ショパン(1810-1849)
ショパンの父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人だった。
1810年10月、ショパンが7か月の時、父はワルシャワ学院でフランス語を教えないかと持ちかけられ、家族はワルシャワに移住した。
ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた。父ニコラはフルートとヴァイオリンを演奏できた。母ユスティナはピアノに長けており、ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができた。
ショパンと同時代の音楽家のヨゼフ・シコルスキーの著書『ショパンの想い出 Wspomnienie Chopina』によると、幼いショパンは母が弾くピアノを聴いて感極まって涙を流したという。彼は6歳にして、耳にした旋律を再現しようとしたり、新たなメロディーを作ろうとしたりした。
Préludes, Op. 28:
ショパンが本格的にピアノを習ったのは1816年から1822年、指導者はチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィだった。若きショパンの実力はあっという間に師匠を超えてしまったが、ショパンは後年ジヴヌィを高く評価していた。わずか7歳の「ショパン少年 Szopenek」は公開演奏を行うようになり、瞬く間にモーツァルトやベートーヴェンと比較されるようになっていった。
Etudes, Op. 25
Schumann (1810~1856)
裕福な家庭に生まれ、ライプツィヒ大学の法科に進むも、ピアニストをめざしてフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)に師事する。しかし、指の故障によりピアニストを断念、作曲家となる。
Scenes from Childhood, Op. 15:
1834年に「新音楽時報」の創刊に携わり、以後10年間にわたって音楽評論活動を行うが、このころから精神障害の症状に悩まされるようになる。
Kreisleriana op. 16 - Sehr innig und nich zu rasch / Molto ...
『クライスレリアーナ ピアノのための幻想曲集』は、ロベルト・シューマンが1838年に作曲した8曲からなるピアノ曲集で、ショパンに献呈された。1850年に改訂されている。
1853年にヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)と出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介するが、翌1854年にライン川に投身自殺を図る。救助されたシューマンはボン近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去した。
Grieg(1843~1907)
スウェーデン統治下のノルウェーで生まれたグリーグは、1858年、ヴァイオリニストのオーレ・ブルに才能を見出され、3年半の間ライプツィヒ音楽院で作曲とピアノを学ぶ。
1867年には、クリスチャニア(現オスロ)のフィルハーモニー協会の指揮者に就任した。またこの年に『抒情小曲集』の第1集を出版した。
Lyric Pieces(1867~1901)より
グリーグは終世、手のひらに乗るぐらいの小さな蛙の置物や子豚のぬいぐるみを大切にし、寝る時も一緒だったらしい。演奏会の時は、あがらないように、ポケットの中で蛙の置物をそっと握りしめたそうである。なお、この蛙の置物と子豚のぬいぐるみはグリーグの家(現在のエドヴァルド・グリーグ博物館)に展示されている。
Op.40 組曲「ホルベアの時代より」:
シベリウスは1885年の高校卒業後、ヘルシンキ大学に進学し法学を学び始めるが、音楽への興味の方が圧倒的に大きかったため、すぐさまヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)に転入して1885年から1889年まで同校で学ぶ。
生活のため、シベリウスは1892年から音楽院やカヤヌスの指揮学校で教鞭を執るが、これによって作曲のために割ける時間が足りなくなってしまう。状況が大きく好転したのは1898年に多額の年次助成金が交付されるようになってからで、当初は10年間の有期であった助成期間は後に生涯の交付へと延長された。
同年、喉の癌の疑いにより大きな手術を受け、1908年のはじめは病院で過ごさねばならなくなった。
Alexandre Tansman (1897-1986)