自分の職業に関わる先人に伊能忠敬という偉人がいる。 18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となり、危機的な状態だった伊能家を再興し地域への奉仕活動も行った。50歳の時に家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出た。
 当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。高橋至時は当時まだ32歳であり、弟子入りを申し込んだ忠敬は51歳。20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請う事に驚くが、忠敬の向学心の高さにはメンツやプライドなど関係のないことだったのだろう。
 高橋至時は当初、忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”と呼ぶようになった。(すいほ=星の動き測ること)
 1800年忠敬55歳の時、江戸を出発し東日本全体の測量を開始する。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。歩測というのだが、先日の埼玉県民の日にイベントで行ったのがこれである。ちなみに自分は土木設計が主業務だが、歩測では今でも正確な歩幅で計ることが可能だ。
 忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった。しかし、その喜びもつかの間、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠する。
 半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には「続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ」と幕命が下る。忠敬の測量はもはや個人的な仕事ではなく、正式な国家事業に変わった。
 1805年忠敬60歳の時、再び江戸を出発。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。1815年2月19日、最終測量地点の東京・八丁堀で忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる。
 各地の地図を一枚に繋ぎ合わせる作業に入ったが、忠敬は肺を病んで73歳で病没する。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成をさせた。世界が驚いた「大日本沿海輿地全図」がこれである。


 今、土木関係を含む公共事業は未曾有の不況下にあり、若い技術屋も育たないというか誰も興味を示さない斜陽産業である。日本が資源のない国であるならば、人を技術を育成することが国家繁栄・存続に繋がると考える。土木技術に限らず技術立国を目指し、連綿と続く技術の継承をすべきだろうと思う。
 自分は伊能忠敬が測量を開始した年齢だが、今の自分は何をしているのだろうと反省をさせられる。飽くなき技術の探求心や好奇心、向上心をなくしてしまったら人間は終わりだと思う。まだまだ老け込むのは早すぎる・・・


 できると思えばできる!!
      ウィルギリウス(ローマの詩人)