前提として、学問的な暴力とは、通俗的な叩く叩かない等の観念的なものではありません。目の前の人の顔を殴る、殴らないというのも、科学に従えば、個人が独立して存在していない世の構造上、分かりづらい何らかの作用の連環の上で成り立っているものです。

私達はその連環全体の働きの中で、人と叩き合った、モノが古くなり汚くなった、肉体が疲労した、を認識、体感している一方で、叩き合った人と友人になったり、モノが新しく綺麗になったり、肉体が回復している事を認識体感しています。

このように、この世の一切は停滞せず、生産(回復)されたり、消費(朽ちたり)されたりする無常(暴力的な働き)であるが、何がその働きの規則であるのか。

以下は、自然界の構造全般の暴力について、記号集合体(個々人の認識、体感における空間)の生産から形態化に至る迄の説明である。


言葉の定義について、まず構造全般の暴力とは自然総体そのもの(五感の上で分かり易い事や、分かりづらい事全て、全体性)を指し、記号集合体とは自然総体そのもの(全体)の中で、我々が最もリアリティを体感し認識する大枠、小枠の仮の空間(全体性の範囲)を指す。

そして生産とは、その記号集合体の生産を指し、形態化(無秩序化)とは記号集合体が生産されてから消費される迄の流れを指す。

人間の基本的な生産性能とは、労働から始まり、食物、風、地面等がベーシックな固定化された記号集合体となり、生産性能がより具体化、分散化、固定化されれば、その地点からの生産に基づく記号集合体に移り変わり、ベーシックな記号集合体(労働から、食物、風、地面等)は形成をそのまままにして置き去りにされ、具体化されたその生産性能の位置に基づいて、鞄や、家電、建物等の記号集合体が認識の中でリアリティを持って形成される。
より固定化されれば、その鞄の所有、家電の所有、建物の所有になるのであるが、このあらゆる記号集合体とは、生産の地点(抽象度)の産物である為、それぞれの人間の生産性能に起因しており、記号集合体は繰り返し生産しなければ、必ず消費され形態化される運命である。
また人間の基本的な生産性能である労働も同様に、より高い抽象度の生産に起因している。

(労働生産の一例。スポーツ(労働)で生産を生成し、記号集合体が消費される間は閑暇であるが、スポーツで生産を繰り返し無制限に生成し続ける事は出来ない。それはスポーツに必要な人体自体が形態で消費される(疲労を伴う)からであり、その場面では肉体の休息が生産にあたり、休息が形態化するタイミングは、次の労働で生産を生成する必要がある。
しかしそこにより高い抽象度が設置される場合、例えば、スポーツが家族や友人の人間関係をも抱合している場合、スポーツの労働はより高い抽象性を帯びて空間(記号集合体)が生成される。スポーツの抽象度が高くなって、その中に日常生活やスポーツの練習があるような体感であり、スポーツを通して成長するというような感覚になる。このようにスポーツ、経営、音楽等の各部的な活動を通して人は全体性を回復(成長)してゆき、各部は抱合され、伝統文化を実感し、その延長線上に生産主体が垣間見えて来る。)

記号集合体の消費の過程で、記号集合体の新たな生産に向かう働きとは、例えば起きてから消費された口内を生産に導く非行為(生産)、週いくらで生活する(支払い対象の記号集合体)に対して財布の中身を確認する非行為(生産)や、消費で周囲の記号に形態化が生じている馴れ合った友人や、仕事場の人間関係に生産を持たらす節度的関心や、男性が個性的にではなく、男性的に振る舞う非行為(生産)。女性が個性的にではなく、女性的に振る舞う非行為(生産)にあり、文化的生活態度全般(生産行為全般)である。(文化的生活態度の最小限を簡単に言えば、歯を磨き、着替え、移動し、懸命に働き、友人を大切にし、風呂に入り、寝入る時間を決める。)


諸々の生産行為は諸々の記号集合体を算出し、算出はそのまま現象として現出され、現出した記号集合体は必ず消費される。生産に基づいて現出した記号集合体(空間)は、次の生産の前では必ず消費される運命である。

