"今日の昼休み、屋上へ来てください。待っています。ココア"
そのたった30文字しか書かれていなかった手紙を、僕はその日一日中、何度も何度も読み返していた。今ならその文面を諳んじて言える。今朝、いつものようになんの変化もなく一人で登校した僕は、いつものように、なんの考えもなく、靴箱の蓋を開けた。あるいは、今日の昼休みはどうしようかななどと考えていたかもしれない。とにかくその中から上履きを取り出した僕は、一緒に落ちてきたものに、最初気がつかなかった。履いてきたスニーカーを取り上げようとかがんで初めて、その存在に気がついた。宛名は僕。裏返しても、差出人の名前はない。僕の名前は珍しく、おそらくこの学校に同姓同名の人はいないだろう。というわけで、僕宛ということだから、多分読んでも大丈夫だろう。そう思って、僕はその手紙の封を開けた。そして飛び込んできたのはあの文面。僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。これは、果たして、なんだろう。僕を昼休みに屋上に誘うなんて、一体何をするんだろう。差出人の名前から判断すると、おそらく女の子。でも、僕の知っている限り、僕のクラスにココアという女の子はいなかったはず。だとしたら、他のクラスかな?いろいろとわけがわからないぞ。そんなわけで、僕はそれから昼休みまで、ポケットに入れたその手紙を、ことあるごとに取り出して、何度も読み返していたのだった。
4限目の授業が終わると、昼休みに入る。僕は一人、購買部でパンを買って、屋上へと向かった。まだ半信半疑だった。きっと誰か男子のいたずらだろう。だって、こんな僕と会いたいなんて女子がいるはずがないじゃないか・・・。暗いし、友達もいないし・・・。話しても楽しくないし。頭の中に希望と否定を混ぜ合わせ、僕はいつの間にか、屋上へとつながる階段の最上段に立っていた。目の前にあるのは、鉄製の重たい扉。これを開けば屋上へ出ることができる。鍵は普段からかかっていないらしい。僕は左手にさっき買ったアンパンと焼きそばパンを持ち、右手でノブを回した。途端に隙間から強い風が吹いてくる。力いっぱい扉を押して、なんとか屋上に出た。
頭上には雲ひとつない快晴の空が広がっていた。日差しはこの季節にしては暖かい。僕は階段をあと数段登ると、そこにいた人影を視界にとらえた。やや茶色がかった長く伸ばしている髪が、風になびいている。彼女は、僕に背を向けて立っていた。身長は僕より低い。痩せ型で、ちょこんと立っているという感じの女の子だった。屋上には、僕と彼女しかいなかった。彼女が、ココアさんだろうか。なにか声をかけたほうがいいだろうか。でもなんて声をかけよう。アレヤコレヤと考えているうちに、ふいに彼女が振り向いた。彼女の後頭部を見つめていた僕とバッチリ、視線がぶつかる。顔立ちは幼げで、可愛かった。まるで妹みたいだった。彼女は僕から一旦視線をそらし、ためらいがちに下をむいて、また顔を上げた。再び見えたその顔には、何かを決意したという雰囲気が宿っていた。彼女は静かに僕の方へと歩み寄ってくる。漂う威圧感。僕はついつい後ろへ下がる。やがて彼女は僕の目と鼻の先で止まった。僕の後ろにはフェンスがあって、もうこれ以上下がれない。彼女は頰を朱に染めて、困ったような顔をして、口元に手を置いていた。僕の目線のちょっと下にそんな彼女の顔がある。何を迷っているのだろう。僕にはこの状況が、何が何だか全然わからない。こうなった以上、ここからは彼女に任せるしかない。なにか怒るのなら、なんなりと怒ってくれてかまわない。すぐにでも謝ろう。
彼女はためらいがちに、顔を上げ下げ、もじもじを繰り返す。僕は緊張でドキドキ。お互いに言葉のないまま、初対面から長い時が経っているように思えた。いつしか風で彼女の髪はボサボサになっている。直してあげたいけれど、手を出したら叫び出されそうでできない。
やがて彼女は、大きくひとつ息をついて、冷たい空気を取り込み、暖かい空気を出した。そして彼女はやや大きめのブレザーから、彼女自身のように小さな箱を取り出すと、両手でそれを僕に差し出した。かすかに震える手と小箱。頭を下げていたから、彼女の表情はわからない。けれど、彼女は全身が震えていた。僕はそこで今日の日付を思い出した。男子も女子もみんながそわそわしていた今日という日。そっか、そういうことか。僕なんかに、こんなもの、くれる人、いたんだ。僕は未だ震える彼女の手から、小箱をそっと受け取った。上がった彼女の顔は、驚きと安心感とでいっぱいという感じだった。僕はというと?口の中がカラカラに乾き、心臓は未だばくばくと鳴っている。僕は、「ありがとう」と、やっとのことで絞り出した。そして笑顔になる。声を出すと、自然にできた。聞こえたかどうかはわからないけれど。すると彼女も満面の笑みを浮かべて、ぺこりとお辞儀をした。そしてなにも言わずにペタペタと走り出した。階段を降りていく彼女の姿はすぐに見えなくなってしまった。やがて、扉の閉まる、ガチャンという音が、僕一人になった屋上に響きわたる。
一人残された僕は、小箱を開いてみた。風がうっとおしい。でもまだなんとなくその場にいたかった。箱の中身は、小さなハート型のトリュフチョコレートが2つと、小さな手紙。そこには几帳面な字で、彼女の電話番号とメールアドレスと思われる、数字とアルファベットの文字列があった。・・・今日、家に帰ったら、メールでもしてみよう。まだ彼女の声も本名も聞いていないことに、僕は今更ながら気がついた。そのメモは、風で飛ばされないように、ブレザーのポケットに入れた。
それから僕はトリュフチョコレートのひとつをつまんで、口に入れた。柔らかいそれは途端にとろけて、すぐになくなってしまった。甘くかわいい味だった。僕は2個目に手を伸ばしながら、ついさっきの記憶の中の彼女の姿を思い浮かべた。上履きを履かない白ソックスだけで風の中に佇んでいた彼女。チョコレートを渡す、あの儚げな存在。そのソックスのままで、ペタペタと階段を降りていった彼女。彼女となら、きっとうまくいけると、僕は思った。2つのチョコレートは、僕の口の中ですぐに消えてしまったけれど、甘く苦いあの味と彼女の姿は、いつまでも僕の中に残り続けていた。


終わり 5/10一部訂正