青空文庫「妖怪研究」
伊東忠太

図書カード:No.46337


東京都復興記念館と東京都慰霊堂と見てきた。ここで、伊東忠太の「ばけもの」「化物」「妖怪」は付いて回るものである。
青空文庫に伊東忠太「妖怪研究」がある。ただ、旧字旧仮名で読みにくい。
伊東忠太の建物を紹介するにこれらも紹介したい。現代風に置き換えてみた。

まだ、他の建物を紹介したい。


伊東 忠太(いとう ちゅうた、慶応 3年10月26日1867年 11月21日 ) - 昭和 29年(1954年4月7日 ) は、明治 ~昭和期の建築家 、建築史家である。

山形県 米沢市 出身


「妖怪研究」


 一 ばけものの起源

 

 妖怪の研究と云っても、別に専門に調べた訳でもなく、またそういう専門があるや否やをも知らぬ。とにかく私はばけものというものは非常に面白いものだと思っているので、これに関するほんの漠然たる感想を、いささかここに述べるにすぎない。

 

私のばけものに関する考えは、世間のいわゆる化物とはよほど範囲を異にしている。まずばけものとはどういうものであるかというに、元来宗教的信念または迷信から作り出されたものであって、理想的または空想的にある形象を仮想し、これを極端に誇張する結果勢い異形の相を呈するので、これが私のばけものの定義である。すなわち私の言うばけものは、よほど範囲の広い解釈であって、世間の所謂化物は一の分科に過ぎないこととなるのである。世間で一口化物というと、何か妖怪変化の魔物などを意味するようで極めて浅薄らしく思われるが、私の考えているばけものは、余程深い意味のあるものである。特に芸術的に観察する時は非常に面白い。
 ばけものの一面は極めて雄大で全宇宙を包括する、しかも他の一面は極めて微妙で、ほとんど微に入り細にわたる。すなわち最も高遠なるは神話となり、最も卑近なるはお伽噺となり、一般の学術特に歴史上においても、また一般生活上においても、実に微妙なる関係を有しているのである。もし歴史上または社会生活の上からばけものというものを取り去ったならば、極めて乾燥無味のものとなるであろう。従ってわれわれが知らず識らずばけものから与えられる趣味のいかに豊富なるかは、想像に余りあることであって確かにばけものは社会生活の上に、最も欠くべからざる要素の一つである。
 世界の歴史風俗を調べてみるに、何国、何時代においても、化物思想のないところは決して無いのである。しからば化物の考えはどうして出てきたか、これを研究するのは心理学の領分であって、我々は門外漢であるが、私の考えでは「自然界に対する人間の観察」これがこの根本であると思う。

自然界の現象を見ると、あるものは非常に美しく、あるものは非常に恐ろしい。あるいは神秘的なものがあり、あるいは怪異なものがある。これには何かその奥に偉大な力が潜んでいるに相違ない。この偉大な現象を起こさせるものは人間以上のもので人間以上の形をしたものだろう。この想像が宗教の基となり、化物を創造するのである。且つ又人間には由来好奇心がある。この好奇心に刺激せられて、空想に空想を重ね、ついに珍無類の形を創造する。ゆえに化物は各時代、各民族に必ず無くてならない事になる。したがって世界の各国はその民族の差異に応じて化物が異なっている。


       二 各国のばけもの

 

ばけものが国によりそれぞれ異なるのは、各国民族の先天性にもよるが。また土地の地理的関係によること非常に大である。たとえば日本は小島国であって、気候温和、山水も概して平凡で別段高嶽春麗(こうがくしゅんれい)深山幽澤(しんざんゆうたく)というものもない。すべてのものが小規模である。その我が国に雄大な化物のあろう筈はない。
 古来我が国の化物思想ははなはだ幼稚で、あるいはほとんど無かったと言っていいくらいだ。日本の神話は化物の伝説がはなはだ少ない。日本の神々は日本の祖先なる人間であると考えられて、化物などとは思われていない。それで神々の内で別段異様な相をしたものはない。猿田彦之命(さるたひこのみこと)が鼻が高いとか、天鈿目命(あまのうづめのみこと)がおかしかったという位のものである。また化物思想を具体的に現した絵もあまり多くはない。記録に現れたものもほとんど無く、弘化年間に薬師寺の僧景戒が著した「日本霊異記」が最も古いものであろう。今昔物語にも往々化物談が出ている。

