『鴨川と親父と俺』 | 10-FEET TAKUMAオフィシャルブログ Powered by Ameba

『鴨川と親父と俺』


『鴨川と親父と俺』



昨日は、午前中からスタジオに入り、昼から夕方まではいつものコース。鴨川を散歩しながらたまに休憩して作曲したりしてた。その後は親父の所へ。



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過去鴨川の土手でギター弾いて作った詩や曲は"sea side chair"や"rainy morning"そして"river"その中に鴨川の風景が宿ってる。世に出さなかった曲もちらほら。

ここ数年はライブや制作以外はほとんど京都にいる。以前は制作、作曲のほとんども東京でやっていたが、ここアルバム数枚はほとんどの作曲が京都。ずっと京都に居たり、ずっと東京に居たり、どちらも選べるけど、時折東京のスピード感を浴びに行ったり、東京の仲間に会いたくて、ここんとこは京都も東京も半々ぐらい。

どっちに居ても、音楽以外の時間は、会いたい人に会いに行って、沢山話して、それがまた作る唄に繋がったりして、その唄がまた僕と誰かを近づけてくれたりしてくれる。

ツアーになると、しばしば地方に居る事にもなるが、そこにメンバーやスタッフの家族を連れて行ったり、またその土地土地の仲間にも会えたり。それぞれの血縁が居る箇所をツアーする時なんかはライヴ以外の時間も盛り上がる。今や僕達の帰省は盆と正月とツアーだ。

そしてツアーやライヴで家族や地元の仲間と数日間会えない寂しさは、その誰彼もが自分にとってどんな存在かどんなに大切かを毎回教えてくれて、やがてその待ってくれている人達への愛に変わってきた。そしてそれはこれからもずっと。



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僕の日々の傍らには、いつも音楽や歌や詩があって

音楽は出会いや運命を変えて来た。

いつも良い方に。

親父との再会もそうだ。

今の10-FEETが無ければ、親父との再会は無かったかもしれない。そして母ちゃんや姉ちゃんや家族がまた親父と笑って話せる様になったのも、10-FEETが無ければあり得なかった事だ。



親父とはいろいろあって15年前から別々に暮らしていて、去年まで音信不通だった。

15年前、借金が元で家族や親戚はバラバラになり、母ちゃんも親父とは心が離れ、別々の道を選んだ、僕と姉ちゃんは母ちゃんと暮らし、母ちゃんは当時貧乏なバンド生活を東京で送る僕に仕送りをしてくれていた。姉ちゃんも少ない給料から何度も仕送りしてくれた。




僕が25歳の時、ある日、母ちゃんの働くお店が倒産して、仕送りが出来なくなって、日々の生活、爺ちゃんや婆ちゃんの面倒も見れなくなってきて、僕はバンドを辞めて就職しなくちゃいけない流れになっていった。''springman''の時だ。

家族や親戚がバラバラになったその頃から将来の目標は、職業を問わず「幸せな家庭を作って最後まで幸せにする事」になっていった。そしてその幸せな家庭のその側に音楽があったら最高だ。そう思って生きてきた。例え本格的な活動が出来なくなっても、就職しながら音楽はどんな形かで続けて、家族で幸せになるという大きな目標も残っていたので、世界の破滅だまでの悲壮感では無かった。そしてもし事情がそれなりの事情になれば、本当にその時は最前を尽くした上で、10-FEETの活動の頻度に対する覚悟はそれなりのモノを持っていた。もうこれ以上家族を悲しませたり、家族がバラバラになったり、あんな思いはしたくないし誰にもさせたくない。その意思は強かった。

ところが母ちゃんの働き先が倒産する二、三ヶ月前に僕らのファーストアルバムが出て。これが少しだけ売れて、このタイミングで少しだけお給料と印税が貰える様になって、奇跡的に母ちゃんや姉ちゃんの生活を、今度は僕が助けられる様になった。

もう少しだけバンドが出来るかも知れない。

ファーストアルバムがこの年に出てなかったら10-FEETは無くなっていたかもしれない。

少なくとも僕は続けられなかったと思う。



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新しいアンプやギター、色んな欲しいモノもあったけど、お金で家族がバラバラになった僕は、贅沢とか節約とかが好きでも嫌いでも無かった。

