第26弾を公開してから、

あれやこれやと月日が流れて、

もう5ヶ月も経つのですね。

 

寄稿文いただいていたのに、なかなかアップできずにいた皆様にお詫び申し上げます。

 

 

原ノ町の駅前に開室していた塾を閉鎖し、

立ち上げていた会社も解散し、

身辺が大きく変化いたしました。

 

 

 

この数ヶ月、

震災直後とはまた違った、人生の分岐点に立ち、

様々な別れや出会いをして、今日に至ります。

 

神様が大きく守ってくださっていることを感じながら、

小さな一歩ですが、少しずつ歩み出しています。

 

 

5ヶ月ぶりに、

卒業生の寄稿文を掲載します。

 

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吉田 水貴

フルート奏者

 

 

音楽の道に進みたいと思ったのは、高校3年生の夏休みが終わろうという時期でした。

周りはとっくに受験に本腰を入れている段階に、

私は音楽を専門に学べる学校があることを知り、その学校に入りたいと両親に告げました。

 

 

 

もちろん両親は大反対。

その学校が県外にあり、学費も高い事が理由でした。

 

 

オープンキャンパスもすでに終わっていましたが、

私は塾で番場先生に相談しました。

 

 

 

「まずはどんな学校なのか見に行ってみたら?」

と、番場先生はその学校に連絡を取って下さり、

特別にフルートのレッスンも受けられることになりました。

 

 

その見学で、私は一目惚れし、更に私はもうこの学校しかないと想いを募らせたのです。

 

 

両親も私も、どちらも折れず、

塾に行っても、勉強が手につかず、泣いてばかりの日が続きました。 

 

 

 

そんな姿を見かねた先生は、

「当たって砕けない岩はない!

みーちゃんが本気なら、もう一度ご両親に話してみなさい。

その代わり、途中で諦めたら私が許さないよ!」

 

と背中を押してくださいました。 

 

 

結局、両親が、そんなに行きたいなら…と受験を許してくれて、

私は念願の音楽高校に合格する事が出来ました。

 

 

これで念願の音楽学校生活がスタートし、

楽しい毎日を送っていたのは確かですが、

 

楽しいことばかりではなく、

幼少の頃から英才教育で音楽を勉強している学友との差に、

焦りや劣等感を感じる日々でした。

 

 

その差を埋めたくて、

テストは全て平均80点以上をとり、

片道2時間ほどの通学も3年間皆勤賞でしたが、

 

唯一の目標にしていた特待生には結局なれませんでした。

 

 

特待生になって、両親を高い学費から解放し、

その報告で番場先生が喜んでくれる姿をみる事が当時の私の唯一の目標でした。

 

 

しかし、

それを叶える力が自分にはなく、

そんな自分が大嫌いで、

あんなに大好きだったフルートを吹くことが怖くて苦痛に変わっていきました。 

 

 

 

高校卒業後は、浪人を経て念願の音楽大学に進学。

 

親元を離れ、母や父が夜や早朝も寝ずに働く姿を目の当たりにすることが無くなり、

少しずつプレッシャーから開放されていったように思います。

 

 

学生時代は、常に課題に追われていて、講義の合間も練習練習。

 

 

学校が終わると、深夜2時までアルバイトに行っていました。

 

 

週末はレストランでお客様にリクエストを取って演奏したり、

録音のお仕事や、依頼演奏、音楽仲間と演奏会を企画したりと、

沢山の機会と挑戦の日々でした。

 

 

 しかし、大学を卒業する3月、

あの東日本大震災が起こりました。

 

 

前日に仙台で演奏会に出演していた私は、

震災当日、東京でバイトがあったため、

いつもより早く実家を出て新幹線に乗り、東京に着いた所であの大きすぎる揺れにあいました。 

 

 

家族とは1カ月近く連絡が取れず、

テレビでは南相馬市壊滅状態という報道が四六時中流れ、

そして、原子力発電所の爆発… 

 

 

そんな日本が大混乱の真っ只中に卒業した私は、

親に迷惑をかけず自分の力で生活できるようにならなくてはと思い、

昼も夜も休みなくバイトをしていました。

 

 

高校から借りてきた奨学金の返済額は一生をかけて返さなくてはいけない額となってしまいましたが、

お陰で音楽高校や音大に行くという夢を叶えることができたので、

感謝して返していかなくてはと思っています。 

 