 

日本の化物は後世になるほど面白くなっているが、これは初め日本の地理的関係で化物を想像する余地がなかったためである。その後支那から、道教の妖怪思想が入り、仏教と共にインド思想も入ってきて、日本の化物はこのためによほど豊富になったのである。たとえば、インドの三眼の明王は変じて通俗の三眼入道となり、鳥嘴(ちょうし)の迦樓羅王(かろらおう)は変じてお伽話の烏天狗となった。また日本の小説によく現れる魔法遣いが、不思議な芸を演ずるのは多くは、一半は仏教から一半は道教の仙術から出たものと思われる。

 

日本が化物の貧弱なのに対して、支那に入ると全く異なる、支那はあの通り尨大な国であって、西には昆崙雪山の処峰が際涯なく連なり、あの深い山岳の奥にはきっと何か怖しいものが潜んでいるに相違ないと考えた。北にはゴビの砂漠から来る風は悪魔の吐息だと考えたのであろう。かくて支那には昔から化物思想が非常に発達し中には極めて雄大なものがある。もっとも儒教の方では孔子も怪力乱神を語らず、鬼神妖怪を説かないが道教の方では盛んにこれを唱道するのである。

VERSYS 650 と共に日本中を駆け巡る・nonnon-png

  形に現はされたもので、最も古いと思われるものは、山東省の武氏祠(ぶしし)の浮彫や毛彫のような絵で、これは後漢時代のものであるが、その化物はいずれも奇々怪々を極めたものである。山海経を見ても極めて荒唐無稽なものが多い。小説では西遊記などにも、至る所痛烈な化物思想が横溢している。歴史で見ても最初から出てくる伏義氏(ふくぎし)が蛇神人首であって、神農氏(しんのうし)が人身牛首である。こういう風に支那人は太古から化物を想像する力が非常に強かった。これ皆国土の関係による事と思われる。
 

さらにインドに行くと、インドはほとんど化物の本場である。インドの地形を支那と同じく極めて広漠たるもので、その千里の薮があるという如き、必ずしも無稽(むけい)の言ではない。天地開闢以来いまだ斧鉞(ふいつ)の入らざる大森林、いたるところに蓊鬱(おううつ)としている。インド河、黄河の濁流は茫洋として果ても知らず、この偉大なる大自然の内には、何か非常に恐るべきものが潜んでいると考えさせる。実際または熱帯圏には不思議な動物もいれば、不思議な植物もある。これを少し形を変えると直ぐに化物になる。インドは実に化物の本場であって、神聖なる詩誌ラーマーヤナ等には化物がたくさん出てくる。インド教に出てくるものは、いずれも不思議千万なものばかり、三面六臂とか顔や手足の無数なものとか、半人半獣、半人半鳥などの類がたくさんある。仏教の五大明王等もインド教から来ている。

 

インドから西へ行くと、ペルシャが非常に盛んである。ペルシャには例の有名なルステムの化物退治の神話があり、アラビアには例の有名なアラビアンナイトがある。エジプトもそうである。洋々たるナイル河、高瀑たるサハラの砂漠、これらは大いに化物思想の発達を促した。エジプトの神様には化物がたくさんある。しかし、これがギリシャへ行くとよほど異なり、却って日本と似ている。これ山川風土気候等、地理的関係のしらしむる処であって、すべてのものは小ぢんまりとしており、したがって化物も皆小規模である。ギリシャの神は皆人間でわずかにお化けはあるが、怖くないお化けである。それは深刻なインドの化物とは比べ物にならぬ。たとえば、ケンタウルという悪神は下半身は馬で、上半身は人間である。また、ギカントスは両脚が蛇で上半身は人間、サチルスは両脚は羊で上半が人間である。およそ真の化物というものは、どこの部分を切り離しても、一種異様な形相で、全体としては渾然一種の纏まった形を成したものでなければならない。しかるにギリシャの化物の多くは斯くの如く継ぎ合わせ物である。故に真の化物と言うことは出来ないのである。しからば北ヨーロッパの方面はどうかと見遣るに、この方面については私はあまり多く知らぬが、要するに幼稚極まるものであって、規模は極めて小さいようである。つまりヨーロッパの化物は、多くは東洋思想の環化を受けたものであるかと思う。