現出する記号集合体の算出元の抽象度を引き上げ続ける事で、個人的な体感においては、快楽が放射される快楽の生産時点の状態が分散落下せずに成就して来るのだが、これに反して消費の過程で分散化されている快楽を定量化して認識する働き(更に消費する)によって、記号集合体の形態化は加速する。その形態化された位置からさほど離れていない地点にしか、私達は生産の抽象度を設置する事が出来ないので、結果的に生産の総量と抽象度は芋づる式に下がり、全体性は小枠へ絞られて併存的空間が生起する。

生産によって形成された記号集合体が消費される働きである、快楽を定量化して認識する働きとは、面白いと思った事を繰り返し(あるいは時間差で)言う快楽、壊れゆく節度を見る快楽、頑張る人(生産位置を引き上げる人)に頑張らないのを見せる(生産位置の抽象度を下げる)快楽などの個人主義的な要素(経験したい事に意識を向ける要素)全般であり、これは快楽の集約が落下し、分散化して具体化した快楽等を固定的に定量化して見る行為であるが、あくまでもそれは快楽が生産によって生起した流れの消費される過程に存在している分散化された快楽である。
経験したい事に意識を向けるというのは、生産を行わず、既に生成され消費に向かう記号集合体の流れに対して、期待通りの快楽を要求している。快楽の生産なしに快楽を求めるのは自滅。この願望と現実の生産関係(生産によって快楽が生起し、消費され形態化する(快楽が分散化)する事実)のギャップに苦しみが存在する。

最も生産性の高い行動が労働であるか、より抽象性の高い行動(労働に抽象性を帯同させた供物)があるかの議論が1800年代以降物議を醸しているのは、マルクス共産主義の台頭による影響であるが、この件に関する正解とは「労働は善行で供物であるが、労働を通してより高い抽象的な供物は有る」が正確であり、そもそも共産主義の意見とは、産業革命以降に流行した分業を職業と実態定義した事で、資本家と職業者の対立構造が生起した後に生起した中間の意見である。
実際は、労働の延長線上に善と定義出来る行いは時折分かり易いシチュエーションとして見る事が出来、それは労働の供物に支えられている。我々は一般に定義される労働の中で、先人を尊重したり、新人を道徳教育したりと、労働の定義の範疇を超えて、文化の中で度々より高い抽象性を労働の抽象度の上に帯同させている。

この事からも察する事が出来るように、労働神事説と労働懲罰説は同一である。(例えば神道では抽象性の高い供物らは当然善行なので労働は善行。(労働は神からの委託。)キリスト教では、最も高い抽象世界から落下した事によって、労働しなければならなくなったという表現(労働は落下に対する懲罰)これは意味を同一にしている。どちらも生産主体からの記号集合体の連環を説明している。連環下部の言語形式が異なっているだけである。

我々の団体において、週に一度の教学が、週に一度である理由は、参加者全体の日常における生産の抽象度の低さから、教学という生産行為自体が、それらの人達の形態化の暴力にさらされ、消費される事を恐れているからであるが、その生産行為(教学、抽象度の引き上げ)に、いわゆる売上その他コミュニケーション等、通俗的な生産性のあらゆる分野が抱合されていると知っている者が、日常の生活態度を生産寄りに改め、労働とそれに帯同する抽象性の高いパフォーマンス(生産抽象度の常時的な引き上げ)を発揮する。

具体的には、会社経営のアポイントの場面、つまり従業員との2日目、3日目、4日目に対して、引率者が抽象度の高い生産の場を作らなければ、従業員や顧客と対立の構造になり、必ず形態化によって両者の関係は消費される。生産せず、記号集合体(空間)の消費を続けていれば、どれだけ新しい従業員が供給され続けようとも消費される。生産抽象度を繰り返し設置しなければ、初めましてのモノとの繋がりという生産の地点から、常に減点式に消費を繰り返す。生産を高い位置に置いて、その生産位置と、形態化の暴力との間のバイブレーション(生産と形態化地点の間の諸関係)を連環させる事が出来る引率者にならなければ、常に消費される運命である。

