「ユミちゃん、じゃあ、またね!」
「うん、バイバイ!」
クラスメイトの佐藤さんと吉田さんが教室を出ると、もうそこには誰もいなくなった。私のクラス、2年D組の教室には、私だけが残っている。いつものことながら、不思議な感覚だった。いつも大勢のクラスメイト達が、勉強して、遊んで、ご飯を食べる、にぎやかな教室が、こんなに静かな空間になるなんて。
「さてと・・・」
私はこのクラスの学級委員を務めている。一番最後に、教室のカギをしめるのは、私の仕事だった。日直の人に任せてもいいのだけれど、少なくとも今日だけは、最後まで残っておきたかった。ホームルームが終わって、およそ1時間が経とうとしている。夏の日は長く、午後6時を過ぎてもなお、外はお昼間のように明るいままだ。校門へ延びる道を、先程教室を出たクラスメイトの佐藤さんと、竹内くんが、仲良く手をつないで帰っている。二人は最近、付き合っている、という話。高校生ともなると、恋愛事情が気になるけれど、あいにく私は、まだ出会いがない。このまま高校生活が終わってしまうのも、なんだか惜しい気もする。
「もうちょっと、待とうかな・・・」
まだその時間には早いと思った私は、気を紛らわせるように、外を見ていた窓から離れ、再び自分の席に着いた。教室の真ん中の列の前から2番目。月ごとに行われる席替えで、今月、私はこの席が割り振られた。隣は特に仲良くしている幸穂ちゃんの席。偶然にも隣同士になって、喜んだものだった。ぼんやりと本を読み、私は再び時計に目をやった。午後6時20分。一人で、その時を待っている時間というのは、本当に進むのが遅い。私は来週の予習をするために、一度片付けたカバンから、数学のノートとペンケースを取り出した。気づかれないよう電気を消しているため、やや暗いけれど、できないほどではない。
「うーん・・・」
予習の最後の問題に詰まっていると、チャイムが鳴り響いた。下校時刻まで、残り30分を知らせるものだ。時刻は午後7時。外は先程に比べ、大分暗くなっている。
「もう、いいかな」
恐る恐る外を見てみると、先程まで練習をしていた陸上部や野球部、サッカー部などは、引き上げる準備を始めていた。もう、大丈夫。私はノート類をカバンにしまうと、席を立った。
「や、やるぞ・・・」
もうこんな時間だし、きっと校内にはだれもいないはず。でも一応、廊下の外を見てみる。隣の教室はしっかり施錠されているし、人の気配もない。これなら、いける。実は、昨日も、一昨日も、チャレンジしようとしたけれど、予定が入ったり、人が来たりして、実行できないままだった。
「ふう、はあ・・・」
いざやろうとすると、とたんに心臓がどきどきしてきた。でも、これは私がやりたいと思っていたことなんだ。今日なら、きっとできる。やろう、勢いつけて、一気に・・・。
私は、自分の席に戻ると、その場で左足の上履きを脱いだ。学校指定の白いソックスをはいた足が、空中に浮かぶ。上履きを袋にしまうと、そのソックスだけの足を、床につけた・・・。第一段階、完了。次は、右の足。同じように、ゆっくりとした動作で、右足の上履きを脱ぐ。足を後ろに折って、右手を使って、するり、と。その上履きは、同じように袋に入れる。この袋は、家に持って帰って、上履きを洗って、また月曜日に持ってくるのだ。中には数週間、上履きを洗わないまま履き続ける人もいるけれど、私は嫌で、できそうにない。でも、なんでだろう、今からやろうとしていることは、全然嫌じゃないんだけどな・・・。
両足の上履きを脱ぐと、私は白いソックスだけで、教室の床に立っていた。年季の入った木のフローリング。ソックス越しに感じるその感触は、堅いけど、柔らかい、そんな感じ。優しく足に接してくれる。
私はその場で足踏みをしてみた。床の感触が、くっついて、また離れて・・・。なんだかとっても気持ちいい。上履きを履いたままでは、決して感じられない、感触。私はそのまま、机の周りを歩き出した。ペタペタと、ソックスのまま、みんながふだん、上履きを履いて歩く教室の床を歩く。なんとも言いようのない興奮が、私を包み込む。教室の一番後ろまで来たとき、右足のソックスの裏を、ちょっとだけ見てみた。少ししか歩いていないのに、そこには私の足が地面に触れていたところ、土踏まずと、足の隙間以外の部分が、ホコリや砂、だれかの髪の毛、消しゴムのかす、折れたシャーペンの芯などによって、灰色に汚れていた。
「わあ・・・」