 

以上述べたところを総括して、化物思想はどういうところに最も多く発達したかと考えて見るに、化物の本場は是非熱帯でなければならぬことが判る。熱帯地方の自然界は極めて雄大であるから、思想も自然に深刻になるものである。そして熱帯で多神教を信ずる国において、最も深刻な化物思想が発達したということが言える。たとえ熱帯でなくても、多神教国には化物が発達した。たとえばチベットのごとき、そのラマ教は非常に妖怪的な宗教である。斯様にしてインド、アラビア、ペルシャから、東は日本まで、西はヨーロッパまでの化物を総括して見ると、化物の策源地はアジアの南方であることが分かるのである。

 

なお化物に一の必要条件は、文化の程度と非常に密接の関係を有することである。化物を想像する事は理にあらずしいぇ情である。理に走ると化物は発達しない、たとえ化物が出ても、その理性的な乾燥無味なものであって、情的な余韻を含んでいない。したがって少しも面白みがない。故に文運が発達して来ると、自然化物は無くなってくる。文化が発達してくれば、自然どこか漠然として稚気を帯びているような面白い化物思想などを容れる余地が無くなってくるのである。

       三 化物の分類

 

 以上で大体化物の概論を述べたのであるが、これを分類して見るとどうなるか。これは甚だ難しい問題であって、見方により、各々異なるわけである。まず差し当たり種類の上からの分類を述べると、

 

(一)神仏(正体、権化)

 

(二)幽霊(生霊、死霊)
(三)化物(悪戯の為、復讐の為)

(四)精霊

(五)怪動物


の五となる。


(一)の神仏はまともの物もあるが、異形のものも多い。そして神仏は往々種々に変相するからこれを分かって正体、権化の二とすることが出来る。化物的神仏の実例は、インド、支那、エジプト方面に極めて多い。釈迦がすでにお化けである。卅二相(さんじゅうにそう)をそのまま現したら恐ろしい化物が出来るに違いない。インドのシヴアも随分恐ろしい神である。これが権化して千種万葉の変化を試みる。ガネーシャすなわち聖天様は人身象頭で、悪神の魔羅は随分思い切った不可思議な相貌(そうぼう)の者ばかりである。エジプトのスフィンクスは獅身人頭である。エジプトには頭が鳥だの獣だの色々の化物があるが皆このうちである。この(一)に属するものは概して神秘的で尊い。

 

 化物の分類の中で、第二の幽霊は、主として人間の霊魂であってこれを生霊死霊の二つに分ける。生きながら魂が形を現すのが生霊で、源氏物語葵の巻の六条御息所の生霊の如きはすなわちそれである。日高川の清姫などは、生きながら蛇になったというから、これもこの部類に入れてもよい。死霊は、死後に魂が異形の姿を現すもので、例が非常に多い。その現れ方は皆目的によって異なる。その目的はおよそ三つに分かつことが出来る。一は怨みを報ずる為で一番怖い。二は恩愛の為でむしろいじらしい。三は述懐的である。一の例は数うるにいとまがない。二では謡(うたい)の「善知鳥(うとう)」など、三では「阿漕(あこぎ)」、「鵜飼(うがい)」などその適例である。幽霊は概して全体の性質が陰気で、凄いものである。相貌なども人間と大差ない。
 第三の化物は本体が動物で、その目的によって悪戯の為と、復讐の為とに分かつ、悪戯の方は如何にも無邪気で、狐、狸の悪戯は何時でも人の笑いの種となり、如何にも陽気で滑稽的である。大入道、一つ目小僧などはそれである。しかし、復讐の方は鍋島の猫騒動のように随分しつこい。

 

 第四の精霊は、本体が自然物である。この精霊の最も神聖なるものは、第一の神仏の部に入る。例えば日本国土の魂は大國魂命(おおくにたまのもこと)となって神になっているが如きである。物に魂があるとの想像は昔からあるので、大は山岳河海(さんがくかかい)より、小は一本の草、一朶(いちだ)の花にも皆魂ありと想像した。即ち「墨染桜(すみぞめのさくら)」の桜「三十三間堂」の柳、などその例で、これらは少しも怖くなく、極めて優美なものである。