過去が過去だけに、お金は全然無いと心が荒む事を知っていたし。そしてお金で幸せを潤わす事は出来ても、お金そのものの中に幸せがあるわけではない事は身を持って知っていた。

全ては大切な人があってこそだ。

お金は沢山無くてもいいからいつも家族と一緒に居たいと思ってた。

だからどんなに貧乏をしても、給料を貰う様になっても、お金そのものにはいつもどこかしら無表情だった。自分の贅沢より、お金の使い道は家族か仲間でいいと思っていた。大好きな人と腹を抱えて笑えればそれで良かった。でも無くなると家族がバラバラにもなる事も知ったので貧乏もしないようにしようと思った。

親父も母ちゃんも仲の悪い二人では無かったけど、借金で家が苦しくなった時に、お互いの不安や精神的疲労がそうさせてしまったのだと思ってる。そして親父が作ったその借金も、家族が幸せになる事を願って作ってしまった借金だったろうから、誰を責めるモノでもなかったと思ってる。

去年親父に再会して、少しずつ連絡を取り合う様になり、京都大作戦を「お互いの過去を忘れるぐらい凄い楽しいから!」とか「二人の共作である息子を見て二人で感動出来ると思うし!」なんて言ってきっかけにして親父と母ちゃんを一緒に来させたり、僕の今の音楽生活の話を昔の家族で集まって、食事をしたりで、時々会って話す機会が出来始めた。10-FEETや京都大作戦ありがとうだ。

僕も姉ちゃんも当時は不安が故に、親父を恨んだりした事もあった。
それを反骨精神にして頑張った場面だって何度もあった。でも長年の時を経て親父と母ちゃんが並んで笑っているのを見た時、俺と姉ちゃんはなんとも言えない嬉しい気持ちになった。ささやかで幸せな気持ちがずっと身体の中をコロコロ転がってた。



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(幼稚園の時の姉ちゃんと母ちゃん)



親父はド硬派で学生時代は札付きのワルで、周りの親父の友人から話を聞くと、複数で誰かを殴るヤツや、いじめするヤツや、古い不良漫画みたいに、チェーンや鉄板入りの靴や木刀、鉄パイプを使うワルを毎日空手でボッコボコにしてしてたと言う。そしてギター弾いて唄って、仲間は一杯居てギャグ担当で、モテモテだったと言うが、母ちゃん曰くスーパー奥手で、デートしてもカチコチで何にも話せず、どうしようも無く、番長はラブソングを作って贈ったとか。しかもド•ラブソング。

禁じ手です。一つ間違えればドン引きです。

良くやった親父、もしドン引きやったら僕の旅は1974年のアンタのキ○タ○の中だけで終わっていた。

なかなかの勇気か、なかなかの天然か、という所だが、母ちゃん曰く、それが父ちゃんなりの、一番想いが伝わる精一杯の告白だったらしく、またその唄がなかなか良い曲だったといつも言う。良くやった親父。

そして実は息子もその曲を家で一人でギター弾いて唄う親父を何度か見て聴いた事があったが、これが本当になかなか良かった。なんせとにかく唄もギターもめっちゃくちゃ上手かった。あれなら納得だ。その表現力たるや、息子のテンフィのアイツとは雲泥の差があからさまにあった。


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(若き日の母ちゃん、後ろのチビは俺、爺ちゃんも居ます)


母ちゃんが言うには、プロポーズの時も喫茶店に二人で親父は何も言えず、えらい時間経って、結局アイスコーヒーのストローの紙に「結婚して下さい」と汚いヘタクソな字で書いてモジモジ渡したらしい。どうしようも無くカッコ悪かったらしいが、プロポーズのその日、カッコ悪くとも懸命に思いを伝えようとする親父のその姿が信用出来て良かったと、母ちゃんはそれを喜んで受け取って承諾し、結婚してもずっとずっとそのストローの紙を残していた。この話は母ちゃんから推定100回は聞いている。

