トラベラー まだ見ぬ地を踏むために | れぽれろのブログ

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2月17日の土曜日、国立国際美術館に行ってきました。
現在開催されているのは、「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」と題された展覧会で、国立国際美術館開館40周年記念の展示とのことです。


国立国際美術館は1977年の開館なので、ちょうど40周年を迎えたところ。
今から10年前、2008年にも30周年記念の展覧会が開催されましたが、このときは多くの所蔵作品を紹介するという形式で、展示は絵画が中心、そこに写真とインスタレーションが加わるという展示であったように記憶しています。
今回は10年前とはがらりと変わった展示で、所蔵作品の展示もありますがそうではない作品もあり、新作の展示もあり、絵画はほぼ展示なし、写真とインスタレーションと映像作品が中心、そしてパフォーマンスの展示を含むという内容になっています。
非常にチャレンジングな展示であると同時に、この10年間の時代差を感じるような、今後の美術館の在り様を考える上でも非常に重要な展示になっていたように思います。

本展は地下3F・2Fをまるまる使った大規模なもの。
展示は大きく2部に分かれ、第1部は「多層の海」、第2部は「時をとらえる」と題されています。
以下それぞれの覚書・感想など。


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第1部は主として地下3Fでの展示、タイトルは「多層の海」です。
美術作品や歴史の多層性がテーマになっており、作品に言及する作品という入れ子構造的な作品が多く、複数の作家によるコラボレーション的な作品や、2人組のアーティストの作品も目立ちます。

美術館に入ってすぐ、地下1Fのミュージアムショップ横では、恒久展示作品である高松次郎の「影」の壁面に対し、ピピロッティ・リストの「やわらかな受け入れへの地下」という映像作品が映しだされています。
スペクタクル性が高く心地よく鑑賞できるリストの作品と、抑制的かつ難解な高松次郎作品とのまさかのコラボレーション。
リストは高松に影響を受けたとのことですが、作品の方向性は全く異なります。
心地よい大自然の映像をぼんやりと鑑賞。

第1部のメインは地下3Fです。
やはり多重構造を持つ作品が多いです。
藤井光の「南蛮屏風」は、16世紀に制作された南蛮屏風絵…を撮影した奈良原一行の写真作品…を展示する様子を撮影した映像、という多層性を持つ映像作品。
テリーサ・ハバード&アレクサンダー・ビルヒラーの「フローラ」は、有名彫刻家ジャコメッティとそのかつての恋人フローラとその息子との関わりを描いた映像作品で、フローラの息子のインタビュー映像と、ジャコメッティとフローラの様子の再現映像が、表裏2面のスクリーンに映し出される二層構造の作品。
さらに会場ではジャコメッティ本人の作品と、消失した彫刻作品が映っている写真と、ハバード&ビルヒラーによって復元された彫刻作品が並べて展示されており、これも多層性を感じさせるものになっています。

歴史への言及。
台湾の作家、許家維の「ドローン、ヒナコウモリ、亡き者の証言」は、台湾国内にある旧日本軍占領時代の軍事工場の遺跡にドローンを飛ばして撮影した映像と、そのドローンそのものの映像と、コウモリの様子が撮影された映像が4面スクリーンに映し出される中、旧日本軍と関わりがあると思われる文書が朗読される音声が重ねられる作品で、作品の構造自体の多層性に加え、台湾の中の占領時代の日本という構造と、コウモリの映像が加わることによるイメージの連鎖が、多層的な面白さを齎す作品。
小泉明郎の「忘却の地にて」は、旧日本軍による大陸での暴行描写を、記憶障害を持つ人に暗唱させるという試みを撮影した映像作品で、静かな海の映像とイラつきながら暗唱する様子の映像が裏表二層スクリーンに表示され、忘却されがちな歴史、歴史的証言(とりわけ加害の事実)に対する記憶化の困難性が印象付けられる作品です。

人種への言及。
先の「南蛮屏風」では、元になった屏風絵には白人だけでなく黒人も描かれており、黄色人によって描かれた白人と黒人…を黄色人が展示するという多層性も含んでいました。
シアスター・ゲイツの「ブラック・テンプル」は、30年代アメリカ戦前の有名子役シャーリー・テンプルの映画作品に登場する黒人の様子を抜粋した映像作品で、白人少女に仕える黒人召使いが踊る様子に、シャーリー・テンプルの黒人を模した黒塗りの様子の映像が重ねられ、昨今話題のブラックフェイス問題に通じる構造を持った作品になっています。

