昨年の夏、僕は裏切られた。自分の能力に裏切られた。それは、才能でも何でもなかった。ただの虚像だった。とてつもない悲しみが僕を襲った。どうする事もできなかった。ただ、絶望するしかなかった。そんな時、誰かが慰めてくれたらどんなに楽になれるだろう。しかし、僕は孤独だった。1番の理解者だと思っていた人にまで裏切られた。悲しみに暮れている僕に追い討ちをかけるような言葉しか掛けなかった。でも、それが現実だ。  
 「人は1人で生きているのではない。皆で支えあって生きているのだ。」とよく言われる。でも、僕に言わせればそんな言葉は奇麗事に過ぎない。支えあっているように見えるが、それはただの幻想である。肝心な時に役に立たない。裏切られる。だから、人は1人で生きている。それが真実だ。
 一時期、いじめが原因で自殺をする学生が急増した。そんなニュースを見て、「自殺をする前に身近な人に相談しろ」だとか、「自殺する勇気があるのなら、なぜいじめに立ち向かおうとしないのだ」とか言うが、完全に彼らは間違っている。いじめの本質をわかっていない。そもそも、いじめとはどういうことか。それは、孤独になることである。今まで、「人は皆で支えあって生きている」と思い込んでいた人が、その幻想を打ち砕かれることである。単なる暴力や無視は、いじめとは言わない。
 僕は、空想で書いているのではない。自分の経験に基づいて書いているのだ。実は、僕は小学校の低学年の頃にいじめにあっている。今でこそ克服したが、当時はとても辛かった。いや、「とても辛かった」と書いているが、本当はそんな言葉で表せるものではない。ただ、他に言葉が見つからないからそう書いているだけだ。主犯格は、1人ないしは2人だった。というのは、彼らはグルになってやっていたわけではなく、2人が別々に僕をいじめていたのだ。しかし、主犯格は2人でも加害者はクラス全員だった。いや、教師や家族までもが加害者だった。僕は、僕に関わる全ての人間がいじめをしていたと思っている。
 もしかしたら、それは僕の勝手な思い込みかもしれない。しかし、実際にいじめにあっている人はそう感じるものである。そんな人に「相談しろ」って言ったって、誰に相談すれば良いのか。僕は、疑問に感じる。だって、自分を取り囲む全ての人が敵なのだから。こんな時に味方が現れる人は、相当幸せだ。というより、味方が現れた地点で、いじめはいじめでなくなる。少なくとも、被害者の悲しみは軽減される。それだけで、救われる。
 僕の場合は、(記憶が定かではないため若干虚偽を書くかもしれないが)少なくとも家族は味方ではなかったように感じる。その事を話しても、「祈りなさい」と言うだけで現実的な対処はしてくれなかったように思う。つまり、事実を学校に報告したり、加害者に抗議をしたりするようなことは一切なかったということだ。我慢を強いられた。今思えば、それこそが僕の強さの原点の1つになっていると思うので、感謝しているが。だから、僕は耐え続けた。いじめが原因で学校を休むようなことはしなかった。たとえ傘で攻撃されて全治二週間の怪我を負わされても、自分のバックがトイレに流されても、クラス全員から白い目で見られても、僕は負けなかった。そしたら、時が全てを解決してくれた。
 だからこそ、僕はいじめにあっている全ての人に言いたい。声を大にして言いたい。誰かが解決してくれると思ったら、大間違いだ。いじめは1人で闘うものである。だから、誰にも相談しない方がいい。相談するだけ、時間と労力の無駄である。それは、断言できる。そして、解決しようと思わないほうがいい。ダメな時は、何をやっても空回りするだけだ。かえって、状況を悪化させるだけである。だから、ひたすら嵐が過ぎるのを耐えるべきだ。嵐はやがて過ぎ去る。それまで頑張って生き延びることができれば、嵐が去った時、何かが見えてくるはずだ。くじけないで、頑張って下さい。

