季節は変わって夏。前期日程が終わり、試験の時期になった。結論から言うと俺の手ごたえはまずまずといったところ。紙一重で、どうにか進級はできそうな出来だった。しかしこれまでの成績で卒業できるかというと、かなり微妙なところだ。仮に卒業できたところで、先のことなど何も決まっていない。ニートになるか、パチプロにでもなるか、そんなモンしか残ってなかった。
今日は大学の中央にあるタワーの一階ホールでマリーさんと会う約束だった。試験を終え、約束の時間になったので俺はホールに行った。
「こんにちは、櫻井君」
マリーさんは先に待ってくれていた。
「ああ…お待たせ」
「試験、どうだった?」
俺が席についた途端にそんなことを聞いてくるマリーさん。正直、どう答えたらいいかわからなかった。
「…どうにか進級はできそうだよ」
「そうなんだ。まあ、みんなそうだよね。それでいいと思うよ。これから頑張れば大丈夫大丈夫」
俺は何とも言えずうなずくしかなかった。
「さて、今日は近代哲学のまとめをやりましょうか。あんまり難しく考えず、簡単にね」
そういえばそういう約束だったな…とりあえず聞いてみるか。
「かつて、戦後に日本にも広まった実存主義、マルクス主義の影響を影響を受けた若者たちは、人間は自由で自らの理性に基づいて世の中を変革できると信じていた。自分たちが立ち上がれば、本当に革命が起こせると。もう目の前までそれがきていると思っていたわけね」
「…」
「ところが同じころ、それを強烈に批判する人たちも出てきた。世の中なんてどうせ変わらないし、変える必要もない。君たちのやってることは無駄だとね。結果だけ見れば、その人たちの言う通りになった。革命なんて起きなかったし、何も変わらなかった。これは何も半世紀以上前に限ったことじゃなく、今でも同じよ」
「どういうこと?」
「現代だって、どうせ世の中なんて変わらないと思って選挙にも行かない人も多いじゃない?どうせ世の中なんて変わらない、投票先がない、そういう無気力な人が人口の半分以上を占める状況は、昔から変わってないどころか悪化してるとも言えるの」
選挙にも行かない者は確かに多い。俺の同世代でも、行かない奴の方がむしろ多数派だ。政治に興味がないというのもあるだろうが、行っても無意味だという感じなんだろうな…
「どうせ世の中は変わらないから、変えようとしない方がいい。これは一見現実的に見えて、何もしない無気力な人間を量産させるだけになってしまうのね。これで良い生き方ができるはずがない。じゃあどうしたらいいだろう、という次の課題が現代に生きる私たちに問われているの」
「難しい課題だなぁ…」
変えようとすれば無駄と言われるし、変えない方がいいなら無気力になるし、どうしたらいいのか全くわからなかった。
「そうだね、難しいね。こればっかりはまだ答えが出ていない課題だから。けど、現実はどんどん変わっていく。50年前と今とは現実が全く違うから。だからまず、変わっていく現実を受け入れること。古い価値観を現代に持ち込まないこと」
「なるほど…」
「それから、どうすれば良い生き方ができるかというところを軸に、価値観を再構築するの。今、西洋哲学の中では、古代ギリシャまで遡って価値観の見直しが行われてるけど、そこまでしなくても、とにかく現実は変わらないと言って無気力な人にならなければいいと思う。後は、自分ができる範囲で行動すること。そうすれば、少しづつ現実は動いていく。逆に、どうせ何をやっても無駄だと言って動かなければ停滞する。日本の失われた30年といわれる停滞も、そのあたりに原因があるのかもね」
どうせ現実は変わらないから何をしても無駄だ、だから日本は停滞を続けているんだ…
「でも、自分にできる範囲って…」
「まぁそれは、今を精一杯楽しむこと、じゃないかしらね。そうすれば、自ずと意欲もわいてくる。だから何でも、自分が熱中できることに全力で取り組めばいいんじゃないかしら」
今の俺には何もない。勉強への意欲も、大学に入った意味も、将来の目標もない。あるのはパチンコと酒、それに中古の車ぐらい。でも、それでいいんだ。それで今を楽しめれば、そこから何かが生まれるかもしれない。手にあるカードから、どんなデッキを作るのか、それは俺の手にかかっている。俺だけじゃない。みんながそうなんだ。そんなことを悟ったような、夏の始まりの午後だった。