既に文顯進会長の下にいる方達を念頭において、「文顯進会長と一つになる、真の父と一つになる」という内容を継続する記事です。

 

文顯進会長は、真の父としての使命を担って出発されましたが、文鮮明師とは違う面があります。

 

使命とは神様から与えられるもので、使命という点では同じであっても、使命を果たすアプローチに違いがあるかもしれないという事です。

 

それが文顯進会長の不信仰か何かに見える可能性もありますが、一旦、真の父という使命を神様から与えられたら、アプローチというのは、その真の父の使命を持った人の決定する範囲内にあるものであり、御自分で決定されるのは当然の事と考えられます。

 

文顯進会長は、物事にアプローチするにおいて、ビジョンやゴールに焦点を当てる事が多いです。例えば、コリアン・ドリーム、これはビジョンです。

 

これに対比されるのが、プロセス(過程)に焦点を当てる事です。文鮮明師は、神様の創造目的を明らかにし、ビジョンを語りましたが、プロセスに関しても多くを語りました。例えば、転換に関するお話が天聖経の中にもたくさんあります。血統転換や心情転換も、そうしたお話の中に入ります。

 

これに対して、文顯進会長は、転換に関するお話もされるものの、血統転換や心情転換に関連しては、神様の理想家庭と、その中で実現される三大王権と四大心情圏に焦点を当てる場合が多いです。

 

聞いている人は、それが文鮮明師が語っていた内容と同じであり、さらに深まった、と感じる場合もあれば、文鮮明師が語っていた事と違う、と感じることもあります。

 

でも、同じ事が、ゴールとプロセスという二つの面で表現されたものであると見れば、同じである、という事になります。

 

例えば、祝福というものを理解する上においても、ビジョンやゴールからの理解と、プロセスからの理解があり得ます。ビジョンやゴールからの理解とは、神様の理想家庭とはいかなるもので、神様が何を理想とし目的としたのかという面からの、祝福に関する理解です。

 

これに対して、プロセスからの理解とは、タマルの信仰などの歴史的な血統転換のための条件、イエス様がどのように生まれたのかという事、祝福の儀式の意味に関する理解などが例です。

 

どちらの説明も間違っているというわけではありません。

 

さらに説明を加えるのなら、ビジョンやゴールを目指して、各自、各家庭が歩んだ時に、何を自分が悟るのか、実らせるのか、という内容です。それは人によって違います。出発したところも、背景も違うからです。例えば、既に結婚していた場合、婚約していた場合、未婚の場合など、違いがあります。さらに、そこに先祖からの霊的背景が付け加われば、それぞれが歩む道が違うのは明らかです。他人が理解できないこともあります。

 

その中で、人を見るのなら、「あの人は間違っているのではないか」と思えることもあるでしょう。その一番の例が、統一教会員が、文顯進会長を理解できなかったことです。

 

文顯進会長と神様との父子関係は、私たちの次元では測れない次元です。文鮮明師との関係も、私たちには測れません。文鮮明師が他界した後、文顯進会長を霊的に訪ねて来た頃の話も、何年も経ってからされます。そのような方を、統一教会では、理解する事ができなかった、という事になります。文顯進会長を後継者として任命したのは、神様だったのであり、そのような神様の主管圏にある人を、私たちが批判できないということを悟れなかった、という事になります。

 

同じような過ちを、祝福家庭が繰り返す可能性が今もあるか、と言えば、あるのです。それを防ぐアドバイスとして、文顯進会長は、「傲慢と自己憐憫はサタンが入る二つのドアです。そのドアを閉めなさい。感謝と謙遜の姿勢を貫きなさい。感謝と謙遜は、弱さではなく強さです。」と教えていると思われます。

 

例えば、文顯進会長が祝福のプロセスにおいて、文鮮明師と違うプロセスを選んだとしたら、「文鮮明師とは違う」と批判するでしょうか?それはとても危険な事です。文鮮明師のお話を利用して、自分を文顯進会長の上に立てる、主管性転倒につながるからです。

 

これを大々的にやったのが、統一教会のリーダー達でした。文顯進会長がビジョンを語って人々を感動させるのを見て、「お父様を証していません」と讒訴し、結局は、自分達を文顯進会長の上に立てる、主管性転倒をし、カインがした殺人の過ちを繰り返す道を行ったのです。

 

私たちは、神様のみ旨からズレてしまう可能性を持った人たちです。私は、自分をそのような人であると思っています。私が文顯進会長に下で働く中で「失敗した」と強く感じたのは、自分を文顯進会長の上に置く失敗を心の中でした時です。皆様は、そのような事をされませんように。