そこには、先客がいた。
僕はいつも、昼休みになると、ざわざわとする教室も、校舎も抜け出して、そこから離れた学校の裏庭にある、一本の木の下に行くことにしていた。季節は晩夏。新学期が始まって間もないが、学校はやれ試験だ、やれ体育祭だと、忙しい。そのどれにも興味を見出せない僕は、いつも一人、席に座って本を読んでいた。図書館から借りて来るもので、作者もジャンルも適当に、タイトルをみて気になるものを選んでくる。いま僕が読み進めているのも、なかなか面白い長編だった。

いつもその場所には誰もいない。それもそのはずで、そこはフェンスを一つ乗り越えた場所。人目にもつきにくく、のんびり、静かに過ごすには最適の場所だった。

だが今日に限っては、そこに一人の女の子がいた。芝生の上に寝転んで、四肢を投げ出し、気持ちの良さそうに木陰で眠っているようだった。校則ちょうどのスカートが、風にさわさわとゆれ、真っ白いハイソックスには、草や枯葉がくっついていた。

どうしようかと、戸惑った。このまま帰ろうか。いやでも、そうなると僕は、昼食を食べられなくなってしまう。仕方ない。端っこで、起こさないようにして、ほそぼそと食べて、それからどっかに行こう。いつもなら、予鈴がなるまで、ここで本を読んでいるんだけど。

僕はその子を起こさないよう気をつけながら、木陰の隅に腰を下ろした。改めて見ると、女の子には疎い僕がみても、可愛いと感じる子だった。長く伸ばした髪はそのままに、芝生の上に広がって、まつげは長く、鼻は高い。眉は細くて、唇はぷるんとして、ほおはふっくらとしている。どこか日本人離れしているようにも見える。

その時だった。それまで眠っていたはずのその子が、突然目をパチクリ開き、それまでじっと見つめていた僕の目と、バッチリ合った。

「うわ!ああ、ご、ごめんなさい、起こしちゃって・・・」

「・・・・・?」

その子はむくりと起き上がると、うーんと大きく伸びをした。髪はボサボサで、制服のブレザーには草がたくさんついている。

「あなた、どうしてここにいるの?」

透き通るような声だった。彼女のその雰囲気にピッタリ一致するような。僕は突然、鼓動が早まるのを感じていた。彼女はいまも、僕をじっと見つめている。

「えっと・・・、お昼を、食べに」

頭をかきかき、ドギマギしながら答える。なんだろう、この気持ち。

「ふうん。じゃあ一緒に食べよ?あたしも、お腹すいちゃった」

そう言って彼女は、傍らに置いてあったバッグの元に、四つん這いで近づいた。その時に見えたソックスの足の裏は、その白さとは対照的に、茶色く足の形に汚れがついていた。もしかして、ここまでソックスのまま来たのだろうか?そんな無頓着な子には、見えないのだけれど。それにここは校舎の裏。歩いてくるには、ソックスのままというのは、少々おかしい。

「ほら、君もおいで」

「う、うん・・・」

僕は言われるまま、彼女の隣に腰を下ろし、弁当を開いた。白いご飯に赤い梅干し、黒いゴマ。おかずは黄色い卵焼きに、野菜炒め、豚の生姜焼き、ひじきの煮物だ。毎日、母親の作るお弁当はすこぶるうまい。

「へえ~、おいしそう。一口、ちょうだい?」

僕が弁当を開いた瞬間、彼女が生姜焼きを一枚、端でつまんだ。

「ちょっと・・・。まあ、いいけど・・・」

「んま!うまいね!あなたが作ったの?」

「ううん、僕のマ・・・ごほん、お母さんが・・・」

「くすくす・・・。そうなんだ?それじゃ、お礼にこれ、あげる」

そう言って彼女が僕の弁当箱に入れたのは、一つのミートボール。

「それ、カレー味でちょーおいしいよ。食べてみて?」

「あ、ありがとう・・・」

うん、確かに、マイルドなカレーの味と、肉の味がうまくマッチしてる。

「これ、君が作ったの?」

「まさかあ。レトルトよ、レトルト」

なんだ、そっか・・・。

それから僕たちは時たま会話を交えながら、木陰でゆっくりと、昼食をとっていた。それが終わると、彼女が訊いてきた。

「あなた、お名前は?」

そういえば、まだお互い、名乗ってもいなかった。

「あ、えと、漆原慎太郎です」

「漆原くん?ふんふん。あたし、橘カリン。よろしくね」

なんとも女の子らしい、可愛い名前。それから僕たちはごく自然に握手をかわした。それから再び並んで腰を下ろした。そういえばさっきから、彼女、橘さんの靴が見当たらない。

「あなた、漆原くんは、よくここに来るの?」

橘さんが膝を抱えて座り、僕に訊いた。

「うん、毎日。雨でも降らない限りは、ここでごはんを食べてるよ」

「そうなんだ。あたし、ついこの前、放課後に探検してたら、この場所、見つけたの。入りづらいけど、いい場所よね」

「そうだね」

「ああ~、見つけたの、あたしが最初だと思ったのにな。残念」

「僕は入学してすぐ、探検してね、一人でゆっくり過ごせる場所が、欲しくて」

「一人?じゃあ漆原くんは、友達、いないの?」

「うん。いない。それに、あんまり必要性を感じない」

「そ・・・か」

その時、僕には心なしか、橘さんが初めて、哀しげな顔をしたように見えた。

「あたしね、友達、いないなんて、いままで考えられなかったの。でも、一人になって初めて、それもいいかもって、思った。一人になって、さっきみたいに、ただじっと眠っているのも、いいかもって思った」

