「はい、イス、あげますね。うがいをどうぞー」
僕は苦痛から解放され、まだ血の味がする口内を、しっかりゆすいだ。まだ高校生なのに、親知らずを抜くことになるなんて。早すぎることはないのだろうけど、もうちょっと心の準備がしたかった。ここは町の小さな歯医者さん。優しいと評判だが、実際の治療が痛いのは変わらない。僕も小さいころから、虫歯の治療や乳歯を抜くときによくお世話になっていた。ここに来るのは久しぶりだ。
歯を抜いた部分を舌で恐る恐るつついていると、向かい側の席に一人の女子高生がやってきた。僕の住む地域では誰もが知っている女子高の生徒。スカート丈は短いし、髪は染めて、栗色のストレート。背中の半分くらいまで伸ばしている。上はブレザー、それに足元は白いハイソックス。いまどき珍しい。確かこの高校だと靴下の色が選べて、大半は紺か黒を選択しているはずだ。中学で一緒で、高校をそこに行った友人の一人が、そういっていたと思う。じゃあ、目の前の彼女は少数派ということか。
虫歯だろうか、左ほほに手を置いて、しきりに撫でている。彼女の横の席では、小さな子どもが涙を流しながら、同様に虫歯の治療を行っているところだ。それを見て、女子高生はどこか怯えた表情。
女子高生は看護師さんに促されて、履いていたスリッパを脱ぎ、座席にぱふんと座った。スカートの中が見えないよう、布がかぶせられると、イスが倒された。イスが傾いていくごとに、彼女のソックスの裏が露わになってきた。特に注視していたわけではないが、一度見たら、もうそこから目線を背けられなくなった。今までの、清潔な感じとは裏腹に、真っ黒な足の形が、その白いソックスの足裏に浮かび上がっていたのだ。歯医者さんではスリッパを履いていたから、ここでの汚れではない。では、学校か。今日へ平日だし、時間も、ちょうど高校が終わって、来たという頃あいだ。この汚れは、彼女が学校で過ごしている間についたものなのだろう。でも、普通に過ごしていただけでは、こんなに汚れることはないのではないだろうか。それこそ、ソックスのまま、校内を歩き回らない限りは、こんな汚れは・・・。
「はい、じゃあ虫歯を治療しますね、痛かったら、右手をあげてください。いいですか?」
僕もさっき聞かれた、この質問。実際、麻酔をかけていたのだろうが、痛くて痛くて、始終手を上げていた記憶がある。でも、先生はやめようとしなかった。ひどいものだが、我慢も必要なのだろう。
彼女はこくりとうなづいて、治療が始まった。キュイイイーンという耳障りな機械音。その音を立てる治療器具が彼女の口内に入ろうというとき、彼女はぱっと右手を上げる。わかる、この気持ち。まだ触れてないけど、恐怖でどこかが痛むんだ。
しかし、看護師さんが、その手を下してしまった。素早く口内に侵入する器具。キュイイイーンという音が診察室に響く。彼女を見ていると。足をもぞもぞ、汚れたソックスの足裏がもにもに動いている。僕は思わずドキドキしてしまった。足の指がくねくねとまるで小動物のように動いている。彼女はあまりの痛みに手を上げるのも忘れ、足を始終くねくね、もぞもぞさせていた。
「はい、終わりましたよ、お疲れ様でした。イス、あげますね、うがいをどうぞー」
耳障りな音がやみ、彼女の足の動きも止まった。相変わらず真っ黒な足裏がこちらを向いている。イスが上がりきる前に、彼女はいそいそとコップの水を口に含んで、うがいをした。何度も、何度も。それからまっすぐ向き直ったとき、僕とばっちり目があってしまった。僕はとっさに視線を逸らしたけれど、気になって、またそちらを向く。彼女は相変わらずこちらを向いていて、にっこりとほほ笑み、ピースサインを出してくれた。やったぜ、とでも言っているかのように。僕は突然のことに戸惑ってしまったが、同じように、ピースを返す。
彼女の治療はそれで終わりのようで、僕より早く席を立って、スリッパを履いて、僕にバイバイと手を振って、行ってしまった。足裏の汚れの理由を聞きたい気持ちは山々だったが、そんなことできるわけがない。まあ、あれでよしとしよう。それにしても、僕はずっと待っているのだが、先生は一向にやってこない。どうしたのだろう。
「あら、もう、帰っていいですよ。さっき言いませんでしたっけ?」
「へ?」
見上げると、僕の隣に、怪訝な顔をした看護師さんが立っていた。
おわり