15の時、初めて「立志」をした。受験前で余裕がなかったのだが、あの挑戦はその後の人生に大きな影響を与えた。執筆は苦手だった。国語のテストの「200字作文」は何とか書けるようになっていたものの、長文に本気で取り組んだことはなかった。読書感想文も、長くなると冗漫になってしまいがちだ。だから、政経塾への挑戦は単なる論文コンテストではなく、俺にとっては天職の発見であった。しかし、それ以上に収穫はあった。

 自分の人生というものをこれほど深く考えたことはなかった。過去の自分を振り返り、その栄光を未来につなげるためには、あれほど最適なことはなかった。そして、mskj-111との出会い。松下幸之助という偉大な経営者との出会い。この時、俺の人生は間違いなく変わった。まさに、最初の「転機」である。

 それまでは、安定ばかり求めていた。波風立てず、周りと協調し、保守的であることが大切だと思い込んでいた。いや、もちろん、全くそうだったというわけではない。昔から、変わり者だった。流行には乗らない、あまり人と群れない、物事を深く考える・・・だが、それらを自分のスタイルとして確立するには無理があった。勇気もない、知識もない、ビジョンもない。そんな俺は、とにかく堅実な人生を歩む道を探るしか術がなかった。

 当時、裁判官を目指していたのもそういう経緯があったからだ。昔は、鉄道が好きだったからJR西日本に入社することを望んでいた。中学2年までそうだった。堀江貴文氏の本を読んで経営者に憧れたこともあったのだが、「自分にはこんな大それたことは無理」と決め付けて諦めていた。ところが、JR西日本の脱線事故によりその夢は砕かれた。自分の好きな会社の好きな車両が脱線事故を起こしたことはショックだったが、それよりもJR西日本の勤務実態などが放映され、完全に希望を失ってしまったのだ。そして、国の機関を目指した。「行列」の影響で法律に興味が湧いたので、裁判官になろうと思った。ダメなら国家公務員でもいいやと思ったりもした。今、考えれば、どちらにしろ大変なのだが。別に、日本がどうなろうとどうでも良かった。中年になる頃には2000万弱の年収が保障され、何よりも国が自分を守ってくれる。そこで、平凡な結婚をして平凡な毎日を送ることができればいいと思っていた。「先が見える」ことに安心感を感じていたのだ。

 だが、政経塾に行ったことで、全てが変わった。特に、俊さんとメールをやり取りしたことで、自分の中に眠っていた狼が目覚めた。「俺の考えを実行している人がいるんだ!」と深く感動した。彼についていけば、きっと何か得るものがあると思った。別に、俺は俊さんの模倣をしたいとは思わなかった。自分の中でもある程度理論を固まりつつあったからだ。だが、俺には決定的に欠けているものがある。それが、実践であり、経験だった。何もしていなかったわけではない。だが、全てが自己完結するもので規模が小さすぎた。

 ちょうどその頃、尾崎豊に出会った。初めは単に曲が明るくていいなと思っていたのだが、よく聴いてみると歌詞に深い意味が込められていると知った。そして、俺は尾崎に影響された。全ての物事に意味を見出すようになり、自分なりの理論を形成していった。

 今思えば、俺の「第二の人生」が始動したこの時期は、全てにおいて充実していたように思う。多くの出会いを重ねた。そして、多くの成功を重ねた。ちなみに、1番モテたのもこの時期だ。これに関しては多くを語ることはないが。細木数子の「宿命大殺界」がピタリと的中していたように思う。15歳の冬、ここから全てが始まった。俺の原点はここにある。

 静高に入学後、奇抜なスタイルで周囲の注目を集め、仮装大会では主役に抜擢される。誰にでも気軽に話せるようになり、女の子たちと食事に行ったのもこの時が初めてだった。音楽の方も、この時から深く愛すようになった。楽しい歌を通じて、何とかメッセージを伝えようとした。球技大会では2年連続で活躍し、学校誌にも文章が掲載された。最も顕著なのは、ブログを始めたことである。しかも、学校内外を問わず、多くのアクセスを集めることになった。fqtブームの到来により、俺は人生を180度変えてしまったのだ。この時から成績が落ち始めたのだから、この革命が幸か不幸かはわからない。だが、俺の中で何かが誕生した。

