「ない…。当たり前か」

中学校生活最後の週の月曜日、私は自分の靴箱の扉を開けて小さくつぶやいた。まだ時間は7時を過ぎたばかりで、あたりに人の気配はない。部活の朝練も、まだ始まっていない時間だった。
「落ち着いて、おちついて…」
私は次第に鼓動が早くなるのをなんとか抑えようと、自分に言い聞かせるように声に出した。ドキ、ドキ、ドキ…。
何度か、靴のかかとを脱いで、また履いて、を繰り返して、3回目、私はようやく、左足の靴を脱ぐと、床の上に白ソックスだけになった足を置いた。リノニウムの、硬くひんやりとした感触がソックスを通して足の裏から伝わってくる。
「あとは、右足を…」
左足の靴を脱いだのと同じくらいの時間を使って、私は右足の靴も脱ぎ、両足とも白ソックスだけになって、学校の床の上に立った。再び目を向けた自分の靴箱には、学校内で履かなければいけないスリッパタイプの上履きは入っていなかった。それもそのはずで、その上履きは先週の金曜日に、私が自分で”亡きもの”にしてしまったからである。
 
 その計画を思いついたのは、私が中学校3年生になった初めのころだった。私には”さきちゃん”という、小学校の頃から仲のいい女の子がいた。1,2年生では別々のクラスで心細かったけれど、中学校3年生になってようやく同じクラスになることができた。神様にかなり感謝をしたものだった。2年間は別々のクラスだったけれど、登下校や休みの日は一緒に過ごしていたから疎遠になることもなく、同じクラスになってからは休み時間や移動教室など、いつも2人で行動していた。というのも、私もさきちゃんも、あんまり人とコミュニケーションをとるのがうまくはなく、友達と呼べる子はあまりいなかったからだ。クラスの女子はそれぞれにグループを作っていて、それは前学年からのつながりだったり、部活のつながりだったりして、部活にも入っていない私たちには入るべきグループも特になかった。唯一、大人し目な女の子たちの4人グループがあったので、さきちゃんの協力もあって、授業のグループ活動などはその子たちと一緒にやることが多かった。
 そんな私の”大親友”、さきちゃんにとある災難が降りかかった。5月の連休明けの登校日、2人並んで登校して靴箱についたとき、さきちゃんがとある忘れ物に気が付いた。
「やば、上履き、忘れちゃった…」
私の学校の上履きは、スリッパの形をしたもので、こまめに洗う必要はない。けれどさきちゃんは、長い休みの前などはきちんとその上履きを持って帰っていた。その上履きを、休み明けで家に忘れてしまったらしい。学校によっては、貸し出し用のスリッパがあるところもあるらしいけれど、私の学校にはそんなシステムはなかった。忘れてくる生徒がそんなにいないからかもしれない。
「え、どうしよう…」
さきちゃんの災難に、私もオドオドしてしまう。けれどさきちゃんは、どうしようもないことを割り切ることができる性格だったので、ささっと靴を脱ぐと、白いソックスの足を床につけた。
「さきちゃん?上履きは…」
「忘れちゃったのは仕方ないし、今日一日くらい、このままで過ごすよ!」
そう言ってちょっと恥ずかしそうな表情で笑うと、
「ほら、そんな顔してないで、さくも早く行こう!」
「あ、う、うん!」
私1人だけ上履きを履くのは少し気が引けたけれど、ソックスのまま学校を歩くのはとても私には無理だった。私は結局上履きに履き替えて、先にソックスのままペタペタと歩き出していたさきちゃんを追った。
「足、痛くない?大丈夫?」
階段を登るさきちゃんに聞くと、
「うん、ちょっと床が冷たいけど、大丈夫だよ。ありがとね」
「こ、困った時は言ってね!」
教室に着くと、私たちの属するグループの子何人かとあいさつをして、休み前の席替えで決まった席にそれぞれ座る。私は前から4番目の窓際、さきちゃんはその斜め前だった。椅子に座ると、さきちゃんは靴下の汚れを気にしてか、足裏を確認する仕草をして、軽く手でパンパンと足裏を払っていた。
 授業中はソックスだけの足を机の棒に乗せていたさきちゃんだったけれど、たまに椅子の下で足を組んだ時は、ソックスの足裏がばっちり見えて、時間が経つごとに灰色の汚れが濃くなっていった。3時間目が終わった休憩時間、さきちゃんが私にお願いごとをした。
「さく、ちょっと上履き貸してもらってもいい?トイレ行きたくて💦」
「う、うん、いいよ!」
