鉄と匈奴:日本への製鉄技術の起源なのか??? | Fugenのブログ

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 中国大陸史のみならず、日本への製鉄技術伝播の解明につながるかもしれない記事がWEBで公開されています。

『2013.11.20.「鉄と匈奴」のシンボを聴講して MUtsu Nakanishi』
http://www.infokkkna.com/ironroad/2013htm/2013iron/13iron13.pdf


 概要は、次の通りです。


 遊牧騎馬民族「匈奴」は、「秦」「漢」の時代、BC3世紀からAD1世紀にかけて ユーラシア大陸の中央モンゴル高原に割拠しました。
従来「匈奴」は、騎馬民族としての武力の強さは知られていたものの、武器や様々な物資の調達は「略奪」に頼っていたと考えられていました。
ところが、今回の発見・発掘で匈奴が独自の製鉄技術を有していたことが明らかになりました。
 製鉄技術はBC12世紀頃にヒイッタイトによって発明され、ユーラシア大陸を東へとインド・中国に伝わりました。中国そして朝鮮半島に伝わったのは『溶融鉄還元間接法』という製鉄技術なのですが、「匈奴」の製鉄技術は『塊錬鉄直接製鉄法』で全く違う技術です。そして、面白いことに日本の『たたら製鉄』は、「匈奴」の製鉄技法と同じです。将来、日本の製鉄技術が、中国を経ずに「匈奴」経由で日本にもたらされたことが証明されるかも知れません。
 
 また『たたら製鉄』は、大量生産には不向きですが、あまりよくない小鉄塊でも鍛造鍛冶で鉄器に仕上げる過程で高品質を作りこめるのが特徴だそうです。

 日本文化の独自性の起源が、「匈奴」由来の製鉄技術である可能性もありそうです。


 以下、抜粋引用のみ。本文には写真や地図などがあり、非常に興味深い内容です。


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---(前略)---
愛媛大・モンゴル共同チームが、従来は製鉄技術がないと思われてきた中央アジアの遊牧の民「匈奴」の製鉄炉跡をモンゴル国内で発見・発掘した。

紀元前3 世紀から紀元1 世紀にかけて ユーラシア大陸の中央モンゴル高原に起こった遊牧の騎馬民族「匈奴」。
当時中国は「秦」「漢」の時代、この匈奴の侵入を防ぐため、万里の長城を築き、当時の先端技術ですでに大量量産の製鉄技術を確立していた「漢」はこの技術がほかに流出せぬよう、鉄官などを置き、厳しく国家統制していた(溶融鉄還元間接法)。南の中国と対峙する一方、ユーラシア大陸の西では匈奴の侵入を発端とするヨーロッパの民族大移動が起こっている。

この「匈奴」の爆発的エネルギーの根源は騎馬民族の「略奪」に支えられていると考えられていたが、今回の発見・発掘で≪匈奴が独自の製鉄技術を有していた≫ことが、次第に明らかになってきた
また、愛媛大が進めてきた中央アジアでの数々の共同調査で、紀元前12 世紀ごろヒッタイトが発明した製鉄技術がユーラシア大陸を東伝して、早くからインド・中国に伝わったばかりでなく、黒海・カスピ海の北岸からユーラシア大陸中央の草原を通って、西シベリアやモンゴルにまで伝わっていることが明らかになり、ユーラシア大陸の東西をつなぐ、金属器・鉄器文化伝播草原の道≪Metal Road & Iron Road≫が、古くからあったという。
 この「匈奴」の時代 日本は弥生時代で鉄器時代には入ったものの、まだ 製鉄技術はなく、中国大陸から「鋳造鉄斧」などの鉄器が使われだした時代である。そして、その後それら移入鉄器や素材にして鍛冶加工して鉄器作りが進むが、製鉄が始まるのは5 世紀後半。しかも、中国の先端技術であった溶融鉄還元間接法が広く行き渡っている東アジアの中で、大陸・朝鮮半島と広く交流があったにもかかわらず、唯一ヒッタイトの鉄からつながる塊錬鉄直接製鉄法である≪たたら製鉄≫が始まる。 いまだにこのたたら製鉄の伝来ルートは謎のままである。
 
ところが、今回 中国が溶融還元間接法での量産製鉄を行っている時代に「匈奴」は塊錬鉄製鉄法で鉄を作り、世界を駆け巡り、そんな製鉄技術の痕跡がユーラシア大陸中央の草原に点々とあり、モンゴル・西シベリヤやバイカル湖周辺にも及んでいるという。 もう少しで、中国を経ずとも東アジアの日本海沿岸につながるのでは・・・・と期待が膨らむ。
まだ、発掘調査は端緒についたばかりで、発掘数も少なく、今回の「鉄と匈奴」のシンポでは たたら製鉄など日本との関係に触れた発表はありませんでしたが、今後に期待が膨らむシンポジュウムでした。


---(中略)---


古くからユーラシア大陸を西から東へ金属器文化東伝の道がユーラシア大陸中央の草原にあり、この草原の道を≪銅→青銅→鉄 ≫と金属器を変遷しながら文化を東伝した。

注目すべきは金・銅柄鉄剣などに見られる精巧な鍛冶技術が、古くから各地に伝わり、発達していた。
この鍛冶技術があまりよくない製鉄素材でもその鍛冶・鍛錬技術で高度な鉄器に仕上げていった可能性が推察される。
製鉄炉は小さな地下炉がいくつも近くに集積され、塊錬鉄法で製鉄が行われた。
今回発見されたモンゴルホスティング・ボラグ遺跡の製鉄炉も含め、良質・量産が確立していたとはみられず、数多くのあまりよくない小鉄塊が集められ、鍛造鍛冶で鉄器に仕上げる過程で高品質を作りこんだのでは???と講演の村上教授は触れた。 (日本・大陸には百錬鉄の言葉がある。 そんなイメージか・・・)


---(後略)---


>>『2013.11.20.「鉄と匈奴」のシンボを聴講して MUtsu Nakanishi』より