私は自分が相当ラッキーな男だったと思う。

 

そして、

自分の運命がラッキーに転換した節目が

いくつかあると思っている

 

まず、最初のラっキーは9歳の時

親父に連れられて東京に来たこと。

 

これは親父が、戦争で兵隊に取られる前、

まだ10代の頃、東京で生活していて、

東京の凄さをよく知っていたから、

都会に行くなら東京だという信念があった

南信濃の人たちは地の利でいうと

名古屋が近く名古屋に出る人が多かった。

名古屋で子供時代を過ごしていたら、

どんな人生を過ごしていただろう。

見当がつかない。

 

二つ目の運命の分かれ目は高校進学のこと。

 

当時、都立高校は足切り制度というのがあり、

入試で一定の点数を満たしていると、

志望校に行けなくても

別枠の都立高校に行ける制度があった。

私は京王線の烏山にある千歳高校を希望したが、

そこには入れず、小田急線の千歳船橋にある

千歳ヶ丘高校というところに入学した。

この学校の自由な気風の中で好きに勉強でき

実力試験で学校で一番になったりした。

 

三つ目の幸運だが、

そういう男女共学でかなりナンパな高校で

勉強したり恋愛したりしながら、

受験勉強して、早稲田の文学部に合格した。

入試の倍率は10倍くらいだったと思う。

 

四つめの幸運は、大学生時代、

 

かなり好き勝手なことをして、

勉強もしたが、学生運動もして、

女の子と遊び回ったりしていたのに、

就職試験で700倍くらいの倍率の就職試験に

スポンと合格して

平凡出版(今のマガジンハウス)に入れた。

 

 小ラッキーだが、25歳の時、

親父が1400万円の家を買ってくれた。

 

五つ目の幸運は、近所のおばさんに

「素敵な女の子を紹介してあげる」と言われて、

遊び半分でデートしたら、これがものすごい綺麗な、

かわいい女だった。クリスチャンの学校で

寄宿生活をしていたというお嬢様で、出会った途端に

この女を女房にしようと思って、

一年間イチャイチャ付き合った後、結婚した。

その頃、私は芸能界にいて、かわいい女は

いっぱい知っていたが、鎌倉の山の上で暮らしている

銀行官僚の娘→生粋のお嬢様と会ったのは初めてだった。

子供は女の子二人育てた。

彼女を紹介してくれた近所のおばさんに感謝している。

 

 これも小ラッキーだが、35歳の時、

 マガジンハウスで木滑さんの部下になった。

 

続いてこれも小ラッキーだが、

14年前に1300万円で親父に買ってもらった家が

14年後の1990年に1億2000万円で売れた。

 

 

続いて、

マガジンハウスに32年間勤めて、

最後は自分が好きなように仕事させてもらったが、

会社を辞めることにして、

河出書房新社を訪ねて行ったら、

うちで身柄を預かります、と言ってくれた。

それで作家になった。

 

こういう大きな幸運の間に、

具体的な名前は書かないが、

いろいろな人たちに出会い、

いろいろなケースで助けてもらった。

人との出会いが私を成長させてくれた。

 

最後のラッキーは最近のこと。

今、作家をやっている娘(長女)が

お父さんの仕事の後を継ぎますと言ってくれた。

娘が本を作りたい人たちに営業活動を繰り広げて、

本作りの編集仕事がボコボコ入ってきた。

 

私は自分がラッキーの連鎖の中で

生きてきた気がしている。

 

過去、出会って一緒に仕事した人たちの多くが

すでに亡くなって故人になってしまったが、

そういう人たち、それから消息不明だが

今もどこかで暮らしているに違いない人たちに

言葉にしようのない感謝の念を持っている。

 

自分がどうしてこんなに幸運だったか、

自分ではわからない。

ただ、仕事については勉強を欠かさず、

精進し一生懸命に努力はしてきたと思う。

 

努力して報われる人と

報われない人がいるのだろう。

そういう意味でも私の人生は

ラッキーの連続だった。

 

人に接する時、

 

どうもありがとう、

いつもすみません

 

という言葉を口癖にしてきた。

もしかしたら、そういう言葉が

運命を切り開く力を

持っているのかもしれない。

 

人生というのは本当に不思議だ。

 

芝大神宮の強運のお守り、

最近、これを持ち歩いている。

多少は効き目があるのかも。

 

このあと、この話の個々のもう少し、

詳しいことを書き置くことにしよう。

 

今日はここまで。