認知症にたいする施設職員の対応に関して、『ユマニチュード』っていうフランス人によって簡潔命名された方法が、テレビ(NHKと昨日のTBS)で紹介されたようだ。

そこで認知症ケアの方法について命名された『ユマニチュード』という表現の意味を、ざっくりと世界史観点に立ちながら言語学的に考えておきます。



まずフランス語『ユマニチュード humanitude』を英語に直せば『ヒューマニチュード』となります。つまり人間性を意味する『ヒューマニティ』や人間中心主義を意味する『ヒューマニズム』の語尾をラテン語に由来する『チュード』に変えたものである。

そこで語尾の『チュード』に注意しますと、それは地震の時に耳にする『マグニチュード』と同じであります。また地震に限らず星の光度にも用いられていたりして、度合の意味が感じられたりします。(『高度』を意味する altitude なども同様)

他に『チュード』がついているものには、英語やフランス語における『確実性』を意味する certitude がありますが、しかしイタリア語 certezza スペイン語 certeza などでは適用されていません。つまり語尾の適用は文化内の事情によって選択されて来たものであり、たとえば英語のヴァケーションとフランス語のヴァカンスの違いなんかにも認められる現象です。

ヴァケイション(1962)

恋のバカンス(1963)

するとフランス語『ユマニチュード』とは、従来の『ユマニテ』(英語でヒューマニティ)にたいして、新たに度合の意味に含んだ『チュード』に変換させて派生したものと言えます。

(『aptitude 適性』と語源において関係ある『attitude 態度』と『humanite 人間性』が組み合わさったのが『ユマニチュード』っぽい)


ところでテレビ放映された現場状況から察せられることには、認知症と診断された人が暴れるので親族の了解を得たりして手足を固定化する場合があるそうなのですが、それは人間扱いされていない恐怖のゆえに暴れている可能性があり、要するにケアする側のユマニチュード(人間度)が上がって恐怖が軽減されれば暴れなくなることもありうる点を示した新しい方法のようです。

逆に言えば、従来のユマニテ(人間性)の尊重のみを目標にしていては、単にケアする側の自己修練の中に留まった努力になってしまい、いつまで経ってもケアする側のユマニチュードと言う人間理解度によって認知症側の態度が変わる点に気付かないままの対応が続けられることになるわけです。


話は少々変わりますが、フランス人は虚栄心が強い文化にあります。つまり見栄っ張りなのです。ルソーも『告白』で「フランス人には虚栄から生じる偏見があり、イギリス人には傲慢から生じる偏見がある」と言っています。

しかしそんな見栄っ張り気質がケアをする側の見栄を洞察し、その見栄の認知症側へ与える影響を発見したのでしょう。また同時に、急に今まで経験したことのない見栄を張れない状態になった認知症側の変化も考え合わせたユマニチュードだったと言えます。

おそらくフランス人にとって、見栄は義務なのだ。各人は人それぞれの見栄っ張りを計算しながら自分の見栄を作らなくてはならないのであり、そんな多様化されている見栄についての社会学が認知症のにおけるユマニチュードに繋がったのであろう。


フランス構造主義のボードリヤールは『消費社会の神話と構造』を示したが、ユマニチュードは『ケア社会の伝統努力と構造』を示したのだ。またフーコーはケアする側の理性が認知症側の狂気を作っている側面を示唆したのにたいして、ユマニチュードは認知症側とケア側の関係が人間の理解度によって左右されている点を明らかにし始めた形だ。

おそらくアンペールの法則(1820)にしても、電流(ケア)が磁場(認知症を取り囲む環境)を作っているイメージを想起させ、ユマニチュードがフランス由来であることと無縁ではない気がしてくる。

すればユマニチュードにたいして、単に認知症ケアにおける実績効果に集中することなく、ケア状態に限らず一般社会が作っている文化的環境を含めて視野を広げる必要があろう。