昨日掲載した、10月2日の文顯進会長のお話は、「天の原則と理想に従って生き、それを世界に代表する」という使命を天から与えられたのが、朝鮮人のアイデンティティの源にあるという事を、韓国の人達に思い起こさせることから始まっています。

 

愛国心や民族愛というものは、自己中心的なものになってしまう事が多かったのを、歴史を通して知ることができます。例えばナチズムです。文顯進会長の語る愛国心や民族愛というのは、それとは違います。ですから、文顯進会長は、韓国滞在中、ナチズムのような考え方に挑戦することもされました。

 

一般に、天から召命を受けた人たちを、選民と呼ぶ事が多いですが、その人達は自己中心的になってしまう傾向がある事を、様々な事例を通して知る事ができます。天から召命を受けたのは、神様と世界の人たちのためであるにもかかわらず、自分たちが高められることに喜び、自己中心的になった事に気がつかない事があります。

 

その例が、統一教会でした。例えば、原理講論の復活論を見れば、「最初の復活」というのは、「すべてのキリスト教徒の唯一の望み」であり、「初めて人間が原罪を脱いで、創造本然の自我を復帰し、創造目的を完成させる復活をいうのである」とあります。

 

しかし、これを「自分達は天国に行く」ように選ばれたと受け止めることもできれば、「自分達は人類が創造目的を完成させる事ができるように使命を与えられた」と受け止めることもできます。

 

また別の例を挙げれば、祝福です。祝福は36家庭、72家庭、124家庭と拡大されたので、ピラミッド型の印象を与えます。また、古い家庭であればあるほど、尊敬を集めました。功労の故と言うこともできますが、文顯進会長を支えようとした年配のリーダーが少なかったということも否定できません。

 

このピラミッド型は、統一教会の組織に根強く、ピラミッドの頂上に近ければ近いほど、神様に近く、栄光の座であるかのような印象を、教会員に与えました。リーダーである事は、文鮮明師から認められ、神様に認められた事と解釈され、その動機でリーダーとなる事を願う人もいました。

 

天から召命を受けた人たちが、自己中心に陥るというのは、様々な宗教に繰り返されたことでもあります。その表れが、「私の宗教を信じれば天国に行き、信じなければ地獄に行く」という考え方です。すべての宗教が、神様を源にしている、と考えて、神様が教えようとして普遍的真理は共通していると捉えるのは一部の人です。

 

さらに言うなら、宗教に共通する普遍的真理という発想をした、いわゆる偉人も歴史上にいますが、それが道徳や倫理の次元で終わるのではなく、神様との生きた父子関係に基づいた、一家族世界が目指すべきものであると捉えた人は、文鮮明師と文顯進会長の親子以外には私は知りません。

 

私は文顯進会長を持ち上げすぎるように見えるかもしれませんが、そのように語るのは、本心からです。そして、神様の創造理想と目的が成し遂げられるために、毎日祈り、神様にアラインしようとします。

 

私の中に自己中心があるかと言えば、あります。同時に、それが主人意識の現れであることもあります。だから葛藤もします。文顯進会長は、エゴというものに対して、とても手厳しいです。

 

組織的に言えば、私の上司は、私より年下の人達です。私はそれを歓迎しています。私はずっと昔、その人たちが神様の御旨に立てるように、組織の中では理解されなくても、育てようとしました。私はその人達が、神様にとって尊いと感じていました。

 

統一教会の過ちを悟るというのは、一段階ですが、それは、まだ入り口です。神様から選ばれるというのも、入り口です。

 

文顯進会長が弘益人間の意義を語り始めて10年くらい経ちます。それを通して、コリアン・ドリームが広がりました。しかし、天からの召命意識に目覚めた後も、その使命に生きる事ができるかどうかは、まだ決まっていません。

 

祝福家庭においても、同じだと、思います。