恋人との関係において、会うのを繰り返す内に、記号集合体が消費され形態化されるのも、上記の従業員の例と同様に要所要所で生産に根付いていない場合は必ず消費される。

これら生産の発揮は、その場での本気(がむしゃらにカツンと生産を引き上げる非行為の雰囲気)と、過去の総合的な生産の抽象度の総量(常時的な生産性能)に起因している。

消費され易い人間は生産が足りない。これに不確定要素はない。(その場の本気と、過去の総合的な生産の抽象度の総量が足りない。)

生産は反個人主義的な空間(個人的な羞恥心等の無視)でのみ性能を引き上げ、生産活動の本質と対にあたる「放逸」が記号集合体の抽象度を引き下げる。真理の探究(全体性の回復)において、対の作用である記号集合体の消費を促す行為全般に抵抗しなければ、隣の関係から順に必ず消費される。

記号集合体(空間)の算出元である生産を高める人(戻る暴力)に対して、形態化の暴力を振るう人達は、生産性能の低さ(過去の生産抽象度の総量の低さとその瞬間の本気の低さ)に起因して、それらの個人意思に関わらず、人生の全てを掛けて形態の暴力として襲い掛かって来るが、自らとその人間達の上に旗(抽象度の高い記号集合体の算出元である生産を引き上げる絶対化内の偶像化)が存在し、自らと人達がその旗の生産を認める場合、生産はその位置からいつも記号集合体を形成する。これが信仰の正体である。

自然総体の暴力性とは、生産の抽象度を高い位置に引き上げる暴力と、その生産の記号集合体を形態化させる働きの暴力に方向性が分かれ、人間社会は長年、反個人主義的な祝祭によって生産の抽象度を定期的に引き上げ、生産を形態化させる個人主義的な振る舞い(形態化の暴力)に対して、体罰(戻る暴力の観念的可視化)を認めていた。道徳というのはこの戻る暴力の生産関係への道程全般を指す。

自然総体を五感の上にのみ限定した事で、暴力や自然を観念的に定義付け、背景(生産深部)から自己への時間(記号集合体の持続性)は体感として分からなくなり、自己と現象的対象事物という併存的空間の中を彷徨っているのが、生産関係から切り離された自己の特徴である。

特別優れている学問に驚愕させられる点は、自然総体の枠組みにおいて、生産の抽象度の総量とバランスをとって、自己に訪れる形態化の暴力が発現されている事を指摘している点である。
つまり生産とは、事物として発揮される効用はプロセス(形態部分)でのみ目視が可能であるが、厳密には生産主体に対するアプローチの返報性として、眼前に事物として発揮される事を指摘している点である。(自然総体において、生産位置の高さ、低さによる記号集合体の生成の中で自己(形態部分のライン)の眼前の事物が現象として対応している。)

例えば、掻ゆい部位を掻いたら、すぐにその皮膚は消費(無秩序化)形態化(傷痕化)される。そして痛みや更なる痒みという形態化に見舞われる。また、イライラして街中の他人を殴ったら(目先の具体化された快楽を取ったら)殴り返される(形態化する)かもしれない。

これは記号集合体の消費を、生産で補おうとせずに、消費を促した事で形態化の暴力が即座に反映する非常に分かり易い例である。

分かりづらいのは、例えば目の前の苦しみの原因だと感じている形態化の暴力を発揮する人間が、自己の生産の至らなさの返報性に起因しているという点等、五感の背景を経由してくる際である。

過去の総合的な生産の抽象度の総量が高ければ、形態化の暴力は明らかに現出しづらくなる。
ここに障害者が平等の中で病気であるか、病気という個人が平等であるかの認識の差が生まれ政治問題に発展するのだが、もし仮に自らの経験したい感情に意識を向けて、形態の暴力を振るう対象者を自己の眼前から排除したとしても、その行為自体の低い生産位置の記号集合体に起因して、何らかの異なる形態化の暴力が眼前に現象化されるのである。

