2018年6月10日の礼拝説教

 

「聖徒の交わり」

ローマ12:3~8

 

今週の聖句

「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいない

ように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに

器官なのです。」

      ローマ人への手紙12章4~5節

 

『ハイデルバルク信仰問答』から学んでいます。

「聖徒の交わり」とは、すぐ前の「聖なる公同の教会」とセットで理解されるべきものです。

問54では次のように学びました。

 

問54 「聖なる公同の教会」についてあなたは何を信じていますか?

答 神の御子が、全人類の中からご自身のために永遠のいのちへと選ばれた一つの群れ  

   を、 ご自分の御霊とみことばによりまことの信仰の一致において、世の初めから終わり

   まで集め、守り保たれるということ。

   そしてまた、私がその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。

 

この「聖なる公同の教会」において、「聖徒の交わり」が行われるのです。問54は、教会とは

何かについて定義するものであり、問55は教会を形成する私たちがどのように生き、また取り

組んでいくべきかを説明しています。

きょうの箇所では、「聖徒の交わり」ということを、2つにまとめています。その前提となるのが、

「信徒は誰であれ、群れの一部」、さらに言えば互いに「一つのからだ」の「器官」であるという

ことです。聖書には、私たちキリスト者は「キリストのからだ」であり、互いに愛し合い、いたわ

り合い、仕え合い教え合っていくべきものであることが繰り返し教えられています(ローマ12:

3~13、Ⅰコリント6:15、10:17、12~13章、エペソ1:23、3:6、4:1~16、5:23・30、コロサイ

1:24ほか)。

 

最初にお読みした聖書箇所やピリピ人への手紙2章には、教会を形成していくにあたって

私たちが持つべき心構えが教えられています。それは私たちの主であり私たちが属する

からだの頭(かしら)であるイエス・キリストに従い、このお方にならうものです(「聖徒の

交わりに」についてのローマ・カトリック教会の教えには、私たちには全く受け入れられない

迷信が含まれています。たとえば、『カトリック要理』(カトリック中央協議会発行、中央出版社

、1972:信徒に問答形式で教理を教えるテキスト)には、「諸聖徒の交わりとは、キリストの

神秘体に属するものがすべて、神の生命と愛とによって結ばれており、互いに助け合うこと

です。そしてこれは、この世に生活する信者の間だけではなく、天国に楽しむ聖人にも、煉獄

に苦しむ霊魂にも及びます。」(p96)とあります。煉獄は人間が考え出したもので、聖書には

教えられていませんし、マリアをはじめとする「聖人」(だれが聖人なのかを決めて公表して

いるのはローマ・カトリック教会)がこの世の信者を助けるよう祈り取り次ぐとか、この世の

信者がその行いによって煉獄で苦しんでいる人々を助けることができるなどということも

聖書には教えられていません。中間状態としての天国にいる人々の祈りはあるとしても、

聖人の「余得」などというものがあるはずもなく、私たちが聖人に祈り求めて神さまへの取り

次ぎを依頼するようにも教えられていません。

 

人はだれも自分の行いによって神さまの正しい

基準に達することなどできません。私たちは唯一の仲介者であるキリストを通して祈るので

あり、自分とキリストとの間にもう一段階の仲介者を設け、ここに地上の労苦から解放されて

休んでいる人々をはさんだりしないしできないのです(Ⅰテモテ2:5参照)。ローマ・カトリック

の誤謬は、聖書に加え外典や教会の伝承にも神さまの啓示を認め、異教世界の迷信までも

「伝承」として吸収してきたことによります。けれどもそれは人間の愚かでむなしい空想を教義

にしているものであるとともに、キリストの恵みを不完全で相対的なものにしてしまうもので

人間の行いがなにがしか救いに貢献できるとするものです)。

 

 

 

               http://www.karuizawa-christ-church.com/sermons.html

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2018年6月3日の礼拝説教

 

「聖なる公同の教会(2)」

エペソ4:1~6

 

今週の聖句

「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、

寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に

保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだ

は一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの

上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である

神はただひとりす。」           

  エペソ人への手紙4章1節b~6節」

 

「聖なる公同の教会」について『ハイデルベルク信仰問答』では「一つの群れ」であると言って

います。キリスト教信仰は、個人的なものであると同時に共同体のものでもあります。それは

神さまと自分の一対一のほか何者もはいりこむことのできない個人的・排他的なものである

とともに、世界大のそして「世の初めから終わりまで」の人類の全歴史を貫く壮大なつながり、

関わりを持つものです。

 

