
「巣伏古戦場碑」が建てられており、
また奥州市水沢区佐倉河北田に
「巣伏古戦場跡公園」があり、その公園の中に「巣伏の戦いの跡」と書かれた石碑があるという。

『続日本紀』を読むと、大敗したにもかかわらず自分の手柄ばかりを大げさに報告する紀古佐美に、桓武天皇が激怒する場面が記述されている。面白いので『続日本紀』
の現代語訳の一部を引用する。

「七月十七日 天皇は持節征東大将軍の
紀朝臣古佐美らに次のように勅した。
…いま先の奏状と後の奏状を調べると、
賊の首を斬りとることができたのは
八十九首のみで、それに対し
官軍の死亡者は千人余り。
負傷者に至ってはおよそ二千人に及ぼうとしている。
そもそも斬り取った賊の首は百級にも満たなくて官軍の被害者は三千人に及んでいる。このような状態で、どうして喜べるというのであろうか。

ましてや大軍が賊の地を出て還る際に、
凶悪な賊に追討されたことは一度ならずあった。ところが奏上では
『大兵を挙げて一たび攻撃すると、たちまち荒廃の地になりました』といっている。

事の経過を追ってみれば、これはほとんど
虚飾であると思う。
…すべて戦勝報告を奏上する者は、賊を
平定し功を立ててからその後に、報告すべきである。ところが今、賊の奥地も極めずに、その集落を攻略したといい、
慶事と称して至急の駅使を遣わしている。恥ずかしいとは思わないのか。」
(講談社学術文庫
『続日本紀(下)』p.418-420)

桓武天皇は紀古佐美を征東大将軍から外し、延暦12年(793)に征夷大使として
大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を東北に
送った。
その戦役で征東副使である坂上田村麻呂が
活躍したことが『類聚国史』に簡記されている。
(「副将軍坂上大宿祢田村麻呂以下征蝦夷
。」)



坂上田村麻呂は、延暦15年(796)には
陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任し、
翌年には征夷大将軍に任じられ、
延暦20年(801)には蝦夷を討ったと報告している。
また坂上田村麻呂は、いったん帰京してから再び出征し、延暦21年(802)のはじめに
北上川中流域に胆沢城を築き、その年の夏には、蝦夷の頭領阿弖流為と副頭領母禮を
服属させることに成功している。

清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」の碑に刻まれている話は、正史にはどのように記述されているのだろうか。
いろいろ調べてみると
『日本後紀 巻第十』逸文(『類聚国史』
『日本紀略』)にその記録が見つかった。
講談社学術文庫の現代語訳を引用する。


「(四月十五日) 造陸奥国胆沢城使陸奥
出羽按察使従三位坂上大宿祢禰田村麻呂ら
が、
『夷大墓公阿弖利為
(えみしおおものきみあてりい)・
磐具公母礼(いわぐのきみもれ)らが
五百余人の仲間を率いて降伏しました』
と言上してきた。」
(講談社学術文庫『日本後紀(上)』p.272)


「(七月十日)
造陸奥国胆沢城使坂上田村麻呂が帰京した。夷大墓公阿弖利為と磐具公母礼ら
二人を従えていた。」(同上書 p.274)


「(八月十三日)
夷大墓公阿弖利為・磐具公母礼らを斬刑と
した。
両人は陸奥国内の奥地である胆沢地方の
蝦夷の首長であった。両人を斬刑に処する時、将軍坂上田村麻呂らが
『今回は阿弖利為・母礼の希望を認めて
郷里へ戻し、帰属しない蝦夷を招き懐かせようと思います』と申し出たが、
公卿らは自分たちの見解に固執して
『夷らは性格が野蛮で、約束を守ることがない。たまたま朝廷の威厳により捕えた
賊の長を、もし願いどおり陸奥国の奥地へ帰せば、いわゆる虎を活かして災いをあとに残すのと同じである』と言い、
ついに両人を引き出し、河内国の植山で斬った。」
(同上書 p.275~276)
と、想像していた以上に詳しく書かれていた。


清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」にある、
「蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、
東北経営に登用すべく」という表現は正史
には書かれていない部分だが、
田村麻呂が両人を「政府に助命嘆願」したことについては間違いないと考えて良いだろう。
阿弖流為らが処刑された「河内国の植山」
の場所については諸説があるが、
枚方市牧野阪2丁目の牧野公園(阪上公園)に「阿弖流為の首塚」があるという。














坂上田村麻呂

坂上田村麻呂は、延暦23年(804)に再び
征夷大将軍に任命され、三度目の東北遠征
を期したのだが、民の負担を考慮して中止となり、その翌年には参議、
大同元年(806)には中納言、
弘仁元年(810)には大納言に任じられ順調
に出世していく。




次に清水寺と坂上田村麻呂との関係を書かねばならない。
清水寺の開創は宝亀9年(778)で
奈良子島寺(こじまでら)の
賢心(けんしん:後の延鎮上人)という
僧侶だが当時は小さい草庵があっただけだったという。
その賢心が宝亀11年(780)に坂上田村麻呂
と出会い、賢心の話に感銘した田村麻呂
が、自らの邸宅を仏殿に寄進したのが
清水寺の創建だと言い伝えられており、
その後幾度か災害や戦災に遭い再建復興を繰り返してきたそうで、
現在の伽藍は徳川三代将軍家光により
寛永10年(1633)に再建されたものだという。








【清水寺三重塔】

清水寺のホームページによると、
坂上田村麻呂により清水寺の諸堂が建立されたとあるのだが、どうして一武人にそれだけ豊かな財力があったのかと長い間
不思議に思ってきた。
その点をネットで調べると、出典がよく解らないのだが、桓武天皇から坂上田村麻呂
に長岡京の紫宸殿が下賜されたことを書いているサイトがやたらある。
JTBやJR西日本のサイトでもそう書かれているので、そのような言い伝えがあることは間違いなさそうだ。



本足跡