この記事は、フィンガー5近代映画特集号の記事です。
長い記事ですので、何回かに分けて更新します。
それから、この記事は、よく目にする話だと思います。
マーちゃんが夢中で踊ったツイスト大会
南国・沖縄の夏は早い。4月の声とともに夏がやってくる。
半開きにした病院の窓から、気持ちのいいそよ風が吹き込み、風とともに子供たちの歓声が聞こえてくる。
美しい五色のサンゴ礁にかこまれた中城湾(なかぐすく)で子供たちが水遊びをしている声だ。
久子は自分のベッドの隣でスヤスヤと眠るいとしいわが子を眺める。
数時間前に生まれたばかりの赤ン坊だが、その顔を眺めながら産婦はわが子が水しぶきをあげて、中城湾を走りまわる姿を想像してほほえむのであった。
「久子!でかしたゾ。男の子だってなア」
ハアハアと息をはずませながら、夫の松市が病院にとび込んで来た。
その夫のひたいには玉の汗が浮かび上がっている。
「これがオレの坊主か・・・・」
無精ひげを生やした顔を赤ン坊にくっつける。
そのひげの痛さに眠っていた赤ン坊が目を覚まし大声をあげて泣きはじめた。
「うん、なかなか元気のいい男の子だ。こりゃきっと立派な医者になるぞ!」
松市は満足そうに大声で笑った。
この赤ン坊こそ、フィンガー5のリーダーの一夫だった。
昭和30年4月8日のことであった。
その頃、玉元松市と久子の夫婦は具志川市の中心街でクリーニング店を経営していた。
店の構えこそ小さかったが、働き者夫婦とあって仕事は繁盛していた。
店の奥が夫婦と両親たちの住居だった。
店の仕事が忙しい夫婦は息子の一夫を祖父母にあずけて働きつづけた。
祖父の三郎と祖母のマドカは、玉元家の相続人となる孫の一夫をこよなく可愛がった。
祖父母は昭和のはじめに南米ペルーに移住し、太平洋戦争のさなかの昭和18年沖縄に帰って来た人だけに年ににず、強烈なリズムの南米の音楽が大好きだった。
そこで祖父は古ぼけた蓄音機でラテン音楽を孫によく聞かせた。
昭和32年の2月3日は次男の光男が、そして34年2月2日には三男の正男が生まれた。
「これで玉元家のあととりが全部出来たな」と祖父母をはじめ松市や久子も喜んだ。
沖縄では家を継ぐのは男の子と決まっていた。
松市の二人の弟たちはいずれも戦死して後継がいなかった。
そこで、すぐ下の弟の家は光男が、次の弟の家は正男がいずれついてくれると、祖父母や両親は大喜びだった。
クリーニング店は次第に店を大きくし、従業員も二人使うようになっていた。
「子供も増えたし、店の隣りに喫茶店でも開こうと思うんだが・・・・」
夫の提案に妻の久子はただちに賛成した。
というのも、夫の松市は子供の一人は医者にしようと考えていた。
子供を医大までやるにはお金がいる。
稼がなくては・・・・。夫婦はそう思っていた。
松市が息子を医者にしたいと思ったのには、それなりの理由があった。
彼は16歳の頃から病院で働き、戦争中は13年間も衛生兵として傷ついた兵隊の看護に従事してきた。
「医者ほど人から喜ばれ、それでいてお金のもうかる商売は他にない」
それが松市の信念だった。
久子は正男をおぶって、クリーニング店と喫茶店の両方で働きつづけた。
喫茶店はよくはやった。
そこで夫婦はもっともうけの大きいスナックにこの店を改造した。
このスナックは、やがてアメリカ兵相手のクラブへと発展していった。
一夫が5歳の年に祖父の三郎が病死した。
それ以来、一夫は家の外で遊ぶようになった。
或る日、一夫は家の近くの石垣の上から手に竹を持ったままとび降りた。
ところが、先をとがらせてあった竹の棒が口からのど元につきささり小指大の穴が喉にあいてしまった。
「大したことはない。ひとりで医者に行ってこい」
元衛生兵の父親はそういって一夫を医者のところへやった。
仕事が忙しくって子供をかまってやれないせいもあるが、「男の子は独立心をつけなくちゃ」が口ぐせの父親は、厳しく父親を育てた。
のどの傷は一週間ほどで穴がふさがった。
ところが、なぜか声がもれてしまうのだ。
「お母さん」と呼べず、息が鼻へ抜けて「おかあはん」になってしまう。
一夫の言葉が元通りになるのに1ヶ月以上かかった。
それ以来、彼の声はなんとなく鼻にかかる甘ったれた声になった。
36年5月9日、四男の晃が生まれ、翌年の6月7日には次女の妙子が誕生した。
小学校1年生になった一夫と4歳の光男、それに1歳の晃の3人はお手伝いさんが世話していたが、正男だけは母親の久子さんのそばを離れようとはしなかった。
『琉大』は具志川市でも一、二をきそうクラブに成長し、クリーニング店もさらに大きな店になっていった。
久子は正男の手を引っ張り、妙子をおぶってクラブに通った。
ジュークボックスのあるクラブに行くのを正男は喜んだ。
久子がクリーニング店の方に急用が出来て帰ろうとすると、「ぼく、ここで待ってるよ」と、ジュークボックスから離れようとしなかった。
アメリカ人向けの店のため、ジュークボックスには外国の曲ばかりが入っている。
正男はそれらのレコードを片っ端からかけいつまでも小さな体をゆすりながら聞き惚れていた。
昭和37年の秋、正男たちは両親に連れられて那覇市にやって来た。
ちょうど同市では、゛ツイスト大会”が開かれた。
「ぼく、出てみたいよ」正男がだだをこねた。
「お前、踊れるの?」と母親が聞いた。
「踊れるさ!」
正男はツイストの曲を口ずさみながら巧みに体を動かした。
「いい線いってるよ」と、一夫がほめた。
こうして、正男は゛ツイスト大会”に飛び入りすることになった。
この大会には、大人も含めて百十数名が出場した。
リズムを体で表現する力といい、3歳の正男の右に出る者はいなかった。
正男は優勝した。
この正男の優勝に一夫と光男も刺激され、クラブに通いジュークボックスにかじりつくようになった。
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これでやっと一つ目の小見出しが終わりました。
長いです・・・・
それでは次回をお楽しみに!
五色のサンゴ礁 ・小説フィンガー5