ヒデキ。
芸映というプロダクションがなかったら彼のようなアイドル歌手は生まれなかった。
記事の後半には、秦野と並ぶ、もう一人のプロデューサー、香川洋三郎の仕事ぶりについて、岸本加世子、岩崎宏美の話が書かれている。
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〇岸本加世子 周囲の猛反対を押し切ってデビュー
香川洋三郎が最初に岸本加世子に会ったときおもったのは、「この顔はゼニのとれる顔だ」ということだったという。
芸映の新人開発セクションで浅田美代子、岩崎宏美、角川博とデビューを手がけてきた香川だが、岸本加世子は、香川がはじめてスカウトから手がけたタレントだった。昭和52年のことである。
「そのころ、うちは川﨑の団地に住んでいたんですけれど、うちの母は足が悪いんです。それで、長い階段を上がらなきゃならないでしょ。私はぜんぜん芸能界に興味なかったんだけど、香川さんが〝親孝行できるよ、加世子ががんばれば家を建てることだってできるかもしれないよ〟っていったんです。それからですね、本気になったのは」(岸本加世子)
事務所のほうはこの年、別の新人をデビューさせる予定で準備を進めている。当然、岸本加世子のデビューには反対する。
「ふつうのプロダクションだったら、〝おまえ勝手になんだ、やめとけ!〟って引導渡されるでしょ。それを、黙って、そんなにやりたいんならやってみろってやらせてくれるんですから、すごい会社でしょ」(香川洋三郎)
岸本加世子に賭けた香川の意気込みはすごかった。好きだった酒もプッツリとやめ、〝この子をスターにするまでは……〟とヒゲもそらず願をかけたという。
「いま考えるとぞっとするんだけど、あのときは、ぼくは天地真理や浅田美代子が座っていた椅子があいているはずだというひじょうに安易な考え方があったんです。それで意地を張ってがんばった」(香川洋三郎)
岸本加世子は、『北風よ』という歌でデビューし、この歌はまあまあ売れた。
《この靴で私をぶって!》
「デビュー曲をうたったとき、香川さんがグリーンの胸当ての付いたミニスカートを作ってくれたのね。それがすごくうれしかった。ところがあとから、浅田美代子さんの『赤い風船』のジャケット写真見たら、デザインが同じなんだもの。私、アゼンとしちゃった」(岸本加世子)
浅田美代子は香川が手がけた最初のタレントである。まだまだこれからというときに、吉田拓郎と恋愛し、引退してしまっている。このことは香川にとってよほど残念だったのだろう。
「私にもニューミュージックの男たちには絶対に近づくなと何べんも釘をさしたんですよ。アハハハ……」(岸本加世子)
岸本加世子のデビュー曲はそこそこ売れたが、そのあとが続かなかった。
「本人が歌よりも芝居の方が好きだ、女優になりたいっていいだしたんです」(香川洋三郎)
香川には歌手をプロデュースする自信はあった。しかし、女優のマネジメントはこれまで手を染めたことのない世界である。
「そのとき、香川さんはこういったんです。〝よくわかった。オレは芝居のことははっきりいってわかんない。恥ずかしいけどできるだけ努力して頭下げて教えてくださいって頼んでやってみる。だからお前もついてきてくれ〟って」(岸本加世子)
映画に出演したときの話だが、涙を流すシーンがあった。役に感情移入するひまもなくあわただしくコマ撮りするなかで、監督が目薬をささせようとすると、岸本加世子は香川に、
「どうしても涙が出てきないから悪いけど、このハイヒールで私の顔をぶって!」
と頼んで思い切りたたいてもらい、痛さのあまりワーッと泣きだす。急いでカメラが回る、というようなモーレツなこともあったという。
香川の最初の言葉通り、岸本加世子は去年、母のために小さな家を買った。
〇岩崎宏美 彼女は一言も弱音を吐かなかった
さて、岩崎宏美だが、彼女はデビューのプロデュースを香川が、その後のフォローを秦野が受け持っている。
「はじめて彼女の歌声を聞いたとき、〝なんてきれいな声の子なんだろう〟と思った。それで浅田美代子でやりたくてできなかった作業を徹底的にやろうと思った」(香川洋三郎)
浅田美代子は、何度目かのチャレンジでNHKのオーディションに合格したことがニュースになることや、人前でうたうのをいやがるような歌手だった。岩崎宏美は、デビューした年、1日も休みをとっていない。夏の平均睡眠時間は4時間ぐらいだったという。とにかく、時間があれば歌を聴いてもらうための作業をしていた。
「眠いとか疲れたとか一言も弱音を吐かなかった。そういうところを見て、ぼくはどうしてもこの子を形にしてあげなくてはいけないと思った。彼女の燃え方っていうのがね、芸能界の組織がどう動いているのかもわからぬままに、ただがむしゃらにやってるでしょ。初々しい燃え方だったんですよ」
本人とスタッフの努力のかいあって、岩崎宏美は、歌唱力に定評のある、ちょっと毛色の変わったアイドル歌手に成長した。それから、秦野にバトンタッチされ、安定したレコードセールスを続けてきた。
《10年うたうために今年がんばれ》
転機を迎えたのは、去年のことである。
「歌手というのは現状維持でやっていたら必ずしりつぼみになっていきます。1年、3年、5年、7年と1年おきに乗り越えなきゃならない壁が待っている。岩崎宏美の場合、ずっと安定はしてましたけど、このまま将来ずっといけるとは思えなかった」(秦野喜雄)
歌手のマネジメントの場合、コンサートの動員力やLPレコードの売れ行きにも影響してくるのが、シングル盤のヒット曲だ。3年先も同じように歌手活動を続けていたいと思ったら、いま、うたっている歌をヒットさせることしかない。
