「ただいまー・・・」
私は玄関の鍵を閉めると、大きくため息をついた。今日は思えば最悪の日だったかもしれない。履いていたスニーカーを脱ぎ、白ソックスのまま家の廊下を歩く。そのまま2階の私の部屋へ。お父さんは仕事に出ていて、帰りは遅い。朝からアルバイトに出ていたお母さんは、晩ご飯を作っているようで、ミネストローネのいい香りが家を包んでいる。高校生のおにいちゃんはすでに帰っていた。
部屋に入ると、私は重たいカバンを置き、体操服の入ったカバンをぽいと投げ置くと、絨毯の敷かれた床の上にちょこんと座った。校則に違反しない程度に調節したスカートの裾をちょっとめくってみると、そこには予想以上の異常事態が。
「ま、真っ黒・・・」
そこにあるのは、私の白ソックスの足の裏。しかし今私が見ているそれには、もはやその面影はなく、足の形に真っ黒な汚れがこびりついていた。スカートからその足を引き出し、両足を並べて見る。左右対称に、見事なまでに真っ黒な白ソックス。生まれて初めて、こんなにソックスを汚してしまった。土踏まずと指の間にわずかに残った白っぽさが、かろうじてそれが元は白ソックスだったことを物語っている。
私はブレザーのポケットから自分のスマホを取り出すと、一枚、パシャリ。次は自分の顔も入れて。ピース。
改めて写真で見ても、その黒さは際立っている。そのままじいっと、そのソックスを見ていると、私の中で何かが弾けるのを感じた。学校であったいろいろなこと。そのどれもが、今になって快感だった。真っ黒になった、自分の白ソックス。それをもう一度みると、もう嫌悪感は感じなかった。
「そうだ、そういえば、おにいちゃん・・・」
私は最近、おにいちゃんからノートを借りていた。その中に挟まっていたものを、私は覚えている。私は机の上からそのノートを取って、挟まっていたものを取り出した。タイトルは、「上履きを履かないあの子」。その内容は、とてもいつものおにいちゃんとは思えないほど、偏ったものだった。私は思う。おにいちゃん、私みたいな、上履きを忘れた女の子が、好きなのかな?私はそれを確かめようと、もしそうだったら、少しでも慰めてもらおうと、おにいちゃんの部屋に向かった。
結果は、予想通りのものだった。私はおにいちゃんの要求通りに動き、私も慰められたし、おにいちゃんも満足していたように思う。お風呂に入って、遅いご飯を食べると、私は綺麗になった足で、再びおにいちゃんの部屋に入った。そういえば、さっき私の真っ黒なソックスをここに忘れたはずだけれど、どこにいったのだろう・・・?
「じゃあ、今日のこと、話してくれる?」
おにいちゃんは床に座って、私もテーブルを挟んで座った。おにいちゃんとこんな風にふたりきりで長く話すのは、久しぶりのことだ。
「うん、わかった、じゃあ、朝のことから、話すね」
私はおにいちゃんの期待に応えようと、努めて詳しく、その日1日のことを話し始めた。
その日は朝から暖かかった。5月の初旬というこの季節は、ポカポカ陽気が気持ちいい。朝も暖かで、私はなかなかベッドから起き上がれずに、やっと決心がついた時には、いつもより1時間遅かった。お母さんもお父さんももう出かけていて、私は一緒に寝坊したおにいちゃんと、用意してあったトーストを突っ込んで、身支度もほどほどに、昨夜準備していたカバンを持って家を飛び出した。駆け足で15分。なんとか始業前に学校に辿りつくことができた。私が重要な忘れ物に気づいたのは、自分の靴箱の前に立ったそのときだった。
(う、上履きがない!)