「一人に、なったの?」

「・・・うん」

「そう、なんだ・・・」

僕には想像もできないことだった。第一、僕はずっと一人だったから。・・・ううん、違う。僕にも、昔・・・。

「・・・あたしが、いけなかったの。あんなこと、言っちゃったから・・・」

僕はどうすればいいんだろう。僕の隣にいるこの橘さんが、こんなに哀しげな顔をしている。

「・・・きっと、大丈夫だよ。謝ってきなよ。きっとその子も許してくれる。だって、君、そんなに反省してるじゃない」

僕はそう言って、ちょっと照れ臭くなって、空を見上げた。雲ひとつない青空が広がる。心地よい風がどこからか吹いてきて、僕たちを優しく撫でた。

「そうかな・・・。うん。わかった。やってみる。いまから、謝ってくる。きっと、許してもらえるよね」

「うん。がんばって。ここに座って、応援してる」

「漆原くん、ありがとう。なんか、勇気がでた。ありがとう!」

そう言って橘さんは、その場に立ち上がると、体についた草を軽く払うと、白いソックスのまま、芝生の上を駆け出した。やっぱり、靴はもともと履いていなかったのか。・・・なぜだろう?

その時、僕の隣に置かれた、可愛らしいお弁当箱の包に気がついた。橘さん、忘れて行っちゃった。・・・気づいて戻ってくるだろうか。いや、それはないかもしれない。きっとすぐに仲直りして、僕のことは忘れてしまうだろう。この場所のことも。後で忘れ物ボックスにでも入れておこう。迂闊にも、彼女のクラスを僕は聞きそびれていた。

僕は時計を確認して、まだ時間があることを知ると、また木陰に寝転んだ。橘さんは、仲直りできただろうか。どうして靴を履いていなかったのだろうか。いろんな疑問が頭をもたげるが、僕は次第にうつらうつらしてきた。眠ってはいけない。次の授業に遅れる、と思いながら、僕は眠りに落ちて行った。

く、苦しい・・・。ふぐ。僕は突然の呼吸困難に陥って、目が覚めた。見ると、さっき帰ったはずの橘さんが、ニコニコして僕を見下ろしていた。僕は起き上がると、大きく息をした。

「ごめんね。なんか気持ち良さそうにな寝てたから、起こしたくなっちゃった」

「うん。いい寝覚めだったよ。・・・どう、だった?」

「うん、だめだった」

「え?」

「ぜったい、許さないって、言われちゃった。あたしね、その子に、上履きを没収されてるの。ひどいこと言ったバツだって。・・・友達って、難しいね」

上履きを履いてないのは、そんな理由なのか。

「・・・まだその子のこと、好きなの?」

「好き?うん。友達として、あたしは、大好き」

「・・・じゃあさ、気長に、待つしかないよね。君がそうなら、その子も、きっと、君のこと、大好きなはずだから」

「漆原くん・・・。あなた、すごいのね。どうしてそんなに、わかっちゃうの?」

「僕も昔は、いっぱい友達、いたんだ。でも、なかなかうまくいかなくなって、いまではひとり。」

「そっか・・・。でも、あなたみたいな、ステキな考え方をする人、あたしは、好きだな」

僕ははっとして、橘さんを見た。彼女はにっこりと微笑んでいた。僕は恥ずかしくなって、思わず目をそらした。

「ねえ、もしあなたが良かったら」

橘さんは立ち上がって、

「友達に、なってくれないかな」

風に髪をなびかせ、言った。僕も立ち上がって、橘さんに並ぶ。

「うん。君が、いいのなら」

「またそんなこと言って。それじゃ、よろしく」

そう言って、橘さんは僕に手を差し出してくれた。その手を、恐る恐る握る。

「・・・あたし、オトコのコの友達って、初めてなんだ」

「僕も、オンナのコの友達、初めて」

なんだかそわそわして、僕は木を見上げた。いつからあるのかわからない、立派な鈴懸の木。

「わたしね、もう上履き、履かなくてもいいかなって、おもってる。なんだかこれも、気持ちいい。こうして草の上を歩いてると、自然と一緒になった気がするの。本当よ」

僕は振り返って彼女を見た。木陰で、白いソックスだけを足に履いた橘さんは、そのソックスのまま、芝生の上を駆け回っていた。確かに、それもいいかもしれない。

「ねえ漆原くん。次の授業、一緒にサボっちゃお?」

「・・・うん、いいね」

「やった。じゃあさ、一緒に、走ろうよ。あたし、ソックスだから、速いんだよ」

そう言って橘さんは鈴懸の木の周りを走り出した。僕も一緒に、くるくる走る。遠くでは、授業の開始を知らせるチャイムが、清々しくなっていた。



終わり