 

 

音大を卒業してから、がむしゃらに頑張ってきましたが、

残念ながら音楽だけで生活ができる人にはなれませんでした。

 

 

しかし、自分の力で生活し、奨学金も毎月返済し、

今はお金をいただいてフルートを演奏させてもらえる居場所もあります。

 

 

2014年から5年間、毎年200〜300人のお客様の前でリサイタルも開催し、

本気の姿を母に見せるという自分の目標も叶えました。

 

 

音楽を通して、かけがえのない仲間と出会い、

貴重な経験をし、応援してくださる方のお陰で、私は今もフルートを続けることができています。 

 

 

両親、特に母には本当に苦労ばかりかけました。

 

 

そんな大変な母をみて、

番場先生は、あの時背中を押さなければ…と申し訳なく思っているかもしれません。

 

 

私は、あの時背中を押してよかった!と自慢してもらえるような結果を出さなければならなかったし、それを目標にしてきました。

 

しかし、出来ませんでした。

 

 

この先生とのエピソードも、かなり前から書こうと思っていたのですが、

何も結果を残せなかったことが申し訳なくて、ずっと筆を進めることが出来ませんでした。 

 

 

今回書くことを決意できたのは、

私の通っていた音楽高校に、

番場先生が会議で行く機会があり、その時の事を「塾だより」に書いてくださったものを

たまたま引っ越しで見つけ、

先生は私をずっと応援してくれていたことを思い出したからです。 

 

 

その「塾だより」は、東京で音大に通っている時に

母が私に送ってくれたのですが、

私は先生が書いてくれたその記事が嬉しくて、

手帳にいつも入れて持ち歩き、

挫けそうになった時に読んで勇気をもらっていたのです。 

 

 

私が思い描いたハッピーエンドではなかったけれど、

今の私は自分の選択に後悔はしていません。 

 

 

先生へ。

 

 あの時背中を押してくださって、本当に感謝しています。

 

途中で諦めないという約束だけは、胸を張って守りました!

と言わせて下さい。

 

先生には、胸を張って、背中を押してよかった!と言わせてあげられませんでしたが、

先生のおかげで今の私は、年間150件ほどの結婚式や葬儀、勲章受賞のパーティーなどにフルート奏者として携わっています。

これからは大変な思いをして働いて支えてくれた母に、少しずつ恩返しが出来たらと思っています。

 

水貴より

 

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確かに私は言いました。

古い教室で、膝を抱えて泣いていた彼女に。

「砕けない岩はない!」と。

 

 

小柄で可憐な彼女の身体のどこにそんなパワーがあるのか?と・・

痛いくらいに我が身を削って、好きな道に邁進するみーちゃんの頑張りに、

私もずーっと応援してきましたが、

いつも笑顔で「大丈夫!先生こそ身体に気をつけて」と言ってくれる言葉に

私が甘えていたようです。

 

 

今回、寄稿文を読ませてもらい、

苦悩しながら、粉骨砕身していたことを知り、涙がこぼれました。

 

みーちゃんの努力にも、

そしてそれを支えたママにも、

大きな拍手を贈りたいと思います。

 

 

 

スタッフ渡辺と美咲ちゃんの連日の働きにより、

教室の細々した物は粗方片付いてきました。

 

 

今日は、自宅の物置や納戸で、荷物と格闘していました。

 

 

どこの家でもそうでしょうが、

高齢者って、なんであんなにモノを溜め込むんでしょうね?

 

我が家の両親もまさにそうで、

古い使えそうもないモノが出てくる出てくる・・・・

 

 

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35年間ありがとうございました。

 

 

中学時代に、ほんのちょっと男子バスケ部のマネージャーを頼まれたことがあって、

経験者だというので、

高校に入学すると、また男子バスケ部からジャーマネを依頼されたことがあるんです。

 

バスケ部の男子たちは、

みんなでかい。

 

靴もでかい。

 

だからその当時、原町では靴が購入できなくて、

みんなのサイズを訊いて、発注するなんてこともありました。

 

 

小高工業高校や相馬高校に練習試合に行く時は

薬箱持参して、一緒に付いて行ったり・・・

短い期間でしたが、懐かしい思い出です。

 

 