 

 第五の怪動物は、人間の想像で捏造したもので、日本の鵺(ぬえ)、ギリシャのキミーラおよびグリフィン等これに属する。龍麒麟等もこの中に入るものと思う。天狗はインドでは鳥としてあるから、やはりこの中に入る。この第五に属するものは概して面白いものと言うことが出来る。

 

 以上を概括してその特質をあげると、神仏は尊いもの、幽霊は凄いもの、化物は可笑しいもの、精霊はむしろ美しいもの、怪動物は面白いものと言い得る。


       四 化物の表現

 

 これら様々の化物思想を具体化するのにどういう方法をもってしているかというに、時により、国によって各々異なっていて、一概に断定することは出来ない。例えば天狗にしても、インド、支那、日本皆その現し方が異なっている。龍なども、西洋のドラゴンと、インドのナーガーと、支那の龍とは非常に現し方が違う。しかし、すべてに共通すた手法の方針は、由来化物の形態にはなんらか不自然な箇所がある。それを芸術の方で自然に化かそうとするのが大体の方針らしい。例えば六臂の観音は元々大化物である。しかしその沢山の手の出し方の工夫によって、その手の工合が可笑しくなく、却って尊く見える。決して滑稽に見えるような下手なことはしない。ここに芸術の偉大な力がある。

 

 この偉大な力を分解してみると。一方には非常な誇張と、一方には非常な省略がある。で、これより各論に入って化物の表現即ち形式を論ずる順序であるか、今はその暇がない。もし化物学という学問がありとすれば、今まで述べた事は、その序論と見るべきものであって、ここにはただ序論だけを述べることになるのである。

 

 要するに、化物の形式は西洋は一体に幼稚である。ギリシャやエジプトは多く人間と動物の継ぎ合わせをやっている事は前に述べたが、それでは形は巧みに出来てもいわゆる完全な化物とは云えない。ロマネスク、ゴシック時代になると、よほど進歩して一の纏まったものが出来てきた。例えばパリのノートルダムの寺塔の有名な怪物は継ぎ合わせものではなくて立派に纏まった創作になっている、ルネッサンス以後は論ずるに足らない。然るに東洋方面、特にインドなどはすべてが渾然たる立派な創作である。日本ではあまり発達していなかったが、今後発達させようと思えば余地は十分ある。日本は今芸術上の革命期に際して、思想界が非常に興奮している。古今東西の思想を総合して何物か新しい物を作ろうとしている。この機会に際して化物の研究を起こし、化物学という一科の学問を作り出したならば、さだめし面白かろうと思うのである。昔の伝説、様式を離れた新化物の研究を試みる余地はきっとあるに相違ない。(完)

 

(大正六年「日本美術」)  


VERSYS 650 と共に日本中を駆け巡る・nonnon-347
東京都震災慰霊堂の「ばけもの」

VERSYS 650 と共に日本中を駆け巡る・nonnon-236
東京都震災慰霊堂・屋根の上の「ばけもの」


VERSYS 650 と共に日本中を駆け巡る・nonnon-171
東京都慰霊堂の唐破風の懸魚のところに鳥様の「ばけもの」がいた。

VERSYS 650 と共に日本中を駆け巡る・nonnon-486
東京都復興記念館の正面にある「ばけもの」

VERSYS 650 と共に日本中を駆け巡る・nonnon-妖怪図案集
伊東忠太の残した「ばけもの」

「ばけもの」はそれを中心には見ていない。伊東忠太の「ばけもの」を探す楽しみもある。見つけて、探して、確認して・・・・・探したときに追加していこうと思う。

暮らしの中で、自然との境界の曖昧さによる畏怖や、自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、これらの恐れや幸福をもたらす存在として具現化された。古いものや、よく分からない物・・・ただ、それだけで畏敬される。
そして、それらは「神」になったり「ばけもの」として恐れ敬う。あまたの神々とかいぶつとの境界はさっぱり判らない??

