2012年3月。
會津スキー同志の千遠先輩が、山川大蔵の(過剰に)熱い記事を書かれ、その返答記事でしたが、新たな情報も知ることが出来たので、改訂、再録しました。
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通称・鉄之助で、号は斗南。一言で言えば、大蔵の同い年の親友(悪友)で、山川兄弟との関わりも深い人物です。

誕生日や身分、姓の変わる経緯など、はっきりしていないことが結構あって、意外な感じです。

姓に関しては、篠田家に産まれ、小出家に入った説と、元々父の代から小出家に入っていた説が、未だにあります。

篠田というと、白虎隊で教導を務めた、儀三郎がいますが、この篠田と同族なら、そんなに低くはないはずですが、記録が紛失でしょうか?

小出は、後の逸話から想像しにくいですが、日新館の秀才と呼ばれ、通常18歳で受ける一等試学に15歳で及第、容保公の小姓に抜擢されます。

同い年の大蔵は、飛び級していて、17歳で講釈所(大学)卒業で物頭に任命されました。

日新館では、身分などで必修義務の学問にも等級があり、一概に比較は出来ませんが、両者とも、相当に優秀であることは間違いありません。

小出は、しばし小姓を務めて後、江戸への遊学を許されて、古屋作左衛門(高松凌雲の兄)の私塾で、洋学を学びます。

ちなみに、なってから半年なんですが、手続きなどの時間を考えると、小姓になって直ぐ、遊学願いを提出しているかのようなタイミングです。

性格上、小姓職は彼に合わなかったのか、攘夷攘夷と騒ぐ親友に感化されたために、追い出されたのでしょうか?

その遊学中、大蔵と言えば、守護職拝命の容保公のお供で、(攘夷を叫びながらも)京都で大忙しの日々です。

小出も遊んでる訳ではないでしょうが、花見の帰りに、番所役人に、揚屋入りを命じられてしまったりしてます…

なにやってんだ(笑)


(続)