母ちゃんとの出会いは、親父が高島屋の音楽部で一番人気のグループサウンズバンドのギターボーカルで花形で、母ちゃんがコーラス部に入ってて、コーラス部ではヒロイン的な存在だったとか(多少は盛られているに違い無いですが)何回か親父のライヴを見に行った時に親父が一目惚れして声をかけたと言う。でも親父は好きな人には割とからっきしで、コーラス部との飲み会があって記念撮影とかをしても、親父はシレっとした顔で照れてないよ感を出しながらも近くに行けず、いつも母ちゃんから離れた所で写っていたとか。笑


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(一番右が親父で一番左が母ちゃん。)


親父は職場でもバンドでもモテモテだったらしい、母ちゃんもこれまた職場でもコーラス部でもモテモテで、商社マンや一流大学を出たイケメン達何人にもプロポーズを受けていたらしいが、からっきしで全然ダメな親父が一番信用出来て、その愚直さが好きだったと言う。しかしながらイケメン何人にもプロポーズされてというのもやはり多少は盛られているだろう。




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親父は今肝臓の病気で入院していて、一昨日面会に行ったのだけれど、東京から帰って面会時間に間に合わなかった。面会時間中はずっと母ちゃんと姉ちゃんが看ていてくれて、ここ数日のいろいろを話してくれた、そして昨日やっと親父に会いに行けた。僕が東京に数日間居るウチに、母ちゃんや姉ちゃんと連絡を取り合っていたのだけど、親父は入院して一週間が過ぎ、最初の二日間はかろうじて会話出来ていたが、それから容態が変わって、未だに意識が朦朧としていて、何度話しかけても、たまに「はい。」と返事するぐらいしか出来なくなったという事だった。入院初日と三日目には会いに行けたのだけど、三日目にはもうほとんど会話が出来なかった。主治医さんは肝臓のアンモニアの数値が下がらないから、酸素や血液が正常に流れなくなって脳に障害が出るのだと言われました。健常者が大体30ぐらいだと聞いたアンモニア数値、入院した当初親父は75にまでなっていた。そこから三日間でさらに137まで上がり、点滴の濃度を上げて一時は117に下がったけど、昨日主治医さんに聞いた所、また数値が128と上がってたそうだ。数日間変動しながらも下がって行く事を見込んでいるが、もし上がり続けたらそのまま昏睡状態に入る可能性もあるとも言われ、いろいろと処置の他に取れる選択肢や、過去の回復例なんかを質問してみたが、今の所は何とも言えないという感じだった。




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僕は主治医さんとの面談室から出て、容態が悪化した親父に会うのは少し怖かったけどナイススマイルで病室に入った。父ちゃんに話しかけると、親父は目を閉じたまま「卓真か。。?」と話した。

驚いた。

親父から言葉を聞けると思ってなかった。ひょっとしたらもう聞けないかもしれない親父の言葉を聞いて嬉しくて言葉が出なくなってしまった。泣くと変に勘ぐられて不安にもさせてしまうかもしれないので結構大変だった。

いろいろをなんとか飲み込んでから「卓真やぁ。来たでぇ。」と言うと目を閉じたまま。

「お前一人で来たんか。。」

『おーん。一人やぁ。』

「そうかぁ………」

「はっは。。お前………なかなか粋なマネするやないか…東京やなんやで忙しいクセに…」

と、目をうっすらなんとか開けてなんとか笑顔っぽい顔を作って言った。

看護婦さんが驚いてた。「あらぁ。三田村さん話さはったねぇ!」


『親父ぃ。早よさっさと治してまた唄とギター教えてくれや。京都大作戦では教えて貰った通り歌ったつもりやったけどあんまり上手にでけへんかったわぁ。情けないなぁ。』

「……アホぉ…ちゃんと出来とったわい…大したもんやんけお前…あんな大勢の前で堂々としてぇ……とっくに親父越えやぁ…」

『来年の春ぐらいにセッションのイベントするさかいピシャッと治して一緒にやろうや。俺今日からしばらく京都やさかい明日も来るさかいなぁ。』

「明日も?……来てくれんのか?………嬉しいなぁ……お前ほとんど東京ちゃうんかい?……」

『おお。そやけどほんまはライブ以外は大概選べんねん。また数日後に東京ちょこっと行ったりもするけどそれ以外は今回は親父の看病を選ぶラブリーな息子やぁ。おーい。親父~。』