私は空っぽの靴箱を見て、心の中で叫んだ。周りにはやはり遅刻ギリギリで、急いで校内へ駆け込んで行く人たち。その誰もが、上履きをつっかけて走っていく。
私は考えた。先週のこと。私は一ヶ月ごとに上履きを持って帰って、洗うことにしている。今日は5月の初めての登校日。だったら、先週は、間違いなく私は上履きを持って帰っている・・・。
私は泣きそうな気分だった。どうしよう。今日1日、校内で履くものがない。土足なんて許してもらえないし。靴のまま上がるのも憚られる。そんなことをうじうじ考えていると、ついにチャイムが鳴り出した。このチャイムが終わるまでに教室に入っていないと、遅刻扱いになって、ペナルティが課されるのだ。私はとりあえず今は、と諦めて、履いていたスニーカーを脱ぐと、白ソックスだけの足を床につけた。意外なほどに冷たかった。デザイン重視で、寒さや冷たさからは足を守ってくれないソックス。私はなるべく足裏を汚さないように、爪先立ちで校内へと立ち入った。ペタペタと急ぎ足で廊下を進み、階段を登る。いつもは無視するような埃の塊も、今日はやけに目に入る。爪先だけをちょこちょこと階段にのせながら、最上階へと急ぐ。階段が終わる頃には、普段からの運動不足が祟って、すっかり息が上がっていた。その頃になると、爪先立ちのままでいる気力もなく、足の裏全体を、冷たい廊下につけて歩く。掃除にあまり真面目じゃない私の学校。それに土日と祝日を挟んで先週は新学期試験があって、思えばここ1週間以上まったく掃除をしていない。廊下に視線を落とすと、至るところに埃がつもり、ソックス越しにザラザラとした感触が伝わってくる。私は再び泣きそうになるのをこらえながら、ようやく自分のクラスにたどり着いた。
とっくにチャイムは鳴り終わっていたが、まだ先生が来ていなかったため、ラッキーなことに私は遅刻を免れた。窓際の真ん中の列にある自分の席につくと、どっと疲れが出てきた。ソックスだけの足を机の棒にのせて、机に突っ伏す。そんな私の脇腹を誰かが突く。とたんに飛び起きる私。脇腹は弱いのだ。
「おっはよ~、ヒナ!危なかったね!」
私の親友、ココロちゃんだ。
「おはよー。走ってきたから、疲れたよ・・・」
「それよりさ、ヒナ、上履きどうしたの?」
ココロが机の下を覗き込んで、尋ねる。私は指をクネクネ動かしながら答える。涼しい風が上履きを履いていない私の足を撫でた。
「上履き、先週持って帰ってたの、忘れてたんだ。で、今日どうしようかなって」
「ウソ~、上履き忘れ?珍しいね、ヒナが」
「初めてだよ。ねえココロ、上履き貸して?」
「だめだよ、これあたしのだもん。いくらヒナでも、無理です。ごめんね」
「どうしよう・・・」
「まあ今日くらい、いいんじゃない?我慢して、また明日、持ってこよ?」
「今日がダメなんだよ。汚いし、冷たいし、恥ずかしいし・・・」
そう言って、私は棒に置いていた足を椅子に乗せ、正座の姿勢をとった。きっと汚れているだろう足の裏は見られないように、しっかりスカートに隠す。
「大丈夫!あたしがサポートするから!」
ココロがポンと、ややふくらんだ胸をたたく。
「ホント?」
「うん!」
「うーん、じゃあ、頑張ろうかな・・・」
「よしよし、それでこそ、ヒナだよ!」
ちょうどそのとき、副担任の羽田先生が入ってきた。まだ若くて、独身の36歳の男の先生。担当は数学で、女子からの人気がすごく厚い。私も結構好きな先生。みんなからはハタちゃん、ハタちゃん、と呼ばれている。
今日は担任の先生が出張だということで、1日ハタちゃんが担任だ。・・・私も結構仲良くしているハタちゃんなら、上履きどうにかしてくれるかも!私はそう考えて、ホームルーム後すぐに、先生の元へ。ペタペタと音がして、恥ずかしい。
「ハタちゃん先生!」
「ん?ああ、高島さん、おはよう」
にっこりと歯を見せて笑うハタちゃん。私は礼儀正しくお辞儀で応える。
「おはようございます」
「どうかした?」
「それが・・・」
いざ先生と一対一になると、なかなか恥ずかしくて言い出せない。上履き忘れましたって、小学生じゃないんだから・・・!
「あー、えーと、な、なんでもありません!」
私は結局、顔を真っ赤にして、先生の元から逃げ帰ってしまった。もう顔も合わせられない。ああ、もう。これで今日一日、靴下生活確定だ。
その日の時間割も、なかなかひどいものだった。6時間授業のうち、4時間は教室移動がある。まず初めに、理科室での理科、一旦教室に戻って、2時間目はハタちゃんの数学、3時間目は音楽室で音楽、4時間目は体育館で体育、給食、お昼休みを挟んで、5時間目は教室で国語、最後が講堂での総合学習。今日は2年生でのカリキュラムの説明だ。
一日中学校内を歩き回らなければならない。また、授業の後は音楽準備室で吹奏楽部の練習も待っている。ソックスは一日もつだろうか?そうしている間にも、1時間目の授業が後5分で始まる。私は急いで、理科室へと走り出した。
つづく