宗教と迫害
今までの宗教の歴史を見てきたとき、次の時代を作るような力ある宗教が出てくると、その宗教または教祖は、必ずと言っていいほど迫害を受けてきました。
イエスキリスト然り、釈迦牟尼然り、日本では日蓮上人も迫害されました。
新しい真理をもたらした新しい宗教、そしてその教祖は、次の新しい時代を作る力があるだけに、既得権益を持った、その時代の中心宗教によって、必ず迫害されるようになっています。
逆に言えば、次の時代を作る力を持たない宗教であれば、全く脅威を感じませんから、決して迫害など受けることもないのです。
身近な分かりやすい例をあげると統一教会への迫害があります。
文先生の路程を見ると、日本において、韓国において、アメリカにおいて、行く先々で迫害を受け、生涯6度も牢獄に捕らえられてきました。
その迫害を行った張本人は、当時、既に既得権益持っていたキリスト教が中心でした。
自らの存在が脅かされかねないとして、文先生を脅威に感じ、ありとあらゆる手段を使って迫害を加えてきました。
それはあたかも2000年前、イエスキリストが受けた迫害と全く同じものでした。
そのイエスも、自らを迎えるべくして長い年月をかけ神様が用意された、神の選民たちによって迫害を受けてしまいました。
常に新しい真理が現れると、古い真理を信奉する人たちによって、迫害を受けるようになります。
このような構図を、私たちは原理を通じ、文先生のみ言を通じ、嫌というほど教育されてきました。
そして自分たちが立たされた立場を、迫害を受ける、新しい真理の側に置いて考えるのが癖となっていました。
しかし本当に、今の自分は迫害する側ではなく、迫害される側なのかどうかを考える必要があるのではないでしょうか?
その構図を今日の統一教会に当てはめて考えてみることにしましょう。
統一教会でも現在は、既得権益を得ている人たちと、新しい真理を語る人たちとに分かれています。
既得権益を守ろうとする人たちは情報を統制し、新しい真理に一般の教会員たちが触れることを阻止します。
それはあたかも戦前大日本帝国の大本営のようであり、ソ連共産主義下での共産国家群のようであり、現在の北朝鮮や中国と同じような情報統制を行っています。
自分たちの既得権益を守るのに汲々とするだけで、本来の世界平和だとか、神様の願いの創造本然の世界を一日も早く迎えたいだとかいう思いは感じられず、何のための信仰なのか方向性さえも失われてしまいました。
そこに神様は存在するのでしょうか?
神様の話自体聞かなくなって久しいような気がします。
自分たちの拠り所である教会組織を守るのに必死で、神様の願いに生きるだとか、文先生の願いに生きるだとかいう発想さえも失われてしまったように思われます。
献金のため摂理という言葉は今もよく使われますが、今の摂理とは何なのかわかっている人は誰もいないのではないでしょうか?
そのため、文先生の伝統を守ろう、文先生に帰ろうという亨進様の主張さえも、今の組織を守るためには異端として、非原理的存在と定義され、ありとあらゆる手段を使って攻撃されているように感じます。
何をそんなに恐れているのでしょうか?
何も持たずに教会を追い出され、アメリカの片田舎でひっそりと暮らしていた亨進様の言葉に、何をそんなに恐れを抱いているのでしょうか?
それはあたかも、絶対的な国際的、社会的基盤を持ちながらも、たった一人新しい真理のみ言葉を語り続けた文鮮明青年に恐れを抱き、ありもしないスキャンダルをねつ造し、国家権力に訴えることによって迫害を加えてきたキリスト教会の姿に酷似しています。
しかし今の時代は、正午定着の時代。正しいものは栄え、偽物は滅びる時代です。
本当に原理を理解し、文先生の勝利圏を絶対的に信じるならば、正しく生きるしかない時代です。
一生懸命に自己を正当化し、今得ている利権にしがみつこうとしている人たちは、正しい人たちからの攻撃がなかったとしても、時間とともに自然と滅びてしまうことでしょう。
生き延びるためにはただ一つ、正しいことをするだけです。
正しいことをしなかった場合、どんなにあがいても、滅びてしまうのは必然です。
自分たちの存在をかけ、あらん限りの自己正当をしても、結果を変えることはできません。
罪の上に罪を重ねるだけで、自分たちにとってプラスになることは何もありません。
それはカトリックとプロテスタントの関係よりも、厳格な結果が待ち受けていることでしょう。
カトリックはプロテスタントが現れても、今に至るまで連綿と続いていますが、今の統一教会、家庭連合は、本当に悔い改めない限り、神様の願いのままに生きようと生まれ変わらない限り、生き延びる道はありません。
それほど文先生の勝利圏によって、正しいものは栄え、偽りのものは滅びる時代に入ってしまっているのです。
そこに許しはありません。
神様を信じ、文先生をメシヤとして、真の父母様として信じるならば、文先生が命がけで戦い勝利してきた勝利圏を信じ、神様の願い、文先生の願いにこたえるための道を歩むしか道はないのです。
毎日訓読をし、祈祷をし、一生懸命に献金をしても、自らの生活に原理を取り入れ、原理的生活ができていなかったら、その信仰生活に何の意味があるのでしょうか?
特に私以上に原理を理解している人はいないとでもいうかのように、偉そうに原理を語り、我々を指導している、利権を謳歌している指導者たちには同情してしまいます。
彼らに待ち受ける永遠の世界は、どのような世界なのでしょうか?
ダンテは神曲の中で、地獄に行ったとき、足元を見ると多くの人間が地に埋まり、頭だけを地上に出していたと書いてありますが、その顔を見ると見たことのある人たちだったと言っています。
そこに埋まっていたのは、当時有名な教職者たちであったというのです。
多くの人々から尊敬を受け、素晴らしいみ言を語り、人々を指導し、良い生活をしていた教職者たちが霊界に行ったら、その霊界は地獄の底で、彼らは地に埋まり、頭だけを地に出している惨めな姿だったというのです。
生きている数十年は栄光の人生だったかもしれませんが、永遠の世界では、惨めな罪人として、誰にも顧みられない、地獄の底での生活が待っていたのです。
しかし彼らは、イエス様に直接に侍り、直接にイエス様を利用し、自らの利益を堪能した人たちではありませんでした。
もし彼らがイエス様に直接に侍り、直接イエス様を利用した人たちだったとしたら、その罪は幾倍にもなっていたことでしょう。
今日文先生に直接に侍り、侍ることで得るようになった利権を自分勝手に使った人たちは、どのような世界に行くようになるのでしょうか?
想像しただけで恐ろしくなってしまいます。
そのようなことを考えると、今現在文先生を利用し、自らの利権を守るのに汲々としている人たちには、同情するしかありません。
今の許しのない時代にあっては、誰が裁かなかったとしても、正しい人は栄え、正しくない人は滅びるしかありません。
時間の問題です。
もし少しでも、自分が迫害を加える側に立っているのではないかと思い当たる所がある場合、即刻悔い改め、正しい生き方を模索する以外、裁きを免れる道はありません。
今はまだ悔い改めることもできる時です。
自らを捨ててこそ浮かぶ瀬もあり、生きる道も見えてくるはずです。
原理は自らの生活の中で実践できなかったならば、どんなに学んだとしても、全く意味がありません。
自己否定、自己犠牲の道こそ、私たちが歩むべき道ではないでしょうか?