人に内在する良心神(神言会)より



私が神霊世界の修業に足を踏み入れた頃、私は不思議な夢を見ていました。そこに大きなドーナツ型の真ん中に穴が空いたおいしそうなパンがあります。私はそのパンを見ながら、【イエスのパンの教えは美味なれども、真ん中が無いパンの教えだな】とつぶやいているのです。

私は夢から覚めて、「イエスの教えには真ん中が無い?」に首を傾げていました。一部の霊能者達から不思議なことが言われていました。それは「キリスト教徒でどれほど愛善の人でも第一天国界に行ってはいない。第二天国界止まりだ。どうしてキリスト教徒は第一天国界には進めないのだろうか?」と言う疑問話です。
第一天国界ともなりますと他力信仰ではなくて本人に「如来の知恵」が必要となって来ます。愛善だけでは菩薩の道であり、第二天国界で止まってしまいます。
それが事実だとすると、イエスの教えには「真ん中」が抜けていたからとなります。私が夢の中でつぶやいていた「イエスのパンの教えは美味なれど真ん中が無い」の真ん中とは何だろうと夢から覚めて考えておりました。

当時はまさか、パンの教えでは無くて「米」の教えで真ん中を知るとは思ってもいませんでした。
大本教の出口王仁三郎聖師が日本は「米」が主食で、西洋の「パン」の教えは副食だと説かれていましたが、西洋でパンは副食ではなくて主食です。不思議なことを書かれているなと思っておりましたが、大本教神諭「米」は一粒だに野には落とさない。朝鮮に残されていた予言の「米」一字で意味が理解出来たわけです。
西洋の人がいくら頑張っても、東洋から出る「叡智」の教えには辿り着くことは出来ないようになっていたわけです。


キリスト教のある教派では、よく【神の花嫁】が言われます。それはイエスを主の神と信じる者達はイエスの花嫁になれますです。そうなると、イエスは世界中のキリスト教の女性を妻とする存在でハーレムの主か?。それでは妻とは成れない男はどうするのだとなります。

私が子供の頃、私に旧約聖書の神と称する声が臨んでいました。その声の主は、イエスやマホメット(ムハンマド)や日本の弘法大師さんの神界における地位に言及されましたが、それによればイエスは本当の「キリスト」たる立場の者ではなく、偉大な神の子の一人であると告げられたのです。
その事自体は、イスラム教の開祖マホメット(ムハンマド)もイエスは本当のキリストではなくて、尊敬すべき偉大な大預言者であるとしたのですが、それが現在のキリスト教とイスラム教の犬猿の仲の原因の一つともなっています。キリスト教徒はナザレのイエスを絶対的な「キリスト(真理)」とかメシヤだと頭から信じ切ってしまったからです。
 

一部の方はこの「神の花嫁」はマルコの福音書とかマタイの福音書で言われますが、その部分は神の花嫁の意味をなしていません。神の花嫁に関して言えば、どちらかと言えば「ヨハネの黙示録」の記述なのです。
 
ヨハネの黙示録19章
【ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚礼の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。<彼女は、光輝く>。汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである】の小羊(創造神を信じる者達)の婚礼の時のことなのです。
この全能者にして主なるわれらの神が「イエス」その者だとは、ヨハネの黙示録のどこにも書かれてはいないでしょう。
 
本来、キリストという意味は【真理のロゴス】のことであり、別にナザレのイエスのことを指したものではないのです。
私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は「イエス」に関して少し言及されましたが、一度も彼を「キリスト」だとは言われませんでした。常に「ナザレのイエス」としか言われません。その位置づけはマホメットよりも少し高い上格の者です。
そして【そなたはイエスの教えを何一つ恐れることなく、イエスの教えを乗り越えて行きなさい」でした。当時は私も子供でもあり、イエスの教えを乗り越えて行けという意味がまるで理解出来ませんでした。

お釈迦様とイエスの教えを比較した場合、真理はお釈迦様の方が遙かに高い内容が説かれています。ただ単にその宗教の教えを頭から信じるではなくて、他の宗教との内容を比較吟味して行くと、そこには違いが解ります。
 

この「花嫁」の本質の意味は、ヨハネの黙示録第二一章にあります【私はまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た】にあります。

この新しい天地に進む者達は【創造神と結婚した立場】となるのです

新しい天地とは、今現在の私達が見ている天地のことではありません。私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声は、【この地球とまったく同型の瓜二つの地球】だと私に言われたのです。そのこと自体は一部の神通力者やサイキッカーの人達も、もう一つの地球として語っておられると思いますが、科学では絶対にその地球を見つけることは出来ません。ですから科学的「証明論」としては成り立たない話ではあるのです。

そうしたことは【全て嘘】だと言うことも出ます。しかし、おそろしいほどの言葉の仕組みが存在しているのも確かなのです。今の科学で存在しない新しい地球が有ると言えるのかの批判は甘んじて受ける必要はあります。それは神の存在を信じる者の立場からすると、人の身で創造神がされることを知るなど「おこがましい」の一言で、次元は違えども有ると信じるしかないなのです。

