原理を学ぶ中で、引っ掛かるポイント、理解しずらいポイントとは何でしょうか?私は、その理解しずらいポイントの中に、平等というものが入るのではないかと思います。
韓夫人が行く道を間違えさせた考えの一つが、文鮮明師と韓夫人が同等なパートナーであるかのように考えることです。しかし、文鮮明師と韓夫人は役割も違えば、能力も違っていました。
また、統一教会のリーダー達は、自分達、あるいは自分の子供達と、文鮮明師の子供達が同等に扱われるべきだと考え、文鮮明師の子供達に許される事が、どうして自分の子供達には許されないのか、と考えました。しかし、例えば文顯進会長は、オリンピックに2度出場し、ハーバードM B Aですから、普通に考えても、能力も果たす役割も全く違う人でした。
平等である事を強調するのは、例えば共産主義思想に見られ、また、フェミニズムやL G B T Q運動の中にも、根幹的思想としてあるものです。法律的概念で言えば、平等に並行して守られるべきものは自由で、例えばL G B T Q運動が平等を主張しすぎると、他人の信仰の自由を侵害するようになります。
では、原理的な観点で平等はどのようなものか、ということになると、文顯進会長が言われるように、「平等とは愛の領域の中にのみ存在するものだ」という教えになります。これは統一思想の中にも見つける事ができるものです。(倫理論の中の平等へのリンク、本性論の中の平等へのリンク)
例えば、統一思想の中には以下のようにあります。
「統一思想から見るとき、原理的な平等とは愛の平等であり、人格の平等です。なぜならば人間が真に求める平等とは、父なる神様の愛のもとでの子女の平等であるからなのです。それは太陽の光が万物を等しく照らすように、神様の愛が万民に等しく与えられる平等なのです。したがって原理的な平等とは、主体である神様によって与えられる平等であって、対象である人間が気ままに得ようとする平等ではありません。
神様の愛は、家庭において秩序を通じて分性的に現れます。したがって愛の平等は、秩序を通じた平等なのです。秩序を通じた愛の平等とは、愛の充満度の平等です。すなわち、すべての個人の位置と個性に合うように、愛が充満するときに与えられる平等が愛の平等なのです。愛の充満とは、満足であり、喜びであり、感謝です。したがって原理的な平等は、満足の平等であり、喜びの平等であり、感謝の平等なのです。」
この基本的原理に基づいて、統一思想の中では、男女の平等に関して論じ、どうして不和が生じるのかを論じています。(リンク)
世の中での多くの主張が、平等思想に基づいているのを見ます。共産主義においては、お金や権力を持っている人から、それを取り上げることで、平等な社会を目指したと見る事ができます。
文鮮明師は反共産主義者として知られていましたが、不思議だったのは、統一教会の中においては、まるで共産主義のような体制があった事です。特に、日本において、お金を持っている人から取り上げるような発想がありました。2001年に日本の組織を監査して回った時に感じたのは、「まるで共産主義の恐怖政治のようだ」という事でした。
原理的な平等とは理解するのに努力がいる教えだと思います。私も今でも学んでいるものであり、学ぶとは、自分が努力するという事です。文顯進会長がいつも強調するように、感謝と謙遜の姿勢を維持し、傲慢と自己憐憫の扉を閉じるというのも、その努力の一つです。それは、平等ということに連結しています。
統一思想は、上記のように、「原理的な平等は、満足の平等であり、喜びの平等であり、感謝の平等」であると語った後で、次のように言っています。
「このような神様の愛の充満は、人間の完全な対象意識−神様に侍る心、神様に感謝する心−をもつとき、初めて感じるようになります。対象意識をもたない限り、いかに神様の愛が大きくても充足感を感じることはできず、不満を持つようになるのです。」