そのバスケ部に、

浪江から通っていた1学年上の先輩がいました。

 

 

もう一人のマネージャーの女の子と、

「にいさま」と呼んで慕っていました。

 

 

口数が少なくて、

時々面白いことを口走るので、

私は妙に親近感を感じていました。

 

 

浪江のお家に遊びに行かせてもらったこともあります。

おばさんの作ってくださったお菓子、美味しかった思い出があります。

 

 

にいさまが結婚して、そのお子様たちの面倒をみた時期がありました。

本日は、卒業生の保護者でもあり、

親愛なるにいさまの奥様からの寄稿文です。

 

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松本 由美

にいさまの奥様。

 

 

番場先生
ご無沙汰しております。

知人から聞きました。
塾を閉めて南相馬を出られるとか。

 

最近のフェイスブックでの投稿を拝見して「ああ、やっぱりそうなんだ」と寂しく思っています。

 

でも先生のことだからきっと大丈夫!って

安心する気持ちもあり複雑な心境です。

 

思えば主人つながりで

娘たちがお世話になり

 

主人が亡くなってからも何かと私たちを気にかけてくださって本当に感謝しております。

 

先生は忘れてしまったかもしれませんが

主人が亡くなって間もない頃 

そっと玄関のドアにお花が掛けられていたことがありました。

 

 

本当に気遣いのできる方なんだな~と、

私もそうありたいと、そう思いますが未だに至りません😅

 

震災後

再会することができましたがなかなか先生のお役にたつことができず申し訳ない気持ちです。

 

そんな松本親子ですが、遠く離れてもどうか忘れないで下さいね。

 

お体を大切に。お元気で。
 

松本由美より

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にいさまは病気で亡くなりました。
お母様と一日違いで、お二人合同葬をされました。
 
 
新聞の訃報欄で名前を見つけたとき、
あまりに驚いて、
何度も見返したほどです。
 
 
なぜか、にいさまの誕生日は覚えているのに、
命日間近になると、雑用に追われてなぜか外すのです。
 
 
そんな私に、

「主人の誕生日を覚えていてくださってありがとうございます。
命日は忘れてもいいんです(笑)
そうやってふと思い出して頂けることが供養になります。」
 

と仰ってくださいます。

 

 

大学を選ぶとき、

ディスコ全盛期でしたから、遊び場が近い大学だけ受けました。

 

にいさまがあの大学に行っていなければ、

眼中になかったと思います。

そんな不純な高校時代。

 

私の好きな人の話も、

テストの点数も、

一番話せる先輩でした。

 

筋肉痛です。

驚いたことに!

 

 

面談のばんばは、

朝、教室への階段を上ると、

深夜に帰宅するまで、階段を下りることはなかったのですから、

自慢じゃないですが、ほとんど歩きません。

 

 

それが、ここ数週間、

自宅への荷物運びやゴミ出しなどで、

何度も上がったり下りたり・・・・

 

一生分くらいの活動量で、

身体が驚きを隠せない様子。

 

 

 

立ち上げた会社も解体しますので、

今日は、会社名義のカードも解約しました。

 

やることが本当にいっぱい。

まさかこんな展開になるなんて、思いもしませんでしたから

時間がなーい!と焦っています。

 

 

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35年間ありがとうございました。

 

Zくんとは、彼が南相馬を離れる少し前に出会ったように思います。

 

早稲田大の教育学部出てるのに、

こんなとこで何してんの?なんて失礼なこと言ったかも。

 

 

津波で1階部分が流失したけれど、

2階は残っているという瓦礫の中の一軒家を

家主からお借りして住みかとして

ボランティアしてくれていました。

 

津波の跡地に、幽霊が出るとか

人魂を見たとか、

噂が蔓延していた時期です。

 

 

電気も水道もない家で、

しかも幽霊騒動のさなか。

 

「怖くないの?」

って訊ねたら、

「平気です。」と答えていました。

 

 

嗅覚がいいのか、

よく私がご飯を作っているところに、

タイミングよく現れるので、

ご飯食べる?