 自宅を改築したのもこの頃だ。そして、この事が自分の夢に対する最大のきっかけとなる。とにかく、トラブルの連続だった。俺は今まで「企業」というのは、消費者に対して色々な面で責任を負い、それを果たしているものだと思っていた。しかし、それができない企業があまりにも多過ぎることに気付いた。すごく腹が立った。そして、決意した。自分の手で、お客様を幸せにする企業を創り上げてやろうと。客を泣かせるようなことがあってたまるかとも思った。

 高校に入った時は弁護士になることを望んでいたが、色々研究していくうちにその可能性に疑問を呈するようになっていったのである。法科大学院の設立され、司法試験制度が変わる。当初は、法科大学院に進学すれば7割は法曹になれるとされていたが、次第にそれが4割になってしまった。しかも、ロースクールは内容面でも資金面でも厳しい。そんなところにいながら、法曹になれる保障がない。しかし、法曹人口だけがどんどん増えていく。日本はまだ完全な法治国家とは言えない。「2割司法」「3割司法」という言葉が示すように、日本人はトラブルがあっても訴訟を起こす人は少なく、泣き寝入りしてしまうケースが多い。最近は法律番組などの影響で法律についての関心が少しは高まったが、それが訴訟件数には結びつかない。弁護士の仕事は訴訟だけではないが、弁護士の増加により仕事が少なくなるのは目に見えている。いや、それ以前の問題として、就職先がない。弁護士といえども、すぐに事務所を開設できるわけでもなく(できないこともないが)、いったんはどこかの事務所に就職する場合が多い。しかし、それも困難になってくる。そういったことが最近の日経新聞に書かれていたが、俺はそのことに一早く気付いて、法曹になる夢から脱却したいと思った。

 もちろん、これは理由の一部でしかない。やっぱり本当の目的は、前述の通り、怒りが経営者になる夢と結びついたわけであるし、弁護士としてサポートするよりも、自分がプレイヤーとなって参加してみたいという思いがあった。だが、1番の理由は中学の頃読んだ、堀江氏の本だろう。あの時は勇気がなくて目指せなかった。だが、俊さんの考えに触れていくうちに、俺もやってみようと思えたのだ。そうして、事業も確定しないまま、経営者、それも社長を目指すことに決めたのだ。

 (中略)

 大学院には両親が許してくれるなら行きたい。MBAを取るためだ。ファイナンス研究科とかで。ただ、学費が高いので諦めるか、企業で行かせてくれるチャンスを待つか。

 その辺は臨機応変にいくが、ここからは行かないことを前提にして話をしよう。
 コンサルティング会社に入社したい。この業界のことも少し勉強してみた。一般の会社と違い、入社してあまり期間が経たないうちからプロとして扱われ、結果も出さなくてはならない。プロジェクト単位で動くので、忙しい時には深夜まで働くこともある。とにかく忙しい。まとまって休みを取れる時期もあるが。だが、この業界での3年は他の業界での10年と言われるように、密度の濃い経験ができる。ポストの数が決まっていないため、実力次第でどんどん上に上れる。色々な企業を相手にするため、多くのことを学べる。最終目標が自らの手で会社を経営し、成功することなので、この業界で学ぶことは十分生かせると思う。大前研一さんみたいな優れたコンサルタントにはなれなくても、経験豊富で知識の詰まったコンサルタントになりたいと思う。会社はアクセンチュアかマッキンゼーに入りたい。入社も厳しいので、こちらから選べないが。