本展で個人的に一番面白かったのが、カリン・ザンダーの「見せる:国立国際美術館のコレクションを巡るオーディオツアー」です。
これまた作品についての作品という多重性を持った作品。
国際美術館ファンならお馴染みの作品の作家たちに対し、ザンダーが作品に関わる音声の録音を依頼。
会場の壁には作家名のみが記述されており、作品自体の展示はなく、鑑賞者は携帯型オーディオを手渡され、作家名を見ながら作家が録音した音声に耳を傾け、作品を想像するという趣旨のインスタレーションです。
有名作家たちがどんな音声を録音するのか興味津々。
しかし、自己の作品に言及している作家は少なく、多くの作家は作品とは全然関係ない話を録音したり、音楽や歌や身の回りの音を録音したりしている作家もいます。
全部聞くと大変なので、好きな作家30人ほどをチョイスして聴きましたが、まともに作品について解説しているのは宮本隆司くらい(九龍城砦について解説されていました)でしょうか。
印象に残ったのは森村泰昌と小林孝亘です。
森村泰昌さんは「芸術家の自己作品への言及は誤りを含む」というテーゼから「芸術家は皆嘘つきだ」と断定、しかしかく言う森村泰昌自身が芸術家であるという事実がクレタ人のパラドックスと同じ論理矛盾を齎し、この論理に対する入れ子構造的言及が延々続く、論理構造が暴走する長台詞が心地よく耳を支配する、面白い音声になっていました。
小林孝亘さんは、その日の食事のメニューを日記風に朗読する音声を録音されていますが、その多くの日付は災害や戦争によるカタストロフとして記憶される日で、日付と朗読内容のギャップ、さらには小林さんの絵画作品とのギャップが印象付けられます。
その他、ソフィ・カルやサイモン・パターソンらのコメントもありましたが、外国語が分からず、このあたりは邦訳も欲しかったなと思うところ。

ジェイ・チェン&キュウ・タケキ・マエダの作品群は、日本の一美術ファンが個人的に撮影した60年代の現代美術に関する写真と、そのスクラップブックにより再構成された展示で、現在の美術ファンによるブログに近い印象で面白かったです。
これも作品に言及する作品という多層性を持ちながら、第2部のパフォーマンスを記録するというテーマにもつながっていく作品で、興味深いです。


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第2部は地下2F、テーマは「時をとらえる」。
パフォーマンスアートについての展示となっていました。
近年、国際美術館では塩見允枝子やザ・プレイなど、パフォーマンス作家の展示を積極的に行ってきており、本展はその延長上にある試みであると思われます。
美術館は作品を保存し展示するという機能を持ちますが、パフォーマンスという一過性の物をどう保存しどう展示するのかは難しい問題。
記録写真や手記やチラシなどの資料を保存する、パフォーマンスの様子を映像として保存する(これは映像作品として保存するのか単に記録映像として保存するのかも難しい問題)、作家による指示書を保存し展示の際に指示書に基づき再現する、などのパターンが考えられます。
本展はこのようなパターンをどう考えるかについての、興味深い展示になっていたように思います。

塩見允枝子や村上三郎の展示は、関連資料を保存し展示するというパターン。
村上三郎の「箱」の個展の資料は、47年前の大阪の地図と記録写真と手記からなる資料の展示で、大阪という街の変遷の様子も含めて楽しめる展示。
ロバート・スミッソンや塩田千春は記録写真による展示、とくに塩田千春の場合は、写真それ自体が美術作品としての面白さを持っています。
工藤哲巳や篠原有司男はパフォーマンスの痕跡である物が展示されており、篠原有司男はボクシングによるパフォーマンスの痕跡そのものが絵画作品になっています。
榎忠や関川航平は映像による記録。
一方で楊嘉輝の場合は映像作品そのものとも言えます。
楊嘉輝の「無音の弦楽四重奏」は、音を出さない音楽のパフォーマンスということで、ジョン・ケージの「4分33秒」を思い出させますが、奏者が弾き真似をする点でケージとは異なります。
「無音の獅子舞」はその名の通り音楽なしで獅子舞を演じるパフォーマンスの記録映像、楊嘉輝のこれらの作品は初めから映像作品化が目的で撮影されたように思われます。