「古事記」なんてものを読んでみると、どうも自然のよく分からないものをまず優先的に「神」として畏敬して、残ったものを「ばけもの」「妖怪」としていった印象を、そして、敵対するものを「かいぶつ」「妖怪」してきた印象を受けるのだがどうだろう。


地が初めて現れ動き出したときに、高天原タカマノハラになった神の名は天之御中主神アメノミナカヌシノカミ、次に高御産巣日神タカミムスヒノカミ、 次に神産巣日神カミムスヒノカミ、この三柱の神は、みな独り神として、身を隠した。次に地上世界が若く、水に浮かんでいる脂のようで、くらげのようにふわふわと漂っていた時、葦が芽を吹くように、きざし伸びるものによって成った神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神ウマシアシカビヒコジノカミ、次に、天之常立神アメノトコタチノカミ
この二柱の神もまた
独り神として身を隠した
以上の五柱の神は
別天津神コトアマツカミである。

天津神たちは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)に
「この漂っている国土を有るべき姿に整え固めなさい。」と命じ、天の沼矛(あめのぬほこ)をお授けになった。そこで二神は天浮橋の上にお立ちになって、その沼矛で国土を掻きまわした。沼矛を引き上げると、沼矛の先から滴る潮(塩)が積もって島になった。
これを淤能碁呂島(おのごろしま)
という

伊邪那岐命と伊邪那美命・・日本の国土を作った神々
大八島国オオヤシマノクニ 
1淡道之穂之狭別島アワジノホノサワケノシマ(淡路島)
2伊予之二名島イヨノフタナノシマ(四国)
   愛比売
エヒメ(愛媛県)
   飯依比古
イイヨリヒコ(香川県)
   大宜都比売
オオゲツヒメ(徳島県)
   建依別
タケヨリワケ(高知県)
3隠伎之三子島
オキノミツゴノシマ(隠岐島)
   =天之忍許呂別
アメノオシコロワケ
4筑紫島
ツクシノシマ
   白日別
シロヒワケ(福岡県)
   豊日別
トヨヒワケ(大分県)
   建日向日豊久士比泥別
タケヒムカヒトヨクジヒネワケ(長崎県・熊本県・佐賀県・宮崎県)
   建日別
タケヒワケ(熊本県・鹿児島県)
5伊岐島イキノシマ(壱岐島)
   =天比登都柱
アマヒトツハシラ
6津島ツシマ(対馬)
   =天之狭手依比売
アメノサデヨリヒメ
7佐渡島
サドノシマ(佐渡島)
8大倭豊秋津島
オオヤマトトヨアキヅシマ(本州)
   =天御虚空豊秋津根別
アメノミソラトヨアキヅネワケ
その他

・吉備児島キビノコシマ(岡山県児島半島)
   =建日方別
タケヒカタワケ
・小豆島
アズキシマ(香川県小豆島)
   =大野手比売
オオノテヒメ
・大島
オオシマ(山口県屋代島)
   =大多麻流別
オオタマルワケ
・女島
オミナシマ(大分県国東半島沖の姫島)
   =天一根
アマヒトツネ
・知訶島
チカノシマ(長崎県五島列島)
   =天之忍男
アメノオシオ
・両児島
フタゴノシマ
   
(五島列島南の男島・女島)
   =天両屋
アメノフタ
 

日本として始まる神々としての国土自体が神としてあれば「ばけもの」「妖怪」の住む場所なんてどこにあるのであろうか。

「私の考えでは「自然界に対する人間の観察」これがこの根本であると思う。
自然界の現象を見ると、あるものは非常に美しく、あるものは非常に恐ろしい。あるいは神秘的なものがあり、あるいは怪異なものがある。これには何かその奥に偉大な力が潜んでいるに相違ない。この偉大な現象を起こさせるものは人間以上のもので人間以上の形をしたものだろう。」


神があって、定着してしまった世界では、残った「美しい」「恐ろしい」「神秘的」「怪異的」なものが「ばけもの」としてある。
「ばけもの」「妖怪」の素性を知りたいということでもないが、伊東忠太の「ばけもの」を見たときによく判らない不思議に畏敬を持ち、尊ぶ精神を保つ意味があるのかと思う。