話しているウチに親父はまたしんどそうになって寝てしもた。ほんまはもっと話したいけどこれ以上疲れさしてもアカンさかい。

看護婦さんは「お父さん息子さんの事好きなんやねぇ♪私らの時と全然違いましたよ~♪」と、言葉の一つ一つにリズム感のある優しい感じの看護婦さんだった。

そこからは親父の手を握ってしばらく横に居た。

親父と手なんか繋いだ事は幼稚園以来とかなのでめっちゃ恥ずかしいけどそぉ~っと握った。

「15年間淋しい思いしてきよったし、今病気で気持ちも弱っとるし。これは。。こうやなぁ。」と胸中で独り言をしながら。

ちょいと恥ずかしいけど、寝てて気づかんくても、実は気づいてたとしても嬉しい筈やと思って少し勇気を出した。

親父は元気なら「なんや?お前気持ち悪いなぁ。」と言って100%放すので、そぉ~っと。そしてちょびっとギュ~っと。



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「ほな帰るで~。また明日な~。」と言うと、親父はどんなに眠っていても「おし!よっしゃ!」と目を閉じたまま言って起き上がる時の動作の振りを少しだけする。意識も無い様な状態で無意識でいつも毎回それをやる。勿論身体はビクとも起き上がらないのだがなんとか送ろうとする。

あとは俺ら家族に気づいた最初の第一声がいつも「はっは。。」と笑ってから話だす。出会ったら笑顔で楽しい気持ちに、帰り際は淋しくない様に元気よく。どんなに眠り込んでても毎回。

親父は三田村家パワーで絶対治す。

見とけ!

オカンは今は岡田んなっとるけどな。

まったくこのダメ親父め。

しばらく横に居て、家族がバラバラになるずっと昔、怒る時はいつも恐ろしい父親で(空手有段者、後に俺も無理矢理有段者になるまで空手をやらされる。道場が無い日は親父の稽古付き。)震え上がって恐れてたけど、普段は優しくて、ギャグも最高におもろかった親父だった。そんな昔を思い出しながら、寝てる親父をずっと眺めてた。

親父も68歳やが、もういい歳やけどまだ早い。治す!

治して俺とセッションする。唄もギターも教えて貰う。

昨日のあの調子なら復活する兆しバリバリや!

ほんでさっさと復活してオカンともう一回メシ行って来い。

俺や姉ちゃんらとも旅行とか行くぞ。

人が生きる時間なんてのは、70年やそこそこで、長生きして80、90歳。若くして逝ってしまう人だって居る、僕の周りにも若くして逝ってしまった人も何人か居る。

人間にはそんなに沢山時間が無いんやから、無限に日常があるなんて思ってそんな事してたら勿体無い。そんな短い旅の中で、自分の愛する人が本当に傷つく様な事は絶対言わない生き方をしたい。

親父と久しぶりに会って、親父もさらに優しくなってて。そう思った。

人はいつも優しく、面白く、熱くや。

どんなに怒っても、どんなに悔しくても、大切な人とは分かり合えるまで思いやりと愛でもって話したいと思う。笑いも織り混ぜて。

誰もが心の奥底に形の違う孤独を抱えて閉ざされた部分がある。

誰しもそんな部分を心のどこかに持ってる。

人間の一生という短い旅の中で、唯一そんな心の奥底をこじ開けれる家族や本当に大好きな人に、熱さと笑いと愛で尽くせたらなと思う。

ケンカしたり、笑い合ったり、どちらにでも使える時間なら、笑わし合いたいよね。

熱く、優しく、とぼけて、幸せになろうや。





今日は親父に「お前アルペジオ練習せぇ」と言われた。

宿題や。





みんな明日も優しくな!




とにかく親父は必ず治す。






ほなまた。





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