アローラ&カルサディーラの「Lifespan」は、指示書と楽譜にに基づくパフォーマンスアートで、会期中毎日定刻に開催されています。
天井から小さな石を吊るし、3人のパフォーマーが呼気で石を動かそうとする、呼気はやがて口笛となり、スコアによる口笛音楽が再現されます。
パフォーマンスアートの保存と再現についての一例で、興味深く鑑賞しました。
ティノ・セーガルの「これはプロパガンダ」もおそらくはスコアに基づく再現型パフォーマンスで、監視員の方(たぶん)が、延々と「This is propaganda~♪ You know~ You know~♪」と歌い続ける作品です。
自分は会場に4時間ほどいましたが、ずっと歌われています、これは大変。
割り増し手当を貰わないとやってられへんな、などと余計なことを考えてしまいます(笑)。

第2部を通して、パフォーマンスアートと既存の絵画・映像・インスタレーションとの差異は意外とグラデーション的であるということに気づかされます。
本展で展示される白髪一雄の「天雄星 豹子頭」は足で描かれた絵画作品ですが、この展示の並びで見ると、足で描くというパフォーマンスの痕跡という側面が強調されます。
こう考えると制作過程が重要なジャクソン・ポロックのポーリング作品もパフォーマンスアート的ですし、曾我蕭白が酒席にて短時間で即興で描き上げた襖絵などもある種パフォーマンスの痕跡と言えなくもないです。
国際美術館の所蔵作品では、細江英公の写真作品なども舞踏家土方巽のパフォーマンスの記録ともいえ、ヨーゼフ・ボイスの「カプリ・バッテリー」も、指示通りに展示のたびにレモンを調達するもので、指示に基づくパフォーマンスアートとの境界はグラデーション的な作品であるともいえる、などなど、美術ジャンルの境界設定の問題についていろいろと考えてしまいます。

さらに、本展は美術館の役割の変化について、あれこれと考えさせられます。
西欧植民地主義時代の美術館・博物館(ミュージアム)の目的は、主として植民地を含めたを国内外からの物の収集と羅列でした。
近代が成熟してくると、美術館は作品を保存・展示・研究する場所となり、美術を通して歴史を確認し、市民の啓蒙、そして国家的アイデインティティを確認する場所としての機能も有するようになります。
低成長期以降こうした美術館の役割は減衰、日本では公的補助のカットが重なり、美術館の役割が模索され続けることになります。
とくに近年はインスタレーションや映像作品の展示が大きな部分を占めるようになり、ワークショップやアーティストトークといった体験を与える場としての重要性が増してきます。
蒐集・羅列から、研究・意味づけを経て、体験重視・集客(自己調達)のための大衆化へ。
このような美術館の役割の変化の中、今後もパフォーマンスアートの重要性は増していくように思います。

一方で現代社会での自由なパフォーマンスの困難性も重要な論点。
本展で展示される榎忠の「裸のハプニング」は1970年の大阪万博の会場でのパフォーマンスの記録写真で、万博ロゴを体にプリントした状態で半裸で会場を歩き回り、警察に逮捕される(笑)というパフォーマンスですが、今のアーテイストが同じことをやれば、おそらく即炎上、作家生命が終わることになりかねません。
パフォーマンスが美術館に所蔵されるということは、現代の美術館というある種のコンプライアンス的空間によってパフォーマンスが囲いこまれるという不自由性をも意味するのかもしれませんが、このあたりは歴史の流れ上、致し方ない側面なのかもしれません。

所有から体験へ、作品享受の変化。
このような流れは音楽でも同じ、レコードの購入より動画やライブの重要性が増す(カラヤン、バーンスタイン、クライバーと言ったレコードで知る巨匠の演奏を確認しに実演を聴きに行く時代から、実演で知ったヤルヴィ、サロネン、ティーレマンらの演奏を事後的に録音で確認する時代への変化)、パフォーマンスアートの重要性が増す背景にはこのような流れもあるのかもしれません。
物主体から体験主体へ。
しかしこれは逆説的で、近代大衆化社会以前はそもそも複製がなく体験しかありませんでした。
パフォーマンスアートはそもそも美術館以前の広義のアートのあり方であり、絵画や写真などと比較してもより普遍的な形態である、これをどのように美術館という近代的な場と接続していくか、という問題設定の方が、もしかしたら適切であるのかもしれません。


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ということで、いろんな思いがよぎる、面白い展覧会でした。
今後の現代美術・美術館の在り様を考える上で非常に重要な展示だと思います。
美術・美術館に関心のある人はにはお勧め。
パフォーマンスは鑑賞時間が限られていますので、注意が必要。
自分は予定を確認せず、ふらりと訪れたので、多くの実演は鑑賞できていません。
面白い展示でしたので、予定を確認してもう1度見に行こうかなと思っているところです。