 僕はいじめを通じて、人の冷たさを知った。人間関係の儚さを知った。だから、僕は尾崎豊の「汚れた絆」(※)という曲を大切にしている。確かに、人の存在は温かい。僕だって、何度も人の優しさ、温かさには触れている。人間って素晴らしいと感じたことだって何度もある。僕はそれらを全否定するつもりは毛頭ない。だが、それらを過信するのは危険だ。裏切られた時の衝動は大きい。だから、「裏切られる可能性」を忘れず、生きていくべきである。
 ちなみに、その後、僕はいじめにあっていない。やられた分はしっかり返した。1人は千葉で逮捕された(らしい)ので仕返しするヒマはなかったが、もう1人にはしっかり返した。内容は書かないが、強いて言うならば、自分の城から追い払ったというだろうか。でも、それだけでは不十分である。これからも徹底的に彼の人生の汚点を暴露していこうと思う。もしかしたら、彼は一生苦しむことになるかもしれない。だが、仕方ない。自分の罪の重さを認識するまでは、正義のためにそのような仕打ちを受けても文句は言えないだろう。
 
 いじめの被害者の中でもリピーターというか、何度もいじめにあう人がいる。そういう人の共通点は、事後処理をしっかりしないことである。つまり、仕返しをしなかったり、いじめにあわないための防衛策をしないことである。確かに、いじめというのは100%相手が悪いが、それを自分の糧にしなければ被害を受けた価値はない。まず、仕返しをしないのは、いじめを容認することである。やられたらやり返す。それが鉄則だ。怖いかもしれない。だが、別に相手の目の前でする必要はない。例えて言うならば、相手が歩く道に、バナナの皮でも仕掛ければいいだけである。もしくは、相手の家の周りにガソリンを撒いておけば良い。(本当にやったら犯罪なので、これはあくまでも例えです。良い子はマネしないように!)そうすれば、自分の手を汚さずに相手をこらしめることができる。仕返しをすることで、いじめの再発は防げる。
 そして、防衛策。態度をデカクすること。偉そうにすること。「謙虚な姿勢」は素晴らしいことだ。だが、その謙虚さも時に弱さに見られることがある。常に、偉そうな態度をして、何があっても動じない心を持っていれば、まずいじめにあうことはない。嫌われるかもしれないが、そのあたりは自分で調節して嫌われない程度にすればいい。「弱気は最大の敵」という言葉を残した人がいる。それは正しい。虚勢でもいいから、常に強そうにしておくこと。それが、唯一の防衛策である。
 本当は、こんなことは書きたくない。いつの日か、いじめという言葉が無くなればいい。そう思っているが、いじめは常に人間につきまとうため、不可能かもしれない。だから、いじめ対策といじめ根絶運動の両方をやるという姿勢でいなくてはならない。矛盾しているのは承知だが。ただ、これを読んでくれる皆様だけでも、いじめや裏切りなどの人間関係に苦しまなくて済むようになって欲しいと思い、この文章を書いた。全ての人は幸せに暮らしてほしい。それが、僕の願いです。

「汚れた絆」  尾崎 豊

俺たちは街の流れに すれ違う人混みの中で 
まるで運命に選ばれるように出会った
時が幾ら流れても 信じて見つめるものは
いつでも同じだと誓い合う様に語り明かした
心の中を探り合えば 傷みと悲しさを覚え合う Oh-
俺はまだ震えてる 二人を止めるものもなく
分け合う寂しさに 怯えた二人の絆が 凍えた風に吹かれてる

俺たちは気付かぬ振りをした 別々の人生の意味が 
いつか二人を引き裂いてしまうことを 嘘だけは決して付かないと
約束したときから 裏切りがやがて訪れた
ふと気付けば互いは互いを演じ 見つめ合うことすら出来ぬ Oh-
俺はきっと忘れない 二人はこれで良かったのさ
今は汚れた絆も なにも変わらず信じている
俺たちの輝き奪われぬように

なぁ覚えてるかい 俺たちの笑顔 
今日またその意味が静かに流れてく
失うことばかりが やけに多過ぎると 
心かばうやつらにすがるように泣くのか
誰もが皆 一人じゃいられず 二人で分け合うことすら出来ない Oh-
いつかまた出会えるさ 俺たちを止めるものは何もない
汚れた絆のその意味を 俺たちは決して忘れない
求め続けた輝きを Oh- Oh- Oh-