「バイバイ、マリー、また明日!」
「うん、バイバイ!」
ドアが閉まると、私の乗った列車は静かに動き始めた。車内を見渡すと、座席はガラガラ。乗っている人は、私のいる車両には、あと1人、2人、3人だけ。私は近くの対面長椅子によっこいしょ、と腰掛けた。学校の最寄り駅から30分くらい、立ったまま友達と話が弾んでいたが、1人、また一人と降りていって、私1人になると、急に疲れを感じてきた。それもそうだ。学校が閉まるギリギリの、夜の7時半まで、私は吹奏楽の練習をそのお友達としていたのだ。大会が近く、少しでも長く、楽器を触っていたかった。パートは、トランペット。友達もいっしょだ。
列車は次の駅に止まった。私の降りる駅はもうちょっと先。というか、今乗っている列車の終点だ。この駅では私以外の3人が降りて、私のいる車両には、私以外の人はいなくなった。隣の車両を見てみると、同じように、だれもいないように見える。
 だれも見てないかな・・・。私は履いていたローファーを脱ぎ、白いソックスに包まれた足を解放した。学校内は土足制で、上履きに履き替える手間はないけれど、一日中ローファーを履いていると、やはり足はきつくなる。特に今は気温が高く、解放された足に当たる冷房の風が心地いい。学校にいる間は人目を気にしてこんなことはできないけれど、今なら、大丈夫、だよね・・・?私は床に両足のローファーを揃えておき、ソックスのままの足を床に置いた。ひんやりとした床の感触が、ソックスを通して伝わってくる。気持ちいい・・・。そのまま一気に伸びをする。足は床を滑り、おしりが椅子から落ちそうになって、あわてて体制を立て直す。ふう、あぶないあぶない。靴を脱いだまま、私は窓の外を見ていた。といっても、真っ暗で何も見えない。そうしているうちに、列車は次の駅に止まった。扉は開くけれど、乗る人も降りる人もいなかった。扉が閉まって、列車は発車する。終点まで、あと少し。
 疲れたなあ。明日は土曜。学校はお休みだけど、部活は一日中ある。大変だけど、楽器を吹くのはやっぱり楽しい。私は誰もいないのをいいことに、大きなあくびをして、目を閉じた。終点まで30分くらいだし、一眠りできそうだ。
 どしん。あ、いた。
「いててて・・・」
急な衝撃で目が覚めた。お尻が痛い。しばらく考えて、座席から落ちたのだと気付く。わあ恥ずかしい・・・。しりもちをついて、靴を脱いだ足は前に投げ出されている。その靴は、列車前方に無造作に転がっていた。列車の揺れで動いていったのだろうか。私は痛むおしりをさすりながら、立ち上がって伸びをした。その瞬間列車が揺れて、前に倒れ掛かる、あ、危ない!と、その瞬間、誰かが私の体を受け止めた。2本の腕が、やさしく私の体を包む。
「大丈夫か?無防備すぎるだろ、ちょっとは周りを見とけよな」
頭の後ろで、聞いたことのある声がする。横を向くと、私の目線に彼の胸元があった。夏用の半そでシャツ。学校の校章がポケットについている。
「マサト・・・って、きゃあ!なに、触ってるんですか!?」
「おいおい、助けられれててきゃあはないだろ、礼ぐらい言えよ、マリー」
「あ、そ、そうですね、ありがとうございました」
助けてくれたのはうれしいけれど、こんなに近くにに居たってことは、今までの全部見られてた!?恥ずかしい!!
「おい、なんだよ、その他人行儀な敬語は。タメだろ?幼馴染だろ?」
そこにいたのは、確かに、幼馴染のマサトだった。同じ吹奏楽部で、彼はチューバを担当している。
「な、なんでマサトがいるのよ・・・いるんですか?」
「部活の帰り。一緒だったろ、練習?だから敬語やめろって」
「だ、だって、なれなれしくするなって、この前・・・」
「あ、あれはだな、その、なんだ、マリーにあんなにくっつかれたら、そりゃ、その、気にするだろ、みんな、付き合ってるんじゃないか、とか・・・」
「そ、そんなの、そんなわけないじゃない・・・」
確かに、いままで幼稚園から小学校、中学校、高校と一緒だったマサトだったから、同じ部活になって、うれしかったのもあったけど、ちょっと親しくしすぎたのかな・・・。
「そっか、じゃ程よく、話とかしとけばいいのよね?」
「そ、そうだな、程よく、だ」
「わかった」
「それより、もうすぐ終点だぞ、降りる準備はいいのか?」
「え?そうなの?」
その時聞こえたアナウンス。間もなく、終点の・・・。
「やば、急がなきゃ!」
座席に散らばっていた荷物を片付けていると、足元がやけにひんやりすることに気づいた。ふと見下ろして、ようやく気付く。
「靴!」
車両前方に転がっていたローファーを、ソックスのままペタペタと取りに行くのと、列車の扉が開くのが同時だった。私は慌ててローファーを手に持ち、荷物を持って、列車を降りた。今思い返すと、私、なんて恥ずかしいことしてたんだろう。もし寝てる間に、ほかのお客さんが乗ってきてたら・・・。あんなの、誰にも見られたくなかった・・・!マサトにも・・・。頬を真っ赤にしながらホームで靴を履いていると、マサトがゆっくり降りてきた。恥ずかしくって、顔も見られない。
「ったく、リラックスしすぎなんだよ、ほら、これ」
何かを差し出すマサト。ちらとそちらに目を向ける。
「なに?・・・あ!」
「網棚なんかに載せるから忘れるんだよ。手に持っとけ、ていうか、抱きしめとけ。・・・大事なやつなんだから」
マサトが手渡してくれたのは、トランペットが入ったケースだった。うっかり置き忘れていた。もし気づかず帰ってたら・・・。明日からの練習、どうなっていただろう。学校に予備の楽器はもうないのに。
「マサト・・・、ありがとうっ!」
私は思わずマサトに抱き付いていた。まだかかとを踏んでいたローファーが、衝撃で地面に転がった。
「ちょ、おまえ、やめろって・・・」
そう言っていたマサトも、あながちいやではなさそうだった。ふっと息をはいて、マサトは言った。
「明日も練習、頑張ろうな」
「うんっ!」
人気のない終点の駅には、まぶしいほどの電気をつけたままの列車が、帰りの行き先方向幕を掲示して、静かに止まっていた。

おわり