私の興奮はより高まってしまった。もっと、ソックスを汚したい。台無しにしたい、という思いが、私の心を支配する。下校時刻も、他人の目も、この時ばかりは頭から吹き飛んでいた。私はホコリの多いだろう教室の隅を、ソックスの足ですり足をしながら、歩いた。後方の隅、廊下側の隅、前方の隅、そして、黒板前の一段高くなったところ。そこが終わると、今度は机の間を縦横に歩き回る。心臓は先程からドキドキしっぱなしで、はち切れそうだ。一通り教室を歩き回ると、私は教卓に座って、右足を左足の太ももにあげた。ふだん絶対しないだろう姿勢だった。教卓に座るなんてのも、もってのほかだ。でも、今ここにいるのは私だけ。誰にも注意されないし、誰の目にも、触れることはない。
「わ、わあ・・・!」
ソックスの裏は、先程より一層、汚れは濃くなっていた。土踏まずと、指の間の白さとは対照的に、教室に積もったホコリや砂で、真っ黒な足形がそこには浮かんでいた。こんなにソックスを汚したのは、生まれて初めてだった。私はそのまま、教卓の上に上ると、教室を見渡した。先程まで生徒たちで埋まっていたであろう、私のクラスの教室。今は誰もいなくなって、今日の役目を終えた机といすが、整然と、黙って並んでいるだけだった。こんなに高い位置から、教室を見渡したのも、教卓に上ったのも、たぶん初めてだ。私はそれから、ぴょんと教卓を降りると、自分の席に向かった。いつしか日は傾いて、教室はだいぶん暗くなっていた。・・・もうそろそろ、帰ろうかな。
私は学級委員の仕事、教室内の窓の施錠の確認を、ソックスのまま済ませると、教室前方にかけられた鍵をとった。カバンを肩にかけ、上履きを入れた袋を、手に提げる。私は、靴箱まで、ソックスのまま、行くつもりだった。どうしてか、その時の私は、それができると、思っていた。予定では、教室の中だけにするはずだったのに。教室でのチャレンジを終えて、いくらか気分が大きくなっていたのかもしれない。廊下に誰もいないのを確認して、ソックスのまま、教室を出て、鍵を閉める。教室があるのは、校舎の4階。ここから階段を下りて、2階の職員室に鍵を戻し、1階の靴箱へと向かう。誰にも会ってはいけない。私のチャレンジ、2段階目が始まった。
教室はフローリングだったけれど、廊下はリノニウムのタイルが敷き詰められている。そのため、足の裏には、ひんやりとした固さを感じる。これもまた、気持ちいい。ペタペタと、ソックスのまま廊下を進むと、階段が現れる。電気が消され、窓もないから、ほとんど闇に包まれていて、ちょっとだけ怖くなる。恐る恐る足を踏みだす。ペタペタと順調に階段を降りていくと、不意に遠くから人の話し声が聞こえてきた。びっくりして足を止める。3階から2階へと向かう階段だ。声はその2階から聞こえてくる。そうか、たぶん、職員室の先生の声だ。私はそう解釈して、一気に2階までの階段を降りた。2階の廊下をペタペタと進んで、職員室前へ。そこはまだ先生がたくさん残っていて、私は、ソックスのまま、そこに入ることがためらわれてしまった。どうしよう・・・。さすがに、ソックスのままってこと、このままじゃあ、わかっちゃうよね・・・。何か言われちゃうかもしれなし・・・。私は左手に持った、上履きの入った袋に目をやった。・・・履いちゃおうかな。けれど、最後までソックスのままって、さっき決意したんだし・・・。えーい、どうにでもなれ!私は職員室の入り口横に、その上履き入りの袋を置いた。ソックスだけの足に力を込める。ぎゅっと丸まった足先に向けていた目を上げ、職員室の扉を開く。
「失礼しします、教室のカギを返しに来ました。入室してもよろしいでしょうか」
いつものセリフを言い切ると、一番近くにいた、事務員さんが会釈をしてくれた。私はお辞儀をして、ソックスのままの足を職員室に踏み入れる。職員室の床は、教室と同じフローリング。でも、いくらか教室よりはきれいに見える。さすがにここを歩き回るわけにいかず、私は鍵をかけ終えると、すぐにそこを後にしようとした。しかし、出口に向かって歩き出そうとしたとき、不意に声がかけられた。
「おう、小野寺、いま、帰りか?」
「ふえ?」
振り返った先にいたのは、私のクラスの担任、葛城先生。若くて優しい、数学の先生だ。
「は、はい、そうですけど・・・」
「いつもお疲れ様。がんばってるな」
「あ、ありがとうございます・・・」
見られたくない。私の、足元。私は無意識に、ソックスだけの足をもじもじと隠そうとしてしまう。顔がうつむいて、真っ赤になっていくのを感じる。お願い、気づかないで・・・!
