本日、川西市役所と川西市総合センターの北朝鮮による人権侵害問題啓発週間の
取り組みについて、お伺いしてきました。

まずは、川西市役所 川西市人権推進多文化共生課 ご担当者の方は長年、
取り組みを進めてくださっています。

市役所一階のロビーにて、啓発パネル展

川西市に住んでおられた特定失踪者 秋田美輪さんの情報が啓発されていました。
兵庫県警の兵庫県に関わりのある拉致濃厚の被害者、秋田美輪さんを含んで36名の
情報のポスターも掲示されていました。

一日も早く救出ができますようにお祈りします。







川西市総合センターの展示には、

秋田美輪さんについて 私が作成した詳しい資料も展示してくださっていました。

ご担当者、担当責任者にご挨拶させていただき、啓発を続けてくださっていることに
感謝をのべました。






関心をもってご覧になっている市民の方もおられました。
啓発を続ける、歩みををとめないこと、風化させないことが何より大切で
川西市が真摯に取り組んでくださることに感謝をしました。

秋田美輪さんのお姉さま 吉見美保さんは、兵庫・岐阜・徳島などで
ここ数年の間も講演会など救出のための活動を続けておられ、
今年の9月24日にはジュネーブの国連作業部会でも
陳述されました。

下記は、特定失踪者問題調査会の荒木和博さんの記事から
https://note.com/kumoha551/n/na5f1d836ad13


吉見さんの国連作業部会での陳述文書【
荒木和博ARAKI, Kazuhiro
荒木和博ARAKI, Kazuhiro
2025年10月5日 22:43
 以下は竹下さんに続き吉見美保特定失踪者家族会副会長(秋田美輪さんの姉)が去る9月24日、ジュネーブで開催された国連強制的失踪作業部会セッションでの陳述内容です。文書で提出し、要約した内容を口頭で陳述しています。英文はFacebookの「Rescue Abductees by North Korea」のページに掲載しますのでそちらもご覧下さい。
https://www.facebook.com/groups/4239107899749357/permalink/4302413516752128/
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 私の家族は日本が高度成長期であった時代に両親が築いた家族です。
 男性はよく働き、女性は家庭を守る。日々子供を成長させることにそれぞれ努力をしていました。妹は読書と料理が好きで母と台所で一緒に料理をよく作っていました。母がとっていた料理本のレシピを書いてあるページまで覚えているほどでした。私が結婚することを喜んでくれました。私の思い出の中には台所にいる母と妹の背中があります。
 1985年12月4日、妹は神戸の通っていた大学の門前から失踪しましたが、靴とカバンは、翌日、鉄道で160km離れた本人も行ったこともないような朝鮮半島側の小さな入江で見つかりました。神戸市は瀬戸内海側にあります。それを見つけた人は早朝の雨の後打ち上げられるイカを探しに海岸へ行ったのですが、靴とカバンは濡れていなかったのです。海へ向かう砂浜の足跡もありました。それは岩場のそばにあり、靴跡を付けた後、岩場に上がれば海へ向かったように見せられるものでした。そこで自殺すれば、外海に出るのに半年かかるという入江でしたので、自殺を疑って海の中をダイバーが潜って捜索が行われました。
 遺体は見つかりませんでした。3日間の捜索後、地元警察は「北かもしれないな」とつぶやきました。そして神戸側では妹の失踪地の近隣住宅地一軒一軒を警察が聞き込み捜査していたという近隣住民の話も38年後に出てきました。
 家族には神戸側の捜索は知らされませんでしたが、当時警察は北朝鮮による拉致が各地で行われていると認識していたようです。
 家族は、妹が自殺を考える程の悩みを持っていると思えませんでした。翌年の3月には大学を卒業できる予定でしたし、大学のロッカーには、失踪日の2,3日後に授業で提出するレポートも残っていました。
 1987年の大韓航空機爆破事件の報道を知るまでは、本当に自殺なのだろうかと疑問を持っていました。そのニュースが犯人の証言から北朝鮮内で李恩恵を名乗る田口八重子さんの存在を伝え始めると、両親と私は妹が北朝鮮にいるかもしれないと考えるようになっていきました。その後、両親は政治家への訴え、当時あった新聞への消息情報提供を求める尋ね人欄への投稿、署名活動、地方での講演等、できることを行っていました。しかし、父が認知症を発症し、2012 年で両親の活動が止まりました。
 私達家族は、悲しみのあまり、妹の事件について話し合うことがありませんでしたが、特定失踪者問題調査会の調査記録と母の記憶を頼りに姉の私が活動を始めました。
 これは、特定失踪者問題調査会が調べてくれたことですが、妹が最後に目撃された大学の周辺には、政府認定拉致被害者 有本恵子さんの通っていた大学、2014 年に北朝鮮側から返すと報告のあった認定拉致被害者 田中実さんと金田龍光さんが育った児童養護施設もあります。1998年には、妹と同じ年齢の加藤小百合さんもその地域で失踪しています。
 妹が失踪してから 40年が過ぎますが、妹の生死も消息も不明なままです。母は 2022年になくなり、父も 93歳になり、妹に会えぬまま亡くなる事も考えざるを得ません。
 拉致被害者が北朝鮮で過ごした年月は取り戻せませんが、戦時ではない日本から拉致され北朝鮮で暮らした拉致被害者が、せめて残された日々を日本で過ごせるようにしたい、と私たちは願っています。たとえ待っている人がいない拉致被害者も、だまされて連れていかれた人がほとんどです。是非日本へ帰ってほしいと思っています。
 作業部会の皆様のご努力で拉致被害者達の消息が判明することを望んでいます。よろしくお願いいたします。

補足
秋田美輪の失踪が自殺ではないと考える理由
① 自殺するほどの悩みはなかったと家族は思う。
② 大学内ロッカーに 2,3 日後の授業で提出するレポートが残されていた。
③ 入江に残されたバッグには、急行券があったが、使われた形跡はなく、入江近くの竹野駅まで行くには、急行券の距離が短いこと。
④ 早朝の雨にもかかわらず、靴とカバンは濡れていなかった。12 月 5 日朝雨の後に置かれた。妹の入江近くでの目撃証言はなく、日本海側へ行っていない可能性がある。
⑤ 入江から外海へ遺体が出るのには、半年かかるはずだが、5 日から 7 日までのダイバーの捜索で遺体は見つからなかった。
⑥ 妹が通った大学近くで 1978 年(田中実)、1979 年(金田龍光)、1983 年(有本恵子)、1985 年(秋田美輪)、1997 年(加藤小百合)に失踪者がいる。