まず信仰は一人ひとりが持つもので、だれも他人に代わって信仰を持つことはできませんし、

他人の信仰のおまけとして自分も救われるということはありません。個人的に唯一まことの

神さまを信じ、イエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じる者だけが救われるのです。

けれども一方で、聖書には教会抜きの個人主義の信仰というのは教えられていません。

なぜなら救われ、キリストのものとされた人はみな「神の民」(Ⅰペテロ2:9・10、黙示録21:

3、ローマ9:24~26、テトス2:14ほか)として、「キリストのからだ」(Ⅰコリント6:15、12:27、

エペソ1:23、4:12ほか)である「聖なる公同の教会」に加えられるからです。前回学びました

ように、私たちを「選ばれた」主体は、私たち自身ではなく神の御子キリストであり、私たちの

主であるお方が、ご自分の尊いいのちの犠牲によって私たちを買い取ってご自分の民に加え

てくださったのです(ヨハネ1:11、使徒20:28、ローマ14:8、Ⅰコリント6:20、テトス2:14)。

 

そうして私たちは主の民として「一つの群れ」となり、ともに神さまの永遠の御国を相続させて

いただくのです。このことを私たちはよく理解し、感謝と畏れをもって受け止める必要があり

ます。・・・・「自分が個人的に神さまにつながっていさえすればいいのだ。教会なんかいら

ない。礼拝に集う必要もないし、奉仕や献金もしないし、責任を負うつもりもない」。などと

いうのは聖書が教える信仰、すなわち神さまがもとめておられる信仰とは全く異質の、自分

勝手に考え出した宗教なのです。聖書には次のように言われています。「ある人たちの習慣に

倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいている

ことが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか」。

 

 

 

 

 

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2018年5月27日の礼拝説教

 

「聖なる公同の教会(1)」

 エペソ1:3~14

 

今週の聖句

「キリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いて

それを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を

受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光が

ほめたたえられるためです。」

    エペソ人への手紙1章13~14節

 

毎週の礼拝の中で唱えている「使徒信条」ですが、これをただ唱えているだけでは何の

ことなのかよくわかりません。今週取り上げるのは「聖なる公同の教会」と告白している

ことについて学びます。『ハイデルベルク信仰問答』の問54にはこう書かれています。

 

問54 「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか?

答  神の御子が、全人類の中から、ご自分のために永遠のいのちへと選ばれた一つの

群れを、ご自分の御霊とみことばにより、まことの信仰の一致において、世の初めから

終わりまで集め、守り、保たれるということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分で

あり、永遠にそうあり続ける、ということです。

 

前回から、使徒信条の最後の部分である「聖霊なる神について」という第3の区分にはいって

います。先週は、聖霊は「まことの信仰によって、キリストとそのすべての恵みに私をあず

からせ、私を慰め、永遠に私とともにいてくださる」お方であると学びました。そしてこの

問答書の問1でまとめられている聖霊の福音を(問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ

一つの慰めは何ですか。

答 私が私自身のものではなく、からだもたましいも、生きるにも死ぬにも、私の真実の

救い主イエス・キリストのものであるということです。このお方はご自分の尊い血をもって、

私のすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力から私を解放してしてくださいました。

また、天にいます私の父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、

私を守っていてくださいます。実に万事が私の救いのために働くのです。そしてまた、

ご自身の聖霊により私に永遠のいのちを保証し、今から後この方のために生きることを

心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。)、私たち一人

ひとりのものにしてくださるのが、聖霊なのだと申しました。「聖なる公同の教会」という告白

は、この聖霊のお働きによって理解されるべきものです。

 

教会について学ぼうとすれば、多くの時間が必要であり、聖書に教会抜きの信仰などと

いうものは存在しません。けれども、『ハイデルベルク信仰問答』では、使徒信条に沿っての

問答のところでは、「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」という2つのことばそれぞれに

1問ずつ割り当て、基本的なことを扱うことにとどめています(信仰の基本を教えることに集中

して込み入った議論を避けるためであり、教会のことを軽んじているわけではありません。

教会のことは信仰全体に関わることですから、多くの問答で教会のことに触れています。

問49~53、問65~85、98、123ほか)。

 

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