そう言って、私はスリッパを脱ぐと、さきちゃんに渡す。
「ありがとう!ごめんね、靴下汚いんだけど…」
「ううん、気にしないで!」
さきちゃんはスリッパを履く前に手でソックスの足裏をパンパンと、さっきよりも丁寧に払って、私のスリッパに足を入れた。ちょっと小さそうだけれど、安心したようにパタパタと教室を出て行った。私の学校のトイレは廊下から直接つながっていて(段差などもなく)、専用スリッパもないので、みんな上履きのまま出入りができる。そのため、上履きがない場合はソックスのまま入らなくてはならなくなってしまう。なによりも、さきちゃんの手助けができてよかった。
 一時的に上履きがなくなってしまった私は、ソックスだけの足を机の棒に載せて待っていた。上履きがなくなって、足元の寂しさをかなり感じていた。横を通るクラスメイトの視線も感じて、ドキドキしてしまう。このドキドキがなんなのか、不安なのかそれとも違うなにかか、私ははっきりとはわからなかった。さきちゃんが戻ってくるまで5分とかからなかったけれど、私はその時のドキドキをその後ずっと覚えているのだった。
 昼休み、私とさきちゃんは教室でおしゃべりをして過ごし、掃除の時間になった。その週から掃除場所が変わって、出席番号の近い私とさきちゃんは、他の女子2人とともに多目的室の担当になった。
「多目的室ってどこだっけ?」
「確か、西棟の4階だったような…」
「そっか、じゃあ行こう!」
私たちの教室は東棟の3階。多目的室は、東棟から渡り廊下を渡って階段を1階分上がった、西棟4階の端っこにある。総合学習でビデオ鑑賞をしたり、講話を聴いたりする部屋だ。授業では1年に数回しか使わないけれど、掃除はコツコツやらなきゃいけないらしい。
前を歩くさきちゃんは、階段を上がるたびに足の裏が見えて、その汚れは朝よりかなり濃くなっていた。休み明け久々の学校で、掃除をしていなかった分、ホコリがたまっているらしい。多目的室は机が固定されていて、イスをすべて机にあげて、長いモップで床を拭いてしまったら大体終わり。あとは机を拭いたり、ゴミを集めたりする。
「じゃああたしたち、イスを上げるから、さきちゃんたちはモップよろしく!」
「わかったよー」
私とさきちゃんがモップ係りになって、多目的室の横にある、倉庫からモップを取り出す。重たい鉄製の扉をあけ、電気を点ける。
「ここって、初めて入るねー」
「そうだね、なんか、ほこりっぽい…」
倉庫のような部屋はそれほど広くなく、段ボールや、いらなくなった机などが積まれていた。床は廊下と同じ、リノニウムのようだけれど、目に見えてホコリが全体的にたまって、端っこにはホコリが積もっていた。
「えっと、あこれだ。はいモップ!」
「あ、ありがとう…」
そんなほこりまみれの倉庫だったけれど、さきちゃんは何のためらいもなくソックスのままペタペタと入り、奥の方にあったモップを持ってきてくれた。倉庫の中には、さきちゃんが歩いたところだけホコリがなくなって、灰色の床の上に白い足跡が点々と残っていた。
「さく、どうしたの?」
「あ、ううん、なんでもないよ!」
私がさきちゃんの足跡に視線を奪われていると、さきちゃんがそれに気づいて、倉庫の中を振り向いた。
「あは、足跡ついてるし…」
「ホコリ、たまってるもんね…」
「うわ、めっちゃ靴下汚れたー。みてよ、これー」
さきちゃんは足をまげて、ソックスの足裏を確認していた。私にも見せてくれたけれど、厚くホコリがたまっていたせいか、それまで白かった土踏まずや、側面にもホコリが付いてしまっていた。
「すごいね…」
「まあ、一日中過ごしたらこうなるよねー。洗うの大変だな」
さきちゃんはもうホコリを払うようなこともせず、そのまま教室のモップ掛けに取り掛かった。二人でそれぞれ、教室の右側と左側をモップ掛け。終わるころには砂やホコリが結構な量で集まっていた。ほかの女子がちりとりを持ってきてくれたので、モップでそこにゴミを集めて、掃除は終わり!
「さく、トイレ、行かない?」
教室への帰り道、途中でさきちゃんがこそっと私をさそった。
「うん、いいよ、私もちょうど行きたかった」
渡り廊下の前にトイレがあったので、そこへ立ち寄る。他に生徒はいなかった。
「どうする?さきちゃん、先に行く?」
「え?ううん、いいよ、一緒に行こう」
そう言って、ソックスのままトイレへ足を踏み入れるさきちゃん。え、なにしてるの…!