「じゃあな、もうおそいから、気を付けて、帰るんだよ」
「あ・・・はい、そうですね!失礼します!」
「うん、ばいばい」
私はそのまま逃げるように職員室を後にした。先生は気づかなかったのだろうか。とにかく、よかった。私は置いてあった上履きの袋を手に、靴箱への道のりを、心が晴れたような気分で歩いた。
「あ、小野寺さん、お疲れさま。今、帰り?」
靴箱に向かう途中、校舎の1階にたどりつき、あとちょっと、というところで、脇道から出てきた人影に、声をかけられた。真っ暗で、誰だかわからず、私はとっさに声が出なかった。
「だ、だれ・・・?」
「あ、ごめん、驚かせちゃって。僕だよ、池永勇馬」
近づいてきたその人は、確かに、同じクラスの池永くんだった。1年のころから同じクラスで、けっこうよく話す男の子のひとりだ。でも、まさか、いま、この瞬間に、会うなんて・・・!
「池永くん・・・?」
「そうそう。小野寺さん、今帰りなんだ?夜遅くまで、お疲れ様」
「あ、ありがとう・・・」
お願い、気づかないで・・・!私は再び、頬がほてっていくのを感じる。足をもじもじしてしまう。
「僕もいままで、部活だったんだ。陸上部はきつくて困るね」
「そうだったんだ、お疲れ様」
「・・・うわばき」
「え?」
とたんに、心臓がどくどくと高まってくる。
「上履き、持って帰るんだ?」
見られ、た?
「その袋、上履き入れでしょ?えらいなあ、自分で毎週洗ってくるの?」
「う、うん、そうだけど・・・」
「僕、持って帰っても、ひと月かふた月に一度だなあ。持って帰ると、忘れちゃうんだよね、週明け」
「そうなの?私は、ないけど・・・」
代わりに今、上履きなしで、歩いてるけど・・・。
「そうなんだ、やっぱり、小野寺さん、まじめで、几帳面、なんだね」
「そんなこと、ないよ、私も、面倒なこととか、後回しにしちゃうし・・・」
現にいま、こんなこと、してるし・・・。
「そうなの?意外だなあ・・・。あ、ごめんね、引き留めちゃって」
「ううん、大丈夫。池永くんも、もう帰るの?」
「うん、もうすぐ下校時間だし、早く出ないとうるさいからさ。・・・よかったら、送るよ、近くまで。方向、一緒だし」
「あ、ありがとう・・・」
どうしよう、靴箱まで一緒だと、今は暗くて見えなくても、私がソックスのままだって、ばれちゃうかも・・・。でも、断るのも、悪いし・・・。
「じゃ、いこうか」
「うん」
私はなるべく足元を見られないよう、池永くんの後ろをついて歩く。ペタペタ、という足音、彼には聞こえてないかな?大丈夫かな・・・。
靴箱につくと、そこの電気は消されて、真っ暗だった。自分の靴箱がどこかも、わからない。
「はい、見えないでしょ?」
そのとき、池永くんが、スマホのライトを照らしてくれた。まぶしいほどのLED。おかげで無事に、靴箱は発見できた。
「ありがとう、池永くん」
「ううん、それよりさ・・・」
「な、なに?」
いよいよか・・・。
「今度の土日ってさ、時間、あるかな?」
「え?」
「あ、ごめん、いきなり変なこと・・・」
予想とは全く違う質問に、私は思わずきょとんとしてしまう。でもとにかく、気づいていないらしい。私は素早くローファーを取り出すと、空っぽになった靴箱の扉を閉めた。
からんとローファーを地面に置き、ソックスの足をそのまま入れる。予定では、履き替えるつもりだったけれど、この状況ではできるわけがない。
「えっと、土日だけど・・・」
私はとりあえずまずい状況を回避し、落ち着いて質問に答える。池永くんは黙ってそれを聞いている。
「土曜は模試で、日曜はその復習に使いたいから、無理かな。どうして?」
私はこのとき、まったくその質問の意図を、理解していなかった。
「そ、そうなの?どっちも、無理?」
「うん、あいてない、かな。ごめんね」
「あ、ううん、急に変なこと、ごめんね」
「いいよ、気にしてない」
「そ、そう・・・」
その後、池永くんは、学校の最寄り駅まで一緒に歩いてきてくれた。彼に別れを告げ、私は一人、駅のホームに立つ。足元を見ると、先程まで校内を歩き回っていたソックスがある。足の裏、どれくらい真っ黒になったかな?私はそれを家で見ることが、楽しみでたまらなかった。
つづく