秦野は、岩崎宏美の7年目をラッキーセブンにするために綿密な計画を立てる。それから出てきた作戦が草花をテーマにした、『すみれ色の涙』以下のシリーズのイメージ展開だった。
「それまで、もちろん歌は好きだったけど、あんまり真剣に取り組んだというわけじゃなかったと思うの。先のことあまり考えないでのほほんとやってた。それが秦野さんに、〝10年、いっぱいの観客が集まったコンサートでうたっていたかったら、今年がんばらなきゃダメだ〟っていわれてから、もう一度、新人にもどったつもりでキャンペーンやろうと思ったんです」(岩崎宏美)
去年の暮れ、彼女はレコード大賞の歌唱賞をもらった。
「去年はがんばったから、今年は例年通り、のほほんと……」(岩崎宏美)
と思っていたやさきに『聖母たちのララバイ』が大ヒットしたのである。
「歌手のプロデュースをやっている以上、そりゃ、レコード大賞、いつかは取らせてやりたいです。秀樹にも宏美にもね。音楽に国境はないというから、作曲したのが外国人だって支持したのは日本の人たちですからね。関係ないはずなんだけど、規則ですから仕方ありません。ぼくは、外国曲でレコード大賞に該当せずっていうのが、秀樹の『ヤングマン』と宏美の『聖母たちのララバイ』と2曲あるんですよ。おかしなめぐり合わせですね」(秦野喜雄)
〇赤字のコンサート 目先の利益は絶対追いかけない
「うちがやるコンサートはまず赤字ですね。川合奈保子だって45人のスタッフがいて、11トン車で機材持ち込んでやりますから」(香川洋三郎)
芸映の首脳陣の考え方の最大の特徴は、まず目先の利益を追わない、ということだろう。
「売れっ子だからといって、需要に応えてなんでもやらせていたらすぐにつぶれてしまう。いまは一年一年で勝負する時代じゃないし、そういう意味でコンサートを中心に将来のことを考えながらやるわけです」(鈴木力専務)
現在、ほとんどのプロダクションがマネジメント業務に付随する利益の追求に血道をあげているが、芸映はそういう考え方をしない。
「営業とかCM制作とかマーチャンダイジングとか、利益を生み出すものっていうのは、タレントの周辺にいっぱいあると思うんですよ。そういうものは、うちの場合、全部、日ごろお付き合いしている仕事仲間の会社に持っていっていただく。みんな古くからの大切なつき合いですからね。そして、本体はなるべく人数少なくして身軽でいようと思ってます」(鈴木専務)
コンサートが赤字でもかまわないというのも独自の考え方がある。
「予算がこれだけかかって、会場のキャパシティから見た興行収入はだいたいこれだけという大枠はつかんでおきます。だけど細かいことは考えるなといっているんです。自分たちのやりたいことをやれ、と。そのイベントで赤字でもそのあと新しいファンが広がるかもしれない。その可能性を追求させたい」(鈴木専務)
そこで、たとえば、西城秀樹がヘリコプターに乗ってコンサート会場に姿を現したりする大がかりな舞台が実現するのだ。今年の大阪球場でのコンサートも、2万人の観客を集めて大盛況だったが、そのために述べ1400人のスタッフが投入されたという。
ただ、その芸映も、音楽出版の管理だけはきちんとしている。制作部長の松尾幸彦の専任である。松尾は、まだ作曲家たちがレコード会社の専属システムがあたりまえだったころ、なかにし礼と2人で、作った楽曲を売り歩き、フリーの作家たちの時代を実現させた人である。
《新人歌手は2年に1度だけ》
新人歌手も2年に1度しか出さない。
「うちは、1人の新人歌手をデビューさせると、それに社の70パーセントの勢力をかけます。新人をきちんと軌道に乗せるのにはそのくらいの覚悟が必要だと思うんです。
1年はそうやって新人を軌道に乗せる。もう1年は、旧人たちのマネジメントの軌道修正をするっていう体制になってるんです」(鈴木専務)
芸映には、現在11人のタレントが所属している。秀樹、宏美、加世子のほかに、篠ひろ子、北浦昭義、角川博、相本久美子、清水由紀子、河合奈保子、石川秀美、風見りつ子である。
「うちにいる35人の社員たちはよその3倍くらい働いているんじゃないですか。それでも、11組のタレントでもう手いっぱいですね」(鈴木専務)
最後にもう一度、西城秀樹に芸映を語ってもらおう。
「スターっていう座り心地のいい椅子に座ってそのまま終わるか、それとも、周りの人たちと声をかけ合いながら前に進んでいくか、これは自分との戦いだと思うんです。西城秀樹っていうみんなが知っている名前と、27歳の男の闘いなんだと、最近思うようになったんです。
自分はその闘いに喜びを感じるし、同時に、自分が結婚して子供ができてっていうこの先の人生を考えると、自分に対して真剣にならざるをえない。
そして、芸映はぼくがそういうことがわかるようになるまでじっと待っていてくれたと思うのね。だから、ぼくは芸映が一番素晴らしいプロダクションだと断言できるんです」
ちなみに、岩崎宏美を驚かせたゴキブリたちだが、その後さすがに問題になり、2度の消毒剤散布ですっかり姿を消したという。
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この記事は1982年の10月に書いたものである。
この時期、西城自身にはあまり自覚はなかったようだが、
タレント活動の曲がり角に来ていた。
というのは翌年、やがて、芸映から独立することになる。
なにがあったのだろう。
アメブロの字数制限があるようで、長文の原稿を一度に掲載できない。
この話、もう一回、続きを書きます。