 マネージャークラスになったら、独立を考え始める。この時に起業への夢を失っていないか心配だが、野心があればいつでも挑戦したい。事業構想はある程度は固まっている。だが、あえて書かない。それは、1つの事業にこだわるようなことはしたくないからだ。俺の夢はいつもデカイ。M&Aを繰り返しどんどん会社を大きくしていきたいので、まずは確実に利益が出せる事業からSTARTする。株式公開も40歳になる前までにしたい。俺がなりたいのは、小規模のプライベート・カンパニーのトップではない。fqtグループのトップになりたい。もちろん、核となる事業を持つことは大事だが、それだけに縛られると成長がストップするのではないかと思う。三菱みたいになればいいと思う。まぁ、三菱は家電も車も嫌いだが、あんな感じになりたい。車も作れば、家電も作る、文房具も作れば、不動産も扱う。銀行も、証券会社(あったっけ?)も・・・国民にとって「かゆい所に手が届く」企業でありたい。
 だが、日本だけでビジネスをするつもりは毛頭ない。というより、ホンネを言えば日本でビジネスをしたくない。最近、散々泥水を飲まされたが「出る杭は打たれる」風潮にある国でビジネスをするにはどうも窮屈なように感じる。ホリエモンの二の舞になりかねない。かといって、アメリカも案外閉鎖的な所がある。それに、成長しきったアメリカで大成功を収めるとは考えにくいし。もし、明日ビジネスをするとしたら、中国でやりたい。確かに、色々な問題が噴出しており、そんなに好きな国でもないのだが、やっぱり成長中の国でやりたいし、12億人というマーケットは魅力的である。実際には富裕層しか相手にできないと思うのでこの数はもっと減るが、それにしたって魅力的なマーケットだ。これは、インドなどにも通じるが、国民全体でレベルアップを図っているので、「出る杭を打つ」ようなことはあまりないと聞いている。仮にあっても、日本よりはマシだろう。国と一緒に成長できれば、これ以上の喜びはない。

 中国だけでなく、世界全体でビジネスをしたい。もちろん、日本は大好きだけどそこだけで留まっていたくはない。「日本のfqt」から「世界のfqtへ」。そして、「最新のfqtが最高のfqt」と胸を張って言えるような人生にしたいと思う。世界を代表する企業にするためにも、俺は前進をやめない。そして、教祖と同じ過ちを犯さないためにも、コンプライアンスの遵守、セキュリティの管理を徹底し、「やましいことがない」組織でありたいと思う。

 まぁ、それでも幸せな家庭は築きたい。今の俺の家みたいに。いつも笑っていて、夢を純粋に応援できるような家庭にしたい。妻にとっては最高の男であり、子供にとっては最高のオヤジでありたいと思うのだが、仕事もあるし難しいと思う。だが、不憫な思いはさせたくないので、家庭のことも顧みながら生きていきたい。

 そして、若者の教祖でありたい。夢を棄てずに、自らの心に眠る狼を目覚めさせ、明るく前向きに突っ走れる人間が1人でも多く表れたら良いと思う。そのためには、何だってする。本だって書くし、俺の人生だって色んな所で語ってやる。「ホリタン」みたいな受験生を元気付ける教材も出版し、どんなに能力のない人でも人生を切り拓けるようにしたい。そして、人生の転機となった政経塾の論文コンテストみたいなイベントを開催し、全国のドリーマーたちを結びつけて、最高の経験をつくるチャンスを与えたい。
 それが、俺の「seventeen’s road map!」


十七歳の地図

歌手 尾崎豊 作詞 尾崎豊 作曲 尾崎豊

十七のしゃがれたブルースを聞きながら
夢見がちな俺はセンチなため息をついている
たいしていい事あるわけじゃないだろう
一時の笑顔を疲れも知らず探し回ってる
バカ騒ぎしてる 街角の俺達の
かたくなな心と黒い瞳には寂しい影が
喧嘩にナンパ 愚痴でもこぼせば皆同じさ
うずうずした気持で踊り続け 汗まみれになれ
くわえ煙草のSeventeen's map

街角では少女が自分を売りながら
あぶく銭のために何でもやってるけど
夢を失い 愛をもて遊ぶ あの子忘れちまった
心をいつでも輝かしてなくちゃならないってことを
少しずつ色んな意味が解りかけてるけど
決して授業で教わったことなんかじゃない
口うるさい大人達のルーズな生活に縛られても
素敵な夢を忘れやしないよ

人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば
すみからすみはいつくばり 強く生きなきゃと思うんだ
ちっぽけな俺の心に 空っ風が吹いてくる
歩道橋の上 振り返り 焼けつくような夕陽が
今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ
Seventeen's map

電車の中 押しあう人の背中にいくつものドラマを感じて
親の背中にひたむきさを感じて このごろふと涙こぼした
半分大人のSeventeen's map
何のために生きてるのか解らなくなるよ
手を差しのべて おまえを求めないさ この街
どんな生き方になるにしても
自分を捨てやしないよ

人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば
しがらみのこの街だから 強く生きなきゃと思うんだ
ちっぽけな俺の心に 空っ風が吹いてくる
歩道橋の上 振り返り 焼けつく様な夕陽が
今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ
Seventeen's map