私が立替の話を伺った豊受姫様にしても、此花咲耶姫様にしても、人類は全員死ぬと言われるのはこの新しい天地に移行するに当たっては、一度は死なないと行けないからです。だが、この仕組みは聖書に書かれる単なる【復活】劇ではなくて

死んだはずだよ【お富】さん 生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏の【お富】さん

でして、大本教からは立替前からお「富」さんの十三(とみ)の【ス神】論が出されて来たわけです。

で、この仕組みは「身の終わり(美濃尾張)」から神の高山(国道第41号)で神の通力で三途の川を渡らせて(神通川)、火の裁きの時に富(十三)山にと入ります。神の火の裁きを越える中(越中)の「十三」でお助けしますなのです。こうした型で見せる仕組みはこの日本だけに存在するのです。


こうした美濃尾張から高山を経て富山の並びは単なる「偶然」と片付けたい人はそれでも良いと思います。神とは一人一人が自分はこう思う。そうした自己主張を一々聞く立場には無いからです。

私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたが歩く道は、これまで人類の誰も歩まなかった道であり、そなたが初めての者でありそなたをもって終わる。そなたの後にはそなたが歩いた同じ道(言葉の仕組みの解説)を歩く者はもう誰も出ない」と告げられており、私をもってもうこした「言葉の仕組み」は誰も言わなくなるからです。



スピリチュアルで自分に天使長ミカエルがカブリエルが宇宙司令官が出て来る等の蛇霊の囁きに踊る仕組みなどではないのです。日本という国をそのものを型にした仕組みなのです。
この仕組みがとんでもない大がかりな仕組みであると気づかないと、創造神と呼ばれる神と諸神諸霊のスケールの違いが理解出来ないのです。

単にスピリチュアルの世界では、贋キリスト、贋マリア、贋ミカエル等の意味が無い「メッセージ」の連発になりますが、それらは「言葉の仕組み」を創ることも解明することも出来ない存在の低い霊なのです。それに引っ掛かって後で泣いても、その時にはもう遅いのです。
 
これまでの世を終えて、新しい地球に生きる意味が【キリスト(真理)の花嫁】となるのです。
その「真理」こそが本来のキリストの意味で、その「真理」を得る者達は神の花嫁となります。その時、その装い(新しい世界での霊の服)も新たになるのです。
では、その「真理」とは何かと言った時、これまで私が一貫して説いて来ました大本教神諭予告「九つ花」にあります。その「九つ花」は「真理」でもあるわけです。大本教神諭は数字の羅列盤を九つ【花】としました。
 
キリスト(真理)たる【花】を【読め】の【花読め】となります



だが、これだけでは単なる神の【花読め】にしか過ぎません。
問題は【創造神に嫁ぐ為の結婚式】です。

スピリチュアルでは絶対に言わないことが「厳霊」と「瑞霊」です。スピリチュアルではそもそも「厳霊」と「瑞霊」が何のことか理解出来ないからです。スピリチュアルで出て来るミカエル天使長など、そうした質問をしたら何も答えられないでしょう。

花婿たる神とは主であり真理であり【厳霊】となります。花嫁となる神は【瑞霊】となります。厳霊は「言葉」であり、瑞霊は言葉を出すのではなくて「音秘め」となります。ここは少し難しくて理解が出来なくてもかまいません。

ただ、瑞霊は「音秘め」なので「亀」が語る

大本教の出口王仁三郎聖師は自分は「瑞霊」と告げられて、綾部でなくて「亀丘(亀岡)」から出られたのです。
 
私達日本人は【神の言葉】である日本語を知り使う立場にあります。日本の結婚式においては【三三九度】を神前で執り行います。
では、この「九つ花」を「真理」とすることによって、どうして神の花嫁となるのかとなります。その花読めには「三三九度」があるからなのです。
9×9の「369(みろく)」の仕組みの源は、その基本として3×3=「九つ」であって、同じ「41」を中心柱とする「123(ひふみ)」となります。「九つ花」の真ん中の「九つ」の数のことを五霊界と言っています。基数が必ず「5」になるからです。そしてその総数は必ず「123」となるのです。

大本教からは「九つ花」でも「369(みろく)」の仕組みを織れない九曜紋が出され、岡本天明氏からは「ひふみ(123)」が出されましたが、何故にそうした内容が霊界から出て来たのか?。その「因」までは誰も考えられなかったでしょう。

 
大本教から「九つ花」が予告され「みろく」と言っても「米」型は出されず、岡本天明氏も「ひふみ」を言っても、そこに亀甲陣も出されなかったわけです。
 
それは【神の花嫁】となる時節ではなかったからです

だが、【神の花嫁】として嫁ぐ時節は近づいて来たようです