生命を観るにあらざるなり、内部の生命の百般の表顕を観るの外に彼等が観るべき事は之なきなり、即ち人性人情の Various Manifestations を観るの外には、観るべき事は之なきなり。観は何処までも観なり、然れども此の塲合に於ては観の中に知の意味あるなり、即ち、観の終は知に落つるなり、而して観の始も亦た知に出るなり、人間の内部の生命を観ずるは、其の百般の表顕を観ずる所以
ゆゑん
にして、霊知霊覚と観察との中国 国際結婚相離れざるは、之を以てなり。霊知霊覚なきの観察が真正の観察にあらざること、之を以てなり。
夫れヒユーマニチー(人性、人情)とは、人間の特有性の義なり。詩人哲学者は無論ヒユーマニチーの観察者ならずんばあらず、然れども吾人は恐る、民友子の「観察論」の読者には、或は詩人哲学者を以て単に人性人情の観察者なりと、誤解する者あらんことを。民友子の「観察論」を読みたる人は必らず又た民友子の「インスピレーシヨン」を読まざるべからず。然らずんば吾人民友子に対する誤解の生
