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11月も中旬になり、そろそろ本気で卒計を考えなくてはならない。


それに際して、このブログを活用していくことに決めた。


自分のためにだけどね。笑


これから、どんどん卒計を考えていくにつれて自分の思考はどう変化していくのか。


ってのが、このブログを読んだら分かるようにしたいと思う。


自分が何をどのように考えてきたのかってことがカタチとして残っているとは、


自分を見つめなおせるものがあるってこと。


だから、行き詰ったときに振り返ったり、どうしてこうなったのか、ってことができるようにしていこう。


かなり自己満ブログ。笑


ってことで、早速書いていくことにしよう。



「名前のない建築」


建築に限らず、人間の周りには名前のついたモノや空間というものがある。


名前ってすごい力があると思う。


そこにまるで壁が立ちはだかっているような、そんな強い力がある。


例えば、「道」という名前。


皆さん、「道」をイメージしてみてください。


車が走っていたり、人が行きかっていたり・・・


みんな同じようなイメージを思い浮かべたはず。


決して、人が眠っていたり、ゴロリと転がってテレビを見ているなんてイメージしないはず。


そう、名前は人々に共通のイメージを与える。


当たり前だけど、考えてみるとすごいことだと思う。


でも、それは、逆に言うとそのモノや空間の可能性を狭めているとも言えるんじゃないだろうか。


違う使われ方をしていたかもしれないモノや空間が数え切れないくらいあるかもしれない。


お風呂は、体を洗い、湯につかるところだけど、


もしかしたら、鼻歌を歌うための空間かもしれないし、本を読むのにぴったりに空間かもしれない。


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これが、「名前がない建築」って言うものに興味を持った原点。


でも、ここで問題にぶち当たった。


建築が人間と関わったとき、必ずといっていいほど、そこには、用途がうまれ、名前がうまれる。


人間ってすごいね。笑


人間はどSか!どんだけ拘束するんだ!


では、建築が人間と関わったときに、用途や名前をうまないということは、どういうことなのだろうか。


って考えたら、建築がアートに近づいたときに、名前がなくなるんじゃないかと。


アートの場合、つくった人にしか名前はつけられないし、そもそも、用途が発生しない。


つまり、人間の意識に働きかけるような建築であれば良いのではないか。


人間の身体や行為に働きかける建築には、用途がうまれ、名前がつく。


だけど、意識に働きかける建築っていうのは名前を有しないみたいだ。


最初に考えていた、「名前のない建築」とは考え方がかなり違うけど、


面白くなるような気がしてきた。


てか、面白くなってください。


来週は、中間発表。


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てことで、これからどんどん書いてこうと思う。


では。