「え、さきちゃん、上履きは…?」
「もう靴下、ほこりまみれだし、さくの借りるのも悪いからいいよ!そのままで!」
そう言って、ためらいなくペタペタとトイレへ入るさきちゃん。掃除したてといっても、スリッパのないトイレにそのまま入るなんて…!自分のことではないのに、なぜかとてもドキドキしていた。いや、ドキドキは今日、さきちゃんが靴下のままで校内に入ったときから、授業中も、さっきの掃除の時間も、ずっと感じていた。
用を済ませて、手を洗っていると、ふわっといい香りとともに、さきちゃんが私の横に立った。
「ここ、洋式なんだね。和式じゃなくてよかったー」
「あっちのトイレより、綺麗だよね、ここ」
「うわ、水ふんじゃった…。気持ち悪いー」
教室に戻ると、さきちゃんは靴下だけの足を再び机の棒に乗せた。ホコリがついて足の裏だけでなく、横やつま先の部分も灰色に汚れが見えてきている。そんなつま先を、くねくね、くねくねと動かしていた。
 授業が始まって10分ほど経つと、さきちゃんは机の棒に乗せていた足を、イスの下で組むように動かした。私の方からはばっちりと、灰色というより真っ黒になった、さきちゃんのソックス足裏が見えるようになった。先生の声は全く耳に届かず、さきちゃんの足裏に注目してしまう。右足のつま先を床につけて、浮いた左足のつま先はくねくねとしきりに動いていた。
 最後の授業は、選択の芸術。私とさきちゃんは美術を選んでいたので、道具を持って美術室へ向かう。美術室は西棟の3階だ。
「さくー、美術室いこー」
「うん、いく!」
中学校の授業の中で。美術は一番好きな時間。好きな席に座れるし、好きなものを描くことができる。いまは夏のコンクールに向けて、風景画を描いているところだった。
「それじゃあ、各自で道具の準備をして、続きをどうぞー」
美術の先生は若く見えるけれど、年齢は誰もわからないらしい。授業中は基本的に自由にさせてくれる。私とさきちゃんは、教室の後ろに保管していた、描きかけの絵を持ってくると、道具をそろえて続きを進める。二人とも、まだ描きかけの段階だ。書こうとしている風景は写真に収めているので、それを近くにおいて、できる限り同じように描いていく。
「うん、よくスケッチできているね。その調子で」
「わっびっくりした!ありがとうございます」
急に先生がやってきて、集中していたため二人ともびっくり。
「…おや、君は、上履きは…?」
先生が、さきちゃんの足元に気が付いた。さきちゃんはもう慣れた様子で、
「休み前に持って帰って、今日忘れちゃったんですよねー」
手を動かしながら答える。
「それは災難だったね。絵具とか踏まないように、きをつけて」
「ありがとうございます!」
その後、先生はずっと教室を回ってみんなの進捗を確認していたけれど、私たちのところに来たときは、さきちゃんの足元ばかり見ていた気がする。私の気のせいかもしれないけれど…。
「うわ、雨降ってるよ…」
美術が終わって、教室へ戻るとき、渡り廊下から外を見ると、弱い雨が降り出していた。空いていた窓から吹き込んで、あたりの床を濡らしている。上履きを履いている生徒たちが何も気にすることなく濡れた床を踏んで歩いていく。ソックスだけのさきちゃんは、なるべく濡れていないところを選んで歩いていった。
「どうしよー、私、傘も持ってないよー」
「私、折り畳みなら持ってるよ。…一緒に帰る?」
「いいの?じゃあお言葉に甘えて…」
帰りのホームルームを終えると、特に部活や委員会の用事がない私とさきちゃんは、まっすぐ昇降口へと向かった。幸い、雨はそんなに強くなく、折り畳みで何とかなりそうだった。
「明日は忘れないようにしなきゃなー」
靴箱に手をついて、その日一日中歩き回った靴下の裏を見るさきちゃん。ホコリや砂で真っ黒だ。
「真っ黒だね…」
そんな靴下を見て、私はまたドキドキしてきた。あのさきちゃんの靴下がこんなに真っ黒に…!私も…!
「…ちょっと、待ってね」
「?うん」
さきちゃんはおもむろにソックスに手をかけると、右足、左足と、するすると脱いでいった。脱いだ靴下は、少し迷って、くるくると丸めて近くのゴミ箱へ入れてしまった。
「さすがにあの靴下はもう履けないよねー…。我慢してハダシで帰ろう」
そう言って、靴箱から通学シューズを取り出すと、素足をそのまま突っ込んだ。一連の動作に、私はその日で最高のドキドキを感じていた。ちらっと見えた素足の足裏も、黒っぽくなっていた。
「…さく?大丈夫?」
トロンとしていた私だったけれど、目の前にさきちゃんの顔が来て、驚いてしまう。
「あわわ、うん、なんでもないよ!」
「そう?じゃ、帰ろっか!」
「うん!小さいけど、なんとか…!」
「あは、ほんとだ。さくサイズだねこれ」
傘は私より背の高いさきちゃんに持ってもらって、肩と肩をぴったりくっつけて、私とさきちゃんは下校した。
 翌日には、さきちゃんはしっかり上履きを持ってきていたけれど、私にはその日のことがずっと頭に残っていた。私もさきちゃんみたいに、ソックスだけで過ごしてみたい。ソックスだけで廊下や教室を歩くのって、どんな感じなのだろう。あの日はちょっとだけ、上履きをさきちゃんに貸していたけれど、それだけでもドキドキがすごかった。それが一日中だと…!そう考えはするけれど、いざやってみようとなると難しくて。結局それからずっと、靴下で学校内を過ごすということはできないままになっていた。
 
そして卒業が近づいた今日、私はずっと考え続けていた計画を、実行に移そうとしていた。
 
つづく