これは私自身の瞑想経験からも明らかであり、ここに俗世間の理解と一線を画す、理知的な全体の構造理解がある。


労働の延長線の供物のような生活とは、自分の例で粗末に言えば、生産の主体そのものを感じて、1日の始まりに感謝して、旗に全体性(生産の深部)を体感して生産し、その生産位置の中で労働(生産)に励んだ後、同志との飲み会で抽象度を引き上げる(生産)、あるいは形態化の暴力との会話や取り組み内容に生産を発揮する。その後、帰り道節約(生産)に励もうと電車で帰ったり、従業員の質問が一生懸命なものであったら終電を逃したり(生産)、肉体疲労によってタクシーで帰ったり(生産)、飲み会で同志が労働において懸念していた問題を解決しようと家で労働(生産)に少しワクワクしていた横で、妻が発熱(人体という枠組みの記号集合体の消費、形態化)をし始めたのならば、妻の看病(生産)をする。妻の幸せを願って優しく(生産)して、翌日の準備(生産)をして眠る(生産)この日常の合間、ボクシングで自分が主人公で生きて来たような到底認める事が出来ない人がヘラヘラ殴って来たり(形態化の暴力)陰口を言ったり(形態化の暴力)するのに対して、形態を強くするトレーニング(生産)や、戻る暴力のコミュニケーション(生産)をする。あらゆる日常の生産の合間合間(生産を発揮した後、形態化迄の消費の流れ、閑暇)には、節度を置いて、愉しみ、次の生産に備える。少し感謝する。

このようなものである。繰り返しの生産(供物)の中で、我々は形態化の暴力から本格的に脱却を図る事が出来るのだ。人体はモノとしてその中間に位置する。

生産はいつも、個人の思考を発足地点にした、したい事、したくない事の逆にある。自己成長とはこの生産量を増やし、生産主体に近づく道程である。

結局、旗(生産)の抽象度(信仰)の高さの中で、家族、友人(忠義、忠誠、義理)の生産諸関係前半部の存在が表れ、その抽象空間と物理的人体との間に隙間なく絶妙に、ほぼ必然的に合わさって家族、友人が現れ、知人と他人が現れる。抽象度が低いと、知人を友人と呼び、他人が新しい知人になる事を期待する。

時に厳しく、時に優しくというのは、自分で決めれる事ではなく、自身が生産に基づいて、他者が生産に基づいているか否かに対する非行為的な振る舞いの中にあり、私達は自身がモノと導通し認識している空間(記号集合体)が生産の産物という事を察知する為に、自己が優れていようといなかろうと、忠誠か、学問か、労働(いずれも生産)に、本格的にはその全般に、懸命に努め励む他なく、自然総体のいかなる消費、形態化の暴力に対しても、生産によって打ち勝たなくてはならない。絶対に気をつけなくてはならない事は、形態化に、形態化を重ねてはならない。形態化の暴力を振るう猥褻者や、世の中の広告のでっちあげに、おいそれと流されてはならない。それが記号集合体内の相対的な善悪からの脱却であり、全体性内の人間の発足地点である死に根ざす道程、善い事(徳の道)なのである。

労働懲罰にせよ、労働神事にせよ、生産主体は人間に労働を与えた。(モノとの同通でしか、自己(人体、我の現象形態化を表現出来ない。)

故に、私達は常に生産抽象度を引き上げる必要に駆られている。空間の抽象度を引き上げるバイブレーションを蒔いて、あるいは与えられるバイブレーションから生産位置を高め、形態化の雰囲気を常に撃滅する必要に駆られているのが人間の現状である。全ての局面で、生産は記号集合体の消費、形態化を抱合している。

個人主義的な低俗な羞恥心や、猥褻な見せ方の全てが形態化の暴力であり、そのような経験の構成の人体は形態化の暴力装置(アルゴリズム)である。生産主体を共有し、生産の抽象度を引き上げようとする者は、これを排除せずに純粋に引き上げるように、闘わなければならない。1人で闘っているように感じる時も生産に起因していれば、それは必ず生産主体と共にあるのである。