なんて、炊きたてをよそってあげました。

 

 

ある土砂降りの雨の夜、

「車で送って行こうか?」と言った私に、

「明日自転車必要だし、合羽持っているので自転車で帰ります」

という彼の後ろを、ライトで照らしてあげながら、

追跡したこともあります。(←危ない人のよう)

 

 

土砂降りの中、

彼は自転車を走らせ、

二階に着いて、

ランタンで丸を描いたのがOKのサインで、

それを見届けて家路に着きました。

 

 

多種多彩な人材が、ボランティアに来てくれていました。

 

 

支援していて、

資格がないと!と考えた彼は、資格取得の為に都内に戻りました。

 

 

 

親でもないのに、

彼の年令を考えても

「3年だけね。それ以上時間費やすなら、他の道を探すこと」と言い渡して、あれから○年・・・・

 

たまに都内で待ちあわせして、近況報告を受けています。

 

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浪人中。

 

 

番場先生、35年間、お疲れさまでした。 

なんちゃってボランティアとして南相馬で活動する中、 

野馬追通り銘醸館で

番場先生と初めてお話をし仲良くなった後、 

何かと声をかけていただきました。

 

 

原ノ町駅前の教室で、 ご飯を御馳走になったり、

勉強場所として使わせてもらったり、 

とてもお世話になりました。 

 

 

自分の活動に、何か意味があるのかなど、

ボランティア活動に 行き詰まりを感じ、

自問自答して悩んでいたとき、 

 

 

思春期の若者と正面から向き合ってきた

番場先生ならではの アドバイス・サポートを通して、

自分の足場を確認することが できました。 

 

 

 

今でも思い出すのは、

 

僕が皆の中で厳しい状態に なっていた時に、

番場先生がその空気に反して、

 

毅然と、 

僕のことを認めてくれたことです。 

 

 

あれは、イベントの前で、秋ぐらいに、

みんなのたまり場で、 外者、内者たちが集まって歓談しているときでした。

 

番場先生は仕事を終えてから、遅れて参加されました。

 

 

あの中で僕は、イジラレキャラ・ダメキャラになってしまっていて、

遅れて参加した番場先生にも

そのことを場の流れで振ってきたんですが

(あーいうのは、冗談っぽく、面白おかしく、空気が作られます。)

 

 

番場先生は、

「そんなことない。Zはしっかりしてる。」みたいなことを即答してくれました。

 

すぐそのあと、一言二言また仲間内が反論して、

僕の欠点を上げ連ねたのですが、

番場先生は、繰り返し、僕を認める発言をしてくれました。 

 

 

僕は、子供の頃イジメられてたときのように、

あーいう空気の中でうまく立ち回れない性分なんですが、

何か救われた、助かった・・・とすごく安心しました。

 

 

僕にとっては忘れられない一瞬ですが、

多分、番場先生は思ってたことを、

場の空気に飲み込まれず、

ソンタクせずに発言しただけで、

番場先生にとっては普通のことで、

印象に残っていなくても不思議じゃないと思います。

 

 

でも僕にはとても印象深いひとこまでした。

 

 

番場先生と話していると、

僕のことをひとりの人間として 信頼してくれているのを

肌で感じることができます。

 

 

 

 いろいろな個性を持った人間とガチンコでぶつかって、

相手のことを考え抜いてきた懐の深さのようなものを

番場先生から感じています。 

 

 

 

波瀾万丈の35年間だったと思います。 

 

 

これからは新しいステージで番場先生がご活躍されることを 

心から期待し、信じています。

 

 

 将来、また番場先生とともに活動できるときを楽しみにしています。 

ありがとうございました。

 

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うん。

人間には、誰にでも悪いところも良いところもあって、

 

悪いばかりの人は居ないはず。

 

咄嗟に出た言葉で、

ごめん・・・私はその時のことを覚えていませんが、

こうはっきり言葉に出すから、

ファンも居てくれるけど、敵もいるんだろうなと思います。

 

 

彼をテレビ局が追って、

ある番組で取り上げてくれたので、

そのDVDをご実家のお母様に送って差し上げました。

 

親はいくつになっても、

息子は可愛いし、心配なはず。

 

案の定、

一体何をしているのかと、

心配でたまらなかったというお母様から、

想像以上にお喜びのお礼の言葉が届きました。

 

 

で、彼は、

約束の3年が過ぎ、

まだ資格取得には至っていませんで、

「今年こそ!結果出します」と連絡が来ています。

 

親でもないのですが、

納得